一週間のヨーロッパ(5)Leonardus,magus magnus

八月十二日
 ヴィチェンツァの街はstaticだ、とフランチェは昨夜絞り出すようにことばを選んで批評していた。京都や金沢に住むひとが感じるのと同じことを彼もまた感じ取っているのだろう。しかし息苦しいほどに街・生活・精神のスタイルが馴致されきった土地に棲んでこそ伝統を更新するエネルギーもまた得られるのではないだろうか。東京のようなパンデモニウム(これは川村二郎の形容)で真に創造的な活動がどこまで出来るものか、とつい疑ぐってしまう。フランチェのstruggleに期待する(ちなみにフランチェは職人)。

 それはさておき、軽薄短小無責任なる旅行者にとって、少なくとも快適に過ごすという意味においてこういう性格の街はまことに有り難いもので、駅前の公園からすぐのホテル、立地が立地だけに街並みを味わうというわけにはいかなかったものの、瀟洒なつくりでしかも水回りの設備がきちんと整っており、気持ちよく一晩を過ごすことが出来た(クーラーもよく効いた)。翌朝の朝食もたっぷり。ハムやチーズはまあまあながら、トマト・果物・ヨーグルトが旨かった。給仕の爺さんも陽気・親切でよろしい(石山のM屋、見習うべし)。しっかり充電しておいて、ミラノに出発。二時間あまり、車窓をじーっと眺めていた。ガルダ湖の水、立ち並ぶ糸杉、枯れかけた玉蜀黍、日本に比べるとかなりゆるやかな傾斜が長々と続く山並みなどが印象的だった。

 まるでビジネスマンみたいにあちこちの都市を駆けずり回っている具合だが、この日は芒男が『最後の晩餐』の見物予約をしてくれていたのである。閑雅なヴィチェンツァからすれば嘘のような大都会のミラノに着くと、そのままタクシーでホテルに荷物を放り込み、続けてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。運転手は長髪・タトゥーですこし体臭の強いあんちゃん。気さくで親切に応対してくれたが(比較社会・文化論は極力控えるようにしたいが、日本のタクシーの運転手はこの点では少なくともクズみたいな連中が多い。客がどんなけ大きな荷物でふうふういってても要求されるまでトランクを開けようとしない)、じつはその前、若い女のドライバー(前歯についたタバコの脂が目立つ)の車に乗った、正確には乗りかけた時にはずっこけた。というのは、こちらが地名とホテルの名前を告げてもさっぱり道が分かんないらしく、周囲の運転手仲間にさんざん訊ねたあげく、発進させようとするとバッテリーが上がってしまっている。観光都市で朝からそんなんで大丈夫かいな。まあイタリアに来てるゆう気分はしますわな。芒男と顔を見合わせて苦笑する。実はこのタクシーで失態を演じていたのだったが、それに気づくのはこの日の夕方のこと。

 教会着。ここでも芒男とは別行動である。意外と少ない人数で壁画がある修道院元食堂に移動する。イタリアに来てから、隣国の団体がうんざりするほど目に付いたが、ここでは日本の大学生グループが多かった。みなどこやらの人々とは違って、繊細でこざっぱりしたなり、かつ油断と隙が大売り出し中ですよー、という雰囲気を振り散らしているが、こちらにとっては大声で話さないでくれるだけでも有り難い限り。ひんやりと仄暗い元食堂でゆったり見物することができた。

 しかし世界で最も有名な絵画の五つに(それとも三つ?)必ず入るような作品を前に、研究者でもないこちらが何を言うことがあるか。ただ、やっぱり弟子の裏切りを予言するイエスの倦んだような熱に浮かされたような妙な表情と、こちらも同様に驚愕のあまり人事不省になってるのか性的恍惚でぐったりしてるのか分からない「愛弟子」ヨハネの表情が、やけに印象的。美的技巧はそれとして、なんとなく引っかかるのである。街ですれちがった女の視線がなぜだかいつまでも心に掛かって仕方ない(魅惑されたのではない)ように。

 頭上に「?」の雲を湧き立たせたまま部屋を出て、教会内を見物。ブラマンテが建て増ししたという部分が壮麗で見事。ただ懺悔聴聞担当の若い坊さんが告解室のなかで鼻毛を抜いていたのには笑ってしまった。罪は吹き飛ぶ鼻毛の如く。

 芒男と合流した後は、定番コースを連れてくれる。つまりスフォルツァ城とドゥオーモ。どちらもデカイ。そしてよくも悪くも金にあかせて作った、という感じがする。ミラノが中世以来の先進産業都市だった以上、これはまあこうでないとおかしいようなものである。それでも、ドゥオーモはまだしもゴシックのそそり立つ尖塔の垂直の線と石の白によって軽みも添えられているが、スフォルツァ城はただただ重厚で暑苦しい。要塞だったのだから仕方ないか。オルシーニ、コロンナといったローマ貴族の粗暴(もしくは凶暴)、メディチの狡猾とならんでスフォルツァの強権は有名だものな。

