鉄斎と蓮月

 清荒神清澄寺鉄斎美術館にて『鉄斎と蓮月 歌をよみ、土をひねる』展開催中。親子ほども年の離れた二人の交遊を教えられたのは、杉本秀太郎さんの本による(中公文庫『大田垣蓮月』)。その「夢のような」―という惹句が文庫には刷ってあったと思う―雰囲気を追体験できたのは、嬉しいこと。蓮月という名を知ってから二十年を経てということになる、それもまた夢のようである。杉本さんの書いたものをあたらしく読むことも出来ないのだ。今だに実感が湧かない。

 本題に戻る。

 展覧の名前にあるとおり、蓮月といえば、手づくねの器。これまでいくつか見てきたのは釉のかかっていない、まるで埴輪かなにかのような素朴な肌をしたものばかりだったから、つやつやと色を施した器に接して不意をふたれた気がした。

 たとえば、青い釉のかかった少し大ぶりの徳利。たしか「よきほどをみわのすぎずは是ぞこの不老不死の薬なりける」(うろおぼえです、間違っているかもしれません)という和歌が胴のぐるりに彫りつけてある。文字は無論あの繊月のような、柳葉のような蓮月体。注して言うと、第二句は「飲み過ぎ」と「三輪の杉」をかけている。大神(おおみわ)神社の祭神である大物主神は酒造りの神。

 おっとりとした形姿と落ち着いた、しかし紅をひとはきしたようなあでやかさがあって(色は青だけど)、好もしい。とはつまりこれで一献酌みたくなる。

 しかし酒の話ばかりでは蓮月さんにたしなめられるかもしれない。蓮月尼好みというならやはり煎茶のほうをあげるべきだろう(もっともだからといって酒を排するわけでもなくにこにこと受け容れてくれるのがこの人の身上)。その煎茶器。「きびしょ」(急須)はお手の物として、蚕豆ほどの茶碗の縁の温かいカーヴ。細かい貫入と絵付けがいい按配。これもやっぱり茶を啜りたくなる。

 という風に、器が用と結びついてうつくしいのが蓮月作のいい所。民芸調というのではなく、器を通して自然と作り手の風貌・声音・心ばえが伝わってくるのである。前述の煎茶碗が京焼の風を移しているのは明らかとして、蓮月の作陶がどの流れからどう汲んでいるのか、これは考えてみる価値がありそう。

 絵も達者だったな。墨一色で茄子を描いた一幅。歌は、「世のなかにみのなりいでて思ふことなすはたのしきしわざなりけり」(これもうろおぼえ、すいません)。「み」「なす」の掛詞は言うまでもない。この茄子の色つやがすばらしくて、つくづくながめいった。へたからとげとげが突き出ていて、描き手が朝夕にこの蔬菜を手に取っていたことが分かる。そういえば蓮月さん、西賀茂に庵を結んでいたのだが、たしかにこの丸みは賀茂茄子特有のものだな。などと面白がっていた。

 心打たれるのは鉄斎に当てた書簡。長崎へ発つ青年に学ぶべきものをあまさず吸収して、尼をよろこばせてくだされと励まして「御はながみ代二百疋」差し上げるとした一通。はなむけのことばとして真率にして簡潔を極める。また独身の鉄斎に少しでも早く妻帯をと勧める手紙。こちらはじゅんじゅんと理を分けて説く。対照的な書きぶりから、たいへん頭の使い方がさわやかな女性だったことが分かる。

 ちなみに鉄斎はのち妻を迎える。結婚は二度したようだが、はるこさんなる夫人との合作になる画帖もあった。妻が歌を詠み、夫が絵を添える。


 だから鉄斎さん、姉のように母のようにまた友として慕っていたのだろう。これもこの展示で初めて見たのだが、鉄斎の陶器もいくつか出品されている。狸や田舎家など。剽げたかたちに加え、華美というのではなくその場を一気に明るくするような花やかさがあって、これは蓮月の影響にちがいない、と極私的に思い込む。先の夫婦合作の画帖の花(ききょう、山吹、朝顔、桜など)の目にしみるような鮮やかさ。鉄斎の色がどれほどちから強いか、それは当方なりに経験してきたつもりだったが、この展覧でそこには蓮月さんの「色」、と括弧を用いるのは単なる物理的な色使いの技法ではなく、いわば世界感覚としての色彩というものの影が差してはいないか、という考えが頭をかすめた。

 そして、この「色」は果たして蓮月さんの独創になるものかどうか。京ならではの文雅のゆたかな土壌から萌え出でたものでないかどうか。

 具体的には上田秋成と小澤蘆庵をふたつの焦点とする楕円が掬いとるところの、技芸(もちろんことばの技芸も含む)と感覚と生活とが一体となった、江戸後期の京の文明が蓮月の歌と陶とをうるおしていたのではなかったか。

 これはすでに前出杉本さんの本に縷々述べられていることである。そして秋成から蓮月を媒にして鉄斎と続く、実証はむつかしいものの、勁い線については、大阪大学飯倉洋一先生がブログで触れられているところ。当方としてはそれを確かな手応えとして受け取ったということである。展示は十一日まで。

 あ、そうだ。三月から兵庫県立美術館で大規模な鉄斎展があるとのこと。随喜の涙がこぼれそうな。

 さて鉄斎美術館、というよりは清荒神さんにお詣りする愉しみはやはり参道にならぶ店のぞき。行くたびに当世風に小綺麗になっていってる気がするが、それでもどこかいかがわしい、永井荷風の口ぶりを借りて言うなら「淫祠」風の猥雑さがあって(荒神様御容赦)飽きない。といっても、決まったことを繰り返すのを好む因循な人間だから、この日も定番のコースと相成った。すなわち橋に近い乾物屋で豆を買い、いぶせき掛け茶屋風の食堂でビールを呑み、まだ売り切れてなければ出店で鯖寿司を買い(なかなかイケます)、「さん志よう屋」で花山椒の佃煮を買う。

 この日の夕飯。三つ葉と花山椒を芯に巻いた鶏もも肉の酒蒸しと、牡蠣豆腐、白菜柚子漬、新若布。若布はぬたにするつもりでワケギも買っていたのだけれど、ゆがいた時の鮮やかな緑(鉄斎顔負けである)に矢も楯もたまらず、そのまま醤油と酢をかけて丼いっぱいすすりこんでしまった。酒は『福寿』の熟成酒をあつ燗で。
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