世にも奇妙な物語

 料理屋の腕前は、主菜よりもむしろ突き出しなどのちょっとした一皿にあらわれる、とはよく言われること。作者の場合もそれに結構近いのかもしれない。過日つれづれなるままに上田秋成の『諸道聴耳世間猿』を読み返していて、ふとそんなことを思った。

 研究の最先端ではどうなっているのか。素人目には、『雨月』『春雨』は言うまでもなく、国学関連の著述や膨大な歌文に比べても、若書きの手すさびという扱いをいまだ脱し切れていないところがあるように見える。だからこそちょっと他には真似手のない面白さ、というか存在感が著しい。

 この表現は、きっと既に誰かが使っていると思うけれど、すべての話の主人公に共通する「気質」は一言で言うなら《オタク》である。武道(巻一の一)や骨董(同三)だけでなく、親孝行(巻二の一)や信心(巻二の二)をも含めて《オタク》と呼ぶ。世間的には徳であり善であるとされる振る舞い・心性も、ある境界を突破してしまうとたちまち偏奇に転がり落ちてしまうという意味である。

 厄介なのは「ある境界」なるものが明文化されえず、微妙な感覚判断による他ない(しかも機に臨み時に応じて揺れ動く)一線であるということである。むろんグロテスクな誇張が造型の基調をなすとはいえ、作者はこの繊にして細な「線」からの逸脱具合を鋭敏に探り当てていたように思われる。一椀の塩加減、笑い声のトーン、蒐集にかける情熱。ほんのわずか度が過ぎることでそれらはたちまち醜怪な存在へと「化け」てしまう。それは「円位円位と呼ぶ声す」の一句から途端に四国の山中が魔界へ転じ、おのが身をふりかえればたちまち鱗金光を備えるにいたるのと同様の機巧ではないか……。

 しかしかかる偏奇が文字通りの逸脱とのみ位置づけられていたのならば、上首尾の気質物浮世草子の一篇が書かれたというにとどまるだろう。初めに言った「存在感」とは、それぞれの話を読み終わった後、我々の日常をなす、「線」に囲まれた秩序の半径が確実に変化したように感じられる、その手応えのことを考えている。これは「世間」の概念が多様な《オタク》の生に付き合わされることで拡大したということだろうか。むしろ、ぬらっと捉えがたい《世界》の現前をこそそれは指し示しているのではないか。

 たかだか一篇の戯作にこちたいあげつらいは、それこそグロテスクな滑稽感を呼び覚ましてしまうのかもしれない。しかしこういう読書経験は江戸の文芸を読んでいて滅多と恵まれるものではない。細心な論証も心を込めた鑑賞も抜きに、性急にこちらの印象を吐露したまで。専家は笑ってお見過ごしあるべし。まだ『世間猿』を読んでいない方のために草した一文である。

 友人にこんな都市伝説のことを聞いた。

−「隙間女」ってあるだろ。あれの新しい種類らしい。
−どう違う?
−隙間をのぞいてみると、「何か」はいるんだが、向こうはあっちをむいていてこちらと目が合わないんだそうな。

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