編み目としての世界

 小雨そぼふる中を阪急六甲『フクギドウ』へ。昨晩『いたぎ家』で、このギャラリーのミカミさんオモテさんと遭遇。いま開催中の「世界のかご展」のために来神中の伊藤征一郎さんを接待中の由。伊藤さんのおだやかな語り口と、「かごばっかし」という企画に魅力を感じて行ってみることにした、というわけ。

 なるほどたしかに籠かごカゴとかごだらけ。日本も北は青森南は九州まで、またイギリスや北欧、アフリカなどの外国からも広く出品されている。折しも在店の伊藤さんにあれこれと説明を受けながら見て回る。

 昔むかしに付き合っていた女性が、「ボーナスが出たから、思い切って山葡萄のかごを買っちゃった」と昂奮気味に話していたのを想い出す。思い切る必要があるほどの値段がするもの、という認識くらいしか、若かりしこちらは持てなかったが、伊藤さんの話を伺っているとなるほど思い切らせるだけのことはある、としみじみ実感した。なにせ材料を集める段階から、気が遠くなるほどの手間暇を要するのである。短い「旬」の時季を狙いすまして山野に入り、あるいは険峻な場所にしか生えない植物を訪ねて周り(またたび)、あるいは職人にも見定めにくいほどの蔓の一筋を探り(あけび)、その上に収穫量はごく僅かと来ている。

 技法について訊いてみると、ずっと昔から伝承されてきた編み方ばかりで、新しい技は見られないのだという。実際、アフリカで今でも作られている籠の作法を調べてゆけば、そこから全世界(海を越えた新大陸にも)に伝播したことが突き止められるのだそうな。つまりは「籠の人類学」というわけである。

 ラトビア辺りで作られる特有の編み方に、菱形が何重にも重なった「神の眼」と呼ばれるものがある。伊藤さんは編み方の技法が生みだしたものであって、呪術的な意味は無いでしょう、と仰っていた。たしかに狩猟採集が生活の主たる手段だったころには籠はなんといっても必要な道具だっただろうし、専家の言に異を立てるつもりはないが、これほど太古の姿をのこした道具でもあり、かつは細緻に編み込まれた文様を辿っているとどうしてもそこに神話的な世界観が揺らぎだしてくるように思えてならない(古来渦巻はどの文化においても神聖視されていたのではなかったか)。生活に必要な食糧を蓄える器であるからこそ、そこに豊饒や安定の祈りを込めるという心の動きもごく自然なものだったろう。

 などとこちたき思弁にふけったのは、家に帰ってしみじみ自分の買い物に見とれていた時。要するに籠にすっかり魅せられて(おお、やはり籠は呪具なのだ)、自分のためにまたたびの蕎麦笊(しっとり水に濡らして使いこんでいくと橙色に変わっていくのだそうな)と、彼女へのプレゼントにあけびの蔓で編んだ手提げ籠を衝動買いしてしまったのだった。

 強欲貪婪な人間であるから、彼女には「永久租借」処分を言い渡して好きな時に自分で使えるようにしよう、と思っている。


カゴアミドリのかごの本 世界のかご 日本のかご 暮らしのかご

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