インヒューマン・ファクター

 三連休はなんの予定も入れずに、クーラーを効かせた居間でひたすら読書。時々腹が減ったらチーズを齧り、ビールを飲む。疲れたら熱いシャワーを浴びて浴衣でごろ寝。こういう生活だったから、いやよく読めました。

○ベン・マッキンタイアー『キム・フィルビー かくも親密な裏切り』(小林朋則訳、中央公論新社)…いちばん有能だったかはともかく(真に有能ならそもそも名前すら分かってないはず)、少なくとももっとも有名な二重スパイの伝記。なにせ冷戦の最中に英国情報部の中枢にありながら、長年ソ連に情報を引き渡していたんだから柄が大きい。典型的な中流上層階級の出であったフィルビーは、会う人みなを会話の妙とホスピタリティーで魅了したという。しかし、本書で見る限りその魅力はほとんど伝わってこない。行ったことのない料理屋の評判を延々聞かされるようなもの。「はーそーですかー」てなもんである。料理の味をことばで伝えきれるか、という人もいるかもしれないが、メニュとレシピを丁寧に紹介するだけで少なくともその味を想像するよすがにはなる。まして伝記なのですから、せめて一つくらいはその魅惑する会話の例を具体的にあげて、読者に納得させるべきであった。というのは本そのものに対する不満。あとはこの大物スパイ自体に対しての不快感なのだが・・・フィルビーはソ連への亡命後、「個人的決断と政治的判断が衝突した場合にはつねに後者を優先させねばならなかった」と常々語っていたそうな。見事なまでに空疎な弁明(政治的判断のほうを優先させないスパイというものが考えられるか?)。しかもスパイ疑惑で左遷されるまでは英国的「優雅な生活」をいやというほど堪能したあげく無事亡命をとげた男のいうせりふであって、どうしても「共産主義イデオロギーなんかちっとも信じてなく、単にわくわくどきどきの冒険生活を楽しんでただけじゃないの!?」と言いたくなろうというものではないか。しかしそれならば逆に、戦前の英国における支配層―というより人間性そのものの頽廃に関しての、興味深い研究が一冊まだ書かれていないということになる(個人的にはグレアム・グリーンを猛烈に読み返したくなった)。「あとがき」はジョン・ル・カレ。【読んでも読まなくてもよし】

○キャサリン・M・ロジャーズ『豚肉の歴史』(「「食」の図書館」シリーズ、伊藤綺訳、原書房)・・・散漫に各国の豚肉レシピをならべるだけ。「歴史」にはもちろんなっていないし、料理本としても不出来。自分で読んでて言うのもなんだが、食べ物関係だったら売れるという浅間しい料簡で出した本がなんと多いことか。【読まなくてよし】

○国分功一郎『近代政治哲学 自然・主権・行政』(ちくま新書)・・・新書なので素人にも読みやすく、しかも「これで分かった」という甘い錯覚を与えず、原典を猛烈に読みたくさせる。つまり入門書として上々の出来。ホッブズへの誤読を丁寧に解明し、なーんか曖昧でよく分からなかったロックの社会契約説の論理的不備をつき(ロックは評論家であって哲学者ではない!)、スピノザの議論の徹底性をじょうずに紹介してくれる。【読んでも読まなくてもよし】

山崎正和『対談天皇日本史』(文春学藝ライブラリー)・・・日本の歴史・文化のあり方は、なるほどこの世にも不可思議な君主制によって規定されている(果たしてそれだけか?日本文化によって天皇制が規定されているともいえないか?)んだなあ、と実感。元版はずいぶん前に出た本だから、そして山崎氏の著書によってある程度本書の内容自体が常識化しているという事情もあるから、目から鱗の連続、というわけにはいかないだろうけれど、なんといっても神、ことにクリオは細部に微笑み給う、のであって、あれこれと自分で考えを展開させる刺戟にいまなお充ちている一冊。【読む価値あり】

○新倉典生『正楽三代 寄席紙切り百年』(dZERO(インプレス) )・・・東京の寄席に紙切りという芸があるのは知っていたが、それが近代からの名跡だとは知らなかった。藝も完全に初代の努力と工夫によるものだったのだ。表紙にもなっているが、技巧はいうまでもないとして、構図がなんとも飄逸で趣がある。しかも客の注文に応じてその場で切っていかねばならないから、洒落と機知も必要。「大津波」という注文に対して、現正楽師は「一本松」を切ってみせたそうだ(こんな題、注文する人間の神経を疑うが)。著者は初代の正楽と縁あって伝記の筆をとった日蓮宗の僧侶。過剰な思い入れや説教がないので読める。【読んでも読まなくてもよし】

イーヴリン・ウォー『スクープ』(エクス・リブリス・クラシックス、高儀進訳、白水社)・・・傑作『黒いいたづら』には一歩譲るけど、素晴らしく面白い。ウォーの小説だから、主人公ふくめて全員アホである。諷刺なんて寝ぼけたこといわれちゃ困りますぜ。正真正銘のアホである。投げやりに筋を運んでいるようで、最後に綺麗に形が整うあたり、大したもんだ。訳者あとがきによると、イギリスで二〇一六年から、ウォーの完璧ともいえる全集が刊行されるんだと!これは買わねばなりますまい。【読む価値あり】

