Ritornare a Venezia(4)包丁いっぽん。

 この日もスーパーのお惣菜で朝食を済ませた。鯖のポルトガル風(とは酢漬けのこと)、ポルペッタとかいう肉団子のフライ、海老のすり身を揚げたもの、それにこれを忘れてはならぬバッカラ、オレンジ。中瓶の大きめで2ユーロもしないビールを飲みながらこれらを摘まむ。

 鯖の酢漬けなら「きずし」ではないか。しかし、『いづ卯』や『柴藤』の如き繊細絶妙な〆加減などとはほど遠く、身あくまで白く酸っぱくしょっぱく・・・ビールに合う。バッカラは昨日のよりちょいと濃厚だな、などとにわかバッカラ評論家になって論評を試みる。

 八時過ぎ、出勤するヴェネツィアーニに混じって大通りを歩いていく。さすがに観光客の姿はほとんど無い。規模の大きい街ではないので、住民同士がすれ違いながら挨拶したり、立ち話をしている光景が頻繁に見られる。

 朝靄の中の聖マルコ寺院が見たくて広場に立ち寄ってみると、真ん中あたりに人々群れ集う。その先、寺院を背にして物見櫓のような鉄骨の建造物がそびえ、天辺には紛う方無き純白の教皇法衣に身を包んだ人物が見える。

 朝に広場でミサをするのは分かるが、毎日あの鉄骨を組んでは解体し、では大変ではないか。と訝しんでいると、カチンコの音が鳴って、途端に群衆が歓呼の声をあげ始めた。

 映画の撮影だったのだ。すっかり興味索然となってぷいっと広場をでる。

 途中のバールでフォンダンショコラに粉砂糖をまぶしたようなお菓子とカプチーノ。鼻息さえ白く見えるくらい空気が冷えているので、熱いコーヒーが旨い。

 気合いを入れ直して向かう先はリアルトたもとのメルカート(市場)。そう、夏からの念願が叶って(「一週間のヨーロッパ(7)籠の鳥」)、市場で仕入れたばかりの材料で当方が料理を作るという趣向なのである(空男氏のアパートは市場から目と鼻の先)。

 空男との待ち合わせにはまだ時間があるのであちこちの店を、すでに夢見心地でさまよい歩く。眷恋の蝦蛄は、おお、ああ、鯨馬子を待ってこの日も濡れ濡れとした殻に瑠璃いろの斑点を光らせていたのでありました。

 随喜の涙。

 はっきり呆れ顔の空男に荷物を持たせて、買いましたモノは蝦蛄一キロ(なんとこれで十四ユーロ!)、ジャコウダコ、ホウボウ、舌平目、浅蜊。野菜はインゲン、ズッキーニ、ブロッコリー、トマト、チコリのような赤紫の球果、カルフィチョーリ、ルッコライタリアンパセリ、タイム、ローリエ、セージ、レモン。近くの肉屋では馬肉のカルパッチョまで購入してしまう。女性の買い物中毒というのがよく分かる。タコやヒラメを手当たり次第に買いまくるという症状はあまり無いと思うけど。

 本当ならば石蟹墨烏賊も、ぺかぺか光る小鰯も馬刀貝も、小海老も鮟鱇も、みーんなみーんな「それ」と指さしたかったのだが、加古川=空男=本蔵に「殿中でござるぞ」と抱き止められ、やむなくこの場を去らねばならなかったのである。

 空男氏は語学教室にお出かけ。邪魔者(失敬)を追い出して、いざ尋常に勝負と相成る。

【この日の献立】
○ジャコウダコのパスタ(麺は玉子入りの平打ち)・・・オリーヴオイルでニンニクを炒め、つぶしたトマトとタコの内臓を煮詰め、浅蜊の出汁を加えて味を決める。仕上げにイタリアンパセリを大量に散らす。
○魚介のズッパ・・・ホウボウは三枚、舌平目は五枚におろす。アラも捨てない。塩をふってしばらく置き、水気をぬぐってレモン果汁を振りかけておく。アラと上身はそれぞれオリーヴオイルで軽く焦げ目が付くくらいに焼き、上身だけ取り出して、水・白ワイン・ローリエ・セージを加えて出汁を取る。アラを引き上げてから小さく切った上身と浅蜊を入れて更に煮込む。仕上げに湯がいたインゲン、焼き目をつけたズッキーニを入れて一煮立ち。食べしなにレモンをしぼり、タイムをぱらぱらとふりかける。浅蜊の活きがたいそう良くて、砂出ししていると、床が濡れるほどぴゅっぴゅっ潮を吹いていた。
○蝦蛄のマリネ・・・塩茹でした蝦蛄の殻を剥き身を取り出す(これがタイヘンなのですよ!)。レモン果汁とワインビネガー、オリーヴオイルでマリネしておく。周囲にルッコラを散らし、あいだあいだに薄切りにしたカルフィチョーリを挟む。

 日本なら目をつぶってでも作れるような品ばかりであるが、使いつけない狭い流しでちまちま包丁したり炒めたり殻を剥いたりするのはものすごーく重労働である。あと痛感したのは菜箸がないとどれだけ不便かということ。魚の切り身を崩さぬようにお玉杓子ですくっていると情けなさに涙がこぼれそうになっちゃった。