 などと偉そうに批評してますが、さすがにデュッセル、フランクフルト、ケルン、アムステルダム、パードヴァ、ヴィチェンツァと連日見ていると、都市の肌合いの違いというものが感じ取られてくる(ように思ったのだが)。少なくとも自分の好みの線というものは明確になってくる。

 しかし、ミラノの街は良かった。ヴィチェンツァほどの取り澄ました表情ではないので、こちらの疼きを優しくなで回しながら、少しばかり希望を練り込んだ軟膏をすりこんでくれる按配なのである(言いたいこと、分かってくれるであろうか)。

 朝しっかりと食べてきたので、昼はドゥオーモ近くの有名なピッツェリアで済ました。立ち食いの店なのだが、いやはやたいへんな混雑。ワンカットを平らげるのに、冷たいビールの力を借りてなお目を白黒させねばならないほどのヴォリュームだった。はっきり言うと美味しくなかったのだが、お目当てのパン屋がヴァカンス中とあって仕方なかったのである。

 午後はずっと美術館めぐり。芒男は買い物。まずはブレラ絵画館。ベリーニやロット、それにこちらに来るまで知らなかったルイーニという画家が面白かった。みな色彩の洪水という印象。あとはピエロ・デラ・フランチェスカ。聖母子と諸聖人の群像。マリアの上、貝殻状の天蓋から、卵がひとつ糸でつり下げられている。澁澤龍彦はこの卵を宇宙の象徴と解釈していたのだったか。たしかに「ここよりものみな始まる」といった、凝縮したエネルギーがここから放射されている。そのくせ卵の形状は静謐そのもの、へんな形容ながら穏やかな緊張が画面を充たしているようだった。

 イタリア有数のピナコテークを見て言うのはこれだけでは我ながらあまりにお粗末な気もするが、これは書くのに疲れたせいではない。当日炎天下を歩いてようやくたどりついた美術館で大作名作をどっさり出されたために、やや消耗した感があった。知恵熱ならぬ鑑賞熱というところか。後半は所々に置いてあるソファに何度もへたり込んでようやく見て回れたというところだった。

 それでもここを出てアンブロジアーナ絵画館に向かったのは我ながらよく保ったものだと思う。ただここは元々さる枢機卿の個人邸宅(なんと豪華な邸宅であることか)だったのを絵画館・図書館としているだけに、ブレラよりはよほどアンティームな空気でいくぶん足取りも軽く見て回ることも出来た。ラファエロアテネの学堂』の巨大なデッサンやカラヴァッジオの『果物籠』(カラヴァッジオの本物を見るのはたぶん初めて。題材はおとなしいのにどこか不穏な気配が漂う不思議なタブロー)が有名。しかしこちらがいちばん惹きつけられたのは、またしてもレオナルドの、ただし『楽士の肖像』ではなく、有名な手稿(ノート)のほうだった。もちろん例の(悪名高い)鏡文字のイタリア語で書かれているから、読んで内容を理解することは出来ない。英語の解説を頼りに見て回ると、永久機関や武器、飛行機などのデッサンにびっしり註釈が付けられている。チェナーコロ(『最後の晩餐』)の不可思議な印象と相まって、この、画家・建築家・彫刻家・科学者である男の正体がますます謎めいたものに思えてきた。少なくともキリスト教を真面目に受け取っていなかったのは確実みたいだけど・・・。ここで所蔵する手稿(アトランティコ手稿というらしい)の図版入り解説本を売っていたが、何冊もあるので重たそうだったのとやっぱり高かったので買わなかったのが残念。「寓意・政治・修辞」だったかな?の巻だけでも入手しておくのだった(空男氏、よろしく頼む)。

 この絵画館は図書館も併設しており、むろん我々が見ることのできるスペースに本当の貴重書は置かれていないのだが、オープンになっている書棚をチェックしてみると(本性が隠せない)、ずいぶんヘンなものも混じっている。オスカー・ワイルドのIntentionsなんて、どういうつもりで買ったのか。敵情視察のつもりだろうか。

 絵画館を出て、芒男に「レオナルド、食えないオッサンやで」と少しコーフン気味にしゃべりまくる。熱を下げるために、ジェラテリアに入る。レモンと杏のジェラートはじつに美味だったけど、注文の時、オバハンに「りもーねノあくせんとガ違ウ」とたしなめられてしょげてしまった。自ら憐れむべきのみ。