高島俊男漢字検定のアホらしさ』(「お言葉ですが…別巻3、連合出版)・・・いつもどおり真っ向唐竹割り。漢字検定がここまでアホらしいものとは知らなんだ。尊敬する中村幸彦もクソミソに批判されている。勉強はどこまでいっても終わらないものだな。【読んでも読まなくてもよし】

レオ・ペルッツスウェーデンの騎士』(垂野創一郎訳、国書刊行会)・・・はじめの方はずいぶん粗っぽい筆遣いだなあと思っていたが、後半はあれよあれよと物語が収斂。土臭いメルヒェンと称すべきか。しかしやっぱり技巧としての粗っぽさではなく、こういう作風の小説家なのだろう。「僧正」とか「粉屋」とか、いい味の脇役が多い。代表作らしい『夜毎に石の橋の下で』も読んでみることにする。【読んでも読まなくてもよし】

エドワード・ラジンスキー『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯 上下』(工藤精一郎訳、日本放送出版協会)・・・米原万里さんが「折り紙付きのホラーたること、保証しようではないか」と薦めていたので読んだ(だから翻訳はずいぶん前に出ている)。読後感。ホラー。しかも伝奇ミステリでもあり、スプラッターでもあり、心理サスペンスでもあり・・・という一粒で何度でもコワくなるとびきりのノンフィクション。さすがはチェホフ以来という人気劇作家だけに、演出が巧い。それにしても、単なる血に飢えた殺人鬼(アミン!)とか、贅沢好きの権力バカ(チャウシェスク!)とかならまだ悪役の型にはめて理解することが出来るのだが・・・一筋縄ではいかないな、スターリン。大粛清(そのシナリオ―もちろんスターリンがすべて書いたのである―があまりにも緻密かつ人間洞察力に満ちたものであることに、またも戦慄する)の犠牲者が裁判の最後まで「主人」を讃えながら殺されていったという不可思議。レーニンとトロツキーはもとより、ブハーリンモロトフ、ベリヤといった脇役が強烈な個性を放つので(あるいは強烈な非個性)、たぶん本書を読んだ人の多くが抱くであろうように、鯨馬もまた「これはドストエフスキーの世界そのままや」とため息をついたことだった。ロシア的心性のかくも図りがたいことよ。感想もうひとつ。プーチンはさぞかしスターリンにあこがれてるんだろうなあ。【読む価値あり】

○ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー 上下』(森内薫訳、河出書房新社)・・・キム・フィルビー、スターリン、最後にヒトラーというのは完全無欠の偶然による。かなり話題になったから読んだ方も多いのでは。ちょび髭の独裁者が、現代のドイツに現れるという設定。要はアプトン・シンクレア『人我を大工と呼ぶ』(筒井康隆氏ご推奨)と、もっと古典的な例をとるならトウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』と同じ趣向である。こうした《有名人のタイム・スリップ》は諷刺喜劇の手法として使われることが多い。が、しかしなんといっても相手はヒトラー。諷刺というより、グロテスクな不条理劇の笑いに似た肌合いの小説となった。ドイツ語は知らなくてもそれと分かる、ヒトラーの完全にユーモアと平衡とを書いた文体(ああ、それでもやはり文体なのだ)のパスティーシュがこのロテスクの色調を決定づける。ところが・・・訳者も書いているとおり、なんとなくこのヒトラー、人間的でどこか親しめる雰囲気なのですね。これは多分、外見の喜劇性からの連想でもなく、また『赤いツァーリ』みたいなノンフィクションではない、ということによるのでもなく、明らかに作者が狙った効果だろう。ま、ユーモアの完全な欠如が生みだすどす黒いユーモアと、スターリンの残忍冷酷な「赤い」ユーモアとどちらがマシか決められるものではないだろうけれど。【読んでも読まなくてもよし】

 ウォーとならぶ収穫はチャトウィンの『ウイダーの副王』。感想はまた改めて。
○ヨーゼフ・ガントナー『レオナルドの幻想(ヴィジョン) 大洪水と世界の没落をめぐる』(藤田・駒井訳、美術出版社)・・・帰国してもやっぱり気になるレオナルド、その「気になる」所以を少しでも明らかにしたくて、書庫をひっかき回してるとこんな本が出てきた。レオナルドの手稿をがっちり踏まえた上で、副題にあるような、元素的(エレマンテール)な自然史を幻視するレオナルドを描き出す。しかし、やっぱりまだ何か解読されざるレチサンスが残されてるような気がする。それにしてもなんでこんな本買ってたんだろう(後記。林達夫「精神史」の注にこの文献があげられていたのだった)。【読んでも読まなくてもよし】
○フランソワ・フュレ『歴史家の仕事場(アトリエ)』(浜田道夫訳、藤原書店)【読んでも読まなくてもよし】

○田中紀峰『虚構の歌人 藤原定家』(サイゾー)【読まなくてよし】
奥泉光『新・地底旅行』(朝日新聞社)【読まなくてよし】
○阿古真理『「和食」って何?』(ちくまプリマ―新書)【読まなくてよし】

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