 これは沢庵も梅干も漬け、豆腐もがんもどきも自製する人間の名誉として言っておきますが、料理用にと空男氏が選んだ白ワインが薄甘くてパスタ・ズッパの味がもひとつ締まらなかったこと、及びカルパッチョに一工夫足りなかったことを除けば、まあまあ異郷の空で善戦した、と自賛しておきましょう。馬肉の下にしいたチコリ風野菜が、しゃきしゃきしてほろ苦くさりげない香気あり、兎のようにもしゃもしゃ食っておりました。こちらに来てあまり野菜を口にしていないせいもあったかも知れない。

 酒は白を二種類。偶然対照的な味わいの銘柄になっていたので愉しめた。この酒屋さん、空男氏寓居の近く、リアルト橋のすぐ側にあるすばらしいお店。品揃えは無論のこと、御主人が物腰柔らかく礼儀正しく、しかも慇懃無礼に堕さず大げさにいえば高貴な風格さえある。初対面の人間とすぐに打ち解け肩組んで高歌放吟、という紋切り型の「イタリア人」的イメージとは正反対のお人柄。空男氏によれば、ヴェネツイアーノの典型ということになるらしい。友人および自分への土産としてヴァルポリチェッラをもとめた時も丁寧に包装してくれた。

 さて、家に帰るまでが遠足、後片付けまでが料理、なのですが朝早くから動き回って、大車輪でヴェネ飯をこさえていたところにワインを流し込んだため、ソファに少し横になったと思った瞬間に眠りに落ちていた。目覚めたのは夜も七時になってから。「片付けの帝王」という渾名を奉られていた(今奉った)アパートの主人がすっかり綺麗にしてくれていた。ぱらでぃぞぱらでぃぞ。

 もちろんこの時間ではどこの見物も出来ない。しかしそれならそれとして、ヴェネツィア名物バーカロ巡りといううきうきわくわく企画がちゃーんと準備されておるわけです。さすが執事、手回しにぬかりはない。

①口切りにバールでエスプレッソ。明るくて清潔な店。有名店らしい。
②「ド・モーリ」。これは日本ですこし調べただけでもすぐ出てくるバーカロの代表的名店。ティツィアーノの絵に出てきそうな、長大雄偉な顔をしたオッサンと肥満したオッサン二人がやっている。客が入っても挨拶ひとつするわけでもなし、愛想笑いをするわけでもなし(長大雄偉のほうはアクビを何度も噛み殺していた)、それでも黒ずんだ店の風格はさすが。一杯目はマルベック。ヴァルポリチェッラばかり飲んでいたので、少しパンチの効いた荒っぽいやつを欲していたのである。期待通りにチョコレートのような焦げた匂いとタンニンのきいた酒がじゅうじゅうと喉に染み渡る。でも二杯目はやっぱりヴァルポリチェッラ。おつまみにはカルフィチョーリを蓮餅風に仕立てたのと、蛸のトマト煮かな?カルフィチョーリの和敬清寂がよろしい。陰翳多い店で、世にも憂鬱という顔をしながら赤ワインのグラスを揺らすのに、これほど相応しいアテもない。
③「ド・スパーデ」。ここも超の付く有名店。ものすごく混んでいるが、しかし殺伐とした風ではない。私は例のポルペッタ(肉団子のフライ)。相棒はカボチャの花(!)を揚げたもの(とバッカラ)。上方落語の世界では、かぼちゃの花に酢味噌を付けて食うようにまでなれば道楽も皮肉の域に入る極めつけ、ということになるのだが、はてさてヴェネツィアくんだりに来てみれば粋人の多さよ。しかし特筆すべきはここのヴァルポリチェッラの超絶的美味さである。ビロードのようになめらかで、典雅きわまる味わい。やっぱり繁盛店だと回転がいいから味が落ちないのかな。あと店の女の子のキュートなことも記憶に残る。オカマみたいな声で、オカマみたいにおケツをぷりぷり振りながら歩く店員がいやに流暢な京都弁で接客してきたことも、別の意味で記憶に残る。これで「定番コース」はおしまい。ここからは空男氏の贔屓店めぐりとなる。
④「H2NO」(「水なんぞないぜ」)というひねった店名だったので憶えている。出来たばっかりらしく、小洒落たつくり。ビオの白を一杯目に飲んだ気がする。二杯目はキャンティ。
⑤店名も場所もすっかり記憶から脱落。オットセイみたいに太ったオッサンがふいごのように息を吐きながらひとりでしている。ここも比較的新しいようだが、いかにも近所の方々という面々が多くて、気さくな雰囲気。マルサラ酒を頼むと「無い」と言われ、赤の何かを指すと「それは不味い」と言われ(栓を抜くのが面倒だったのに違いない)、結局は横で飲んでいた爺さん二人組の開けたメルローのマグナムから注がれる。ここは何も摘ままなかったかな?
⑥まだ一軒残っていた。これは夏にも行った店で、運河沿いにあってお洒落なつくり。一杯目がプロセッコ?二杯目がアブルッツォのモンテプルチァーノ?酔ってるわけではないけど(日頃三宮で暴れるときの、さあ半分も呑んでないはず)、さすがにこれだけはしご酒をするとどこで何を頼んだのか渺茫として思い出し難し。

 晴れてるせいで、夜の冷え込みは初日あたりにくらべだいぶんきつくなっているはずだが、杯を重ねてるうちに感覚が麻痺してくるものである(やっぱり酔ってるのか)。結局観光らしいことはなにひとつしていない一日だったにも関わらずこの充実感よ。

 と昂揚した気分で宿に帰った、その翌日痛い目に逢うことになる。



【画像その6・朝焼けのサンマルコ】
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【画像その7・ふてぇ野菜】
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【画像その8・豪奢な昼食】
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