 さすがに二人とも暑さ・歩き疲れで、ホテルに戻っていったん休憩を取ることにした。時間は遅めだがシエスタというやつである。約束の八時少し前に起きてシャワーを浴びようとして、カバンが一つなくなっていることに気づき、一瞬真っ青になる。ヴィチェンツァのホテルではない。列車でも足下に小さいショルダーと一緒に置いてあったからそこで忘れることもない・・・考えられるのは朝のタクシーの中。しかし、中に入れてあったものをひとつひとつ思い出していくうちに落ち着きを取り戻す。シャンプーの類に、キャンパス地の靴一足、それにアムステルダムで買った絵はがきと日本から持ち込んだ本数冊である。ま、パスポートや現金はあるんだから幸いとしよう、とすっきりあきらめがついたのは当方もいささかイタリア気質が染みいってきたせいか。

 思えば、デュの空港のおねえさんが言ったとおりとんでもなく高価についたシャンプーとなった訳である。ともあれ、ミラノのどこかでうち捨てられてるのかはたまた古本屋にでもたたき売られているかしているはずの、岩波文庫アリストテレース詩学 ホラーティウス詩論』・同『芭蕉連句集』・新潮文庫大岡昇平『俘虜記』、それに平凡社ライブラリー版のアンリ・フォション『形の生命』(杉本秀太郎訳)に対して、衷心からのエールを捧げる。

 芒男がはじめ考えていたトラットリアはホテルからかなり離れた場所にあると判明したので、近くで店を探そうということになった。こちらは旨い飯のためなら地下鉄に乗ることも厭いはしないが、芒男もいささかお疲れ気味のよう。

 とはいえホテルのある辺りは中心部を外れたいわば新開地で、ガソリンスタンドやら車の販売店やらに混じってくすんだアパートメントが広がる一角。八時とはいえまだ明るい時間帯なのだが、明かりの見える食べ物屋らしき店といえばケバブや中華料理ばかり。探す内に、一軒リストランテ風の構えのところも見つけたものの、こういう地域で高そうな店に入っても期待できなさそう、と結論づけて結局はもう少し手軽に居酒屋的な店に入った。

 さすがに観光客の姿はない。東洋人は我々だけ。しかし隣のテーブルは近所の仲のいい家族同士で来ているような話しぶりだし、さほど剣呑な雰囲気ではなかった。

 アンティパストに芒男は生ハム、こちらは蛸とジャガイモのソテー(しかし生ハムの好きなやつだ)。パスタは飛ばしてメインは芒男が焼き肉、こちらは烏賊と芝海老のフリットを頼む。注文を聞きにきたじいさんは、二人のイタリア語が下手というより、明らかに耳が遠い様子で、何度も何度も確認をしてから大きく頷いて去っていった。

 蛸はニンニクが効いていて旨かったし、烏賊(大きさ形からして日本のヤリイカか)海老も最後までさっくり食べられるように上手に揚げてあった。互いの皿からつまみつつ、テーブルワインをがぶがぶ呑む。一リットルで十ユーロほどだから勘定の心配をすることもない。赤だったが、イタリアらしく軽い口当たりのもので魚介のフリットにもそう邪魔にはならない。

 なによりシェフがサッカーの試合に夢中になっているという気軽(手軽?)な様子であって、こちらもくつろいで飲み食いしているうち、店内の客はみな帰ってしまう。ちょうどカラフを空けたところに、シェフが歌詞の詳しい意味は不明ながら絶対にACミランの応援歌であることだけは間違いない歌を朗々と響かせながらやってきて、しきりにテレビの方を指さす。「インテルとACミランとどちらかをおまえたちは好むか」。これくらいのイタリア語ならさすがに分かる(というより文脈から推測できる)。なるべく東洋的禅的に深遠かつ森厳たる表情を作って、Milan,certamenteとうなずくと向こうも重々しくうなずきながら、手にしていた瓶から(おっさんも一杯ひっかけてるらしい)なにやら酒をショットグラスに注いでくれた。一息で呑め、と仕草で見せる。ロンリコ151のイッキ呑み勝負では負けたことがない人間として、ここは格好良く乾さねばならぬところ。ぐっとやって、ついでに芒男とふたり、うろ覚えのメロディーおよびイタリア語で、先ほどの応援歌をがなってみせた。酒はレモンの味がするちょっと甘めのスピリッツ。

 シェフもじいさんも、給仕の手伝いをしていた娘も手を打って笑い転げていた。虎キチの居酒屋でガイジンが泡盛をあおりつつ下手くそな日本語で六甲おろしを歌うが如し。もう一杯注いでくれて、おまけにエスプレッソもおごってくれた。切れ切れの単語から察するにオッサンはカラーブリアの出身らしい。

 テラスでワインをちびちびやっていた中年二人組にたばこまでめぐんでもらって、店を出る。あまりに「イタリアン」そのものの人間くささで、かえって芝居めいていると感じたほどだった。

 帰り道、スーパーでぶどうやサーディン、ワインなどを買ってホテルに戻ったもののあまり呑めず。あれしきの酒に酔うことは、芒男はいざ知らず鯨馬としてはあり得ぬことだが、やはり炎天下での散歩がこたえているらしい。それに明日は早くも飛燕のごとくヴェネツィアに戻らねばならない。

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