「名誉」の男〜双魚書房通信(16)〜

 『世界収集家』の書評なのだが、たしかボルヘスのエッセーに本書の主人公リチャード・フランシス・バートンを扱ったものがあったぞ・・・と思い出して『永遠の歴史』を取り出す(ちくま学芸文庫)。

 件の一篇は「『千夜一夜』の翻訳者たち」という。久々に読み返すとこれが滅法面白くて止まらない。著者のイリヤ・トロヤノフさんには悪いけど今回はボルヘスの文章へ回り道することから始める。 

 「翻訳」ではなくて「翻訳者たち」。つまり複数の翻訳を取り上げて、世界観・文体・時代状況とのからまりを精細に玩賞してゆくという体で、原典と翻訳の「正しい」対応があるかどうかを厳格に論おうというものではない。むしろその逸脱ぶりを面白がるという趣である。ボルヘスは言う、


レインはガランに対抗して翻訳し、バートンはレインに対抗して翻訳した。それゆえバートンを理解するには彼の敵対王朝をまず理解しなければならない。


 アントワーヌ・ガランはフランスのアラビア学者。典雅といえば典雅、しかしいかにも一八世紀フランスらしいともいえる勿体ぶりで、エロティックな語句を曖昧にぼかして訳した。「(王妃は)王宮でもごく身分の賤しい宮内官の一人を、ご自分のベッドに迎えいれておいででした」の如し。ちなみにバートンは同じ箇所の「宮内官」を「厨房の脂や煤で汚れた黒人の料理人」と訳す。そのガランに対抗したのがエドワード・レイン。さる聖堂参事会員の子孫だそうな。それかあらぬか、アラブ人に変装してカイロで五年間暮らしたにもかかわらず、その経験は「ブリテン人の羞恥心、世界の王者の隠微な孤独を、彼に忘れさせはしなかった」。ヴィクトリア女王とまったくの同時代人らしく、卑猥な箇所を見つけると「異端審問官のようにそれらを丹念に拾い集め、追求する」。追求とは断罪=削除ということ。

 さて、では彼らに対抗する形で出てきたバートン訳とは果たしてどういう特質を持つか。アルゼンチンの老文人は細かい言い回しを丹念に取り上げて縷々語るのであるが、それを写していてはきりがない。ここでは訳文そのものではなく、訳者の簡潔なポルトレを引くことにする。その人間性と翻訳とが絶妙に照応しているように思えるからである。


バートンは十七カ国語で夢をみたし、三十五カ国語をマスターしたという。セム語、ドラヴィダ語、インド=ヨーロッパ語、エチオピア語……アフガンに身を包み、アラビアの諸処の聖都に巡礼した。熱砂嵐に渇いた彼の口はカアバ神殿に安置されている聖隕石に接吻のあとを残した。……回教僧に身を窶して、カイロで医術をほどこしたことがあった……一八五八年ごろ、彼は知られざるナイルの水源への探検隊を指揮した。……それからさらに九年後、彼はダホメの食人種の儀式ばった恐ろしい歓待を経験した。彼が帰ってきたときには(たぶん彼が自分から暴露し、そして吹聴したことは確実であるが)、ちょうどシェイクスピアに出てくるあの雑食漢の地方総督のように、「あやしげな肉を啖った」という噂さえ、なくはなかった。ユダヤ人、民主主義、外務省、キリスト教は彼のことさらに嫌いなもの、バイロン卿と回教は彼の尊敬するものであった。


 一口に言えば、ご当人にしてからが『千夜一夜物語』の登場人物であるかのような、強烈なキャラクターの持ち主であった。その乾いた「雑種的文体は、明らかにその時代のものであるマルドリュスの文体よりも古びてはいない」。

 ボルヘスはこのエッセーを、「一八七二年、しめっぽい塑像や不衛生な作品に飾られたトリエステのさる館で、顔にアフリカで負った傷跡のあるひとりの紳士―イギリス領事、リチャード・フランシス・バートン大尉―が、『キターブ・アルフ・ライラ・ワ・ライラ』、すなわちキリスト教徒も『千夜一夜』と呼んでいる書物の、有名な翻訳に着手した」と始めるのであるが、『世界収集家』のトロヤノフはいきなりバートンの死から語り出す(そう、いい加減切り上げないと『千夜一夜』のごとくボルヘスの話ばかりが続いてしまう)。これが終章でいい効果を上げている。でもまずは小説のメインをなす三つの部分を紹介しなければならない。

 第一部は「英国領インド」。東インド会社の士官として赴任したバートン。持ち前の語学力を生かして現地の文化に溶け込んでいくが、その分英国の同僚からはとかく胡散臭い目で見られがち。地元の娼家で働いていた娘に恋をし、家に寝泊まりさせるまでになるが、娘はやがて病を得て死ぬ。その後バートンはシンドに転属となり、そこで(ここがまことに十九世紀大英帝国らしいところだ)スパイ活動に従事することになる。
 続く第二部は「アラビア」と題されている。ボルヘスが言うところの、熱砂嵐に渇いた口でカアバ神殿の聖なる隕石に口づけした旅、つまりムスリムの喜ばしい義務であるメッカ巡礼(ハッジ)の行程が経(たていと)となる。もちろん異教徒の足で聖都を瀆したことが判明したらただちに打ち殺されてしまう。まあ、後に『千夜一夜』訳においてアラビア文化の様々な(主としてエロティックな側面についての)風習をめぐる博学にして饒舌極まる注釈を繰り広げることが出来た程の男の正体がばれるはずはないのだけど。極東の異教徒、どころか無神論者にとってはメッカ巡礼の道筋と道中の風俗絵巻だけでも充分面白かったが、その経に対する緯(よこいと)は、一層興味深い。それは信仰をめぐるバートンの省察である。当然イスラームの教えは(小説では「イスラム教」と表現される)キリスト教と比較される。


イスラムにおいては人間は自由だ。原罪になど支配されておらず、理性に信頼が置かれている。(中略)罪を背負わされた喜びのないキリスト教の屈辱のなかでよりも、人は誇り高く生きることができる。


 白人優位思想と一体化した帝国主義の焔が世界を嘗め尽くしていく時代にあって、清新ともいうべき認識。しかし注意せよ。理性への信頼を以てある宗教を別のそれの上位に置くという姿勢は容易に反転してこのような洞察へも導くはずだろう。


人間の心は容量の限られた器だ。だが神のそれは、制限のない原則だ。このふたつがうまく調和しあうはずがない。(中略)神がおわさぬ方向があれば示してみよ、とかつて足をメッカに向けるのは不敬だと非難されたグルが言ったことがある。(中略)表面的な形式を必要とするのは、想像力の足りない者だ。あまねく存在する神を、石に閉じ込め、布に刺繍し、画布に投影しなければ想像できない者たち。(中略)シェイク・アブドゥラの疑念は、カアバから一歩離れるごとに大きくなる。


 シェイク・アブドゥラとはバートンの偽名(のひとつ)。十九世紀的偏見が骨がらみとなった英国人植民地官僚は言うまでもなく、バートンの卓抜な文化感性―と妙な造語を使うが―に感嘆の念を禁じ得ない現地の人間にとっても、やはり大きな「謎」であり続けた男の魂の中心はここらへんにあったのではないか、とトロヤノフが示唆しているように思われる。
 第三部「東アフリカ」。ナイル川の源流をもとめてタンガニーカ湖ヴィクトリア湖を探検するバートンの姿が描かれる。アッラーの信仰を塗りつぶすようにして呪術的世界がバートンの野心を攻撃し、翻弄する。結局ナイルの源は幻のように掻き消えてしまう。

 それまでの生から隔絶した三つの世界を経巡るという構成で、しかもあのボルヘスが絡んでくるという連想もあって、読み終えた後評者はどうしても『神曲』を想起せざるを得なかった(ボルヘスは丸々一冊を『神曲』講義にあてた本を書いている)。うん、作者も意識してなかったはずがないのだ、と強引に仮定して話を進めよう。

 バートン=ダンテはいうまでもないとして、ウェルギリウス役は三部それぞれに別の人格として登場する。というより、色々な人種・年齢・職業の形を取りながら、常に影の如く寄り添う従者、という原型的イメージが小説の底部を流れている。インドではバートン家の召使いナウカラム。アラビアでは油断のならない案内人モハメド・アル−バシュニ。アフリカにおいてはキャラバンの道案内をつとめる解放奴隷シディ・ムバラクボンベイ。いずれも分別くさく教えを垂れる本物(?)のウェルギリウスとは大違いで、高慢で天気屋で測りがたい「ご主人」に始終怯えながら歩みを共にするのだが。

 ではインド=地獄・アラビア=煉獄・アフリカ=天国という見立ては成立するだろうか?ナイルの水源を求めて虚しく帰るに終わったアフリカの旅が天国だとは言い難い。それに、元(?)娼婦のクンダリーニへの愛はベアトリーチェへのそれに比定されるべきものではないか。たとえその愛がバートンの一方的な思い込みに過ぎなかったかもしれないとしても。そして最後はクンダリーニのおぞましい火葬の場面に行き着くにしても。

 いや、それよりもっと根本的な問題がある。この男―キリスト教をこけにし、イスラームの純粋にさえ疑いの眼を差し向けるこの男―には、汚濁と苦悩の深淵から試煉の路をたどって、浄福の至高天にいたるという絵に描いたような成功(成長)譚はいかにも似つかわしくないのだ。

―じゃあ、『神曲』見立てそのものが成立しないんじゃないの。
―古典的な構成の『神曲』に比するという意味ではね。

 すなわち現代版『神曲』であればこの主人公、そしてこういう物語にするほか手はないとトロヤノフが考えた、と見るわけである。たとえばバートンのように広大な帝国の版図を経巡った同時代の人物としてはリヴィングストンがいる。しかしこの探検家はイスラームの信仰の核心を(文字通りに)体感することは決してなかっただろう。

 最後にもう一度ふれるけど、バートンは数々の遍歴を重ねたあと、結局は変わらない。あえていえば《バートンなる人間》の真骨頂が異文化の接触という波濤に曝されて白々と露わになっていく、という体なのである。ダンテが「経験」したような垂直の移動はここでは生じない。

 しかし、殻を突き破るような移動、言い換えれば転生が生じないとすれば、つまるところひとつの牢獄を永久にさまよい歩くようなものではないのか。その通り。ボルヘスを初めに召喚したこちらのもうひとつの下心は、そこにあった。

 グジャラート人の召使いナウカラムは、とあるごたごたが原因でバートンに馘首にされる(喜劇的かつグロテスクな挿話)。あらたな「ご主人」のもとで働くための自薦状を書いてもらいに、彼は代筆屋のところに連日通って自分の体験を物語る。その話を聞いて書き留めているうち、代筆屋ラヒヤには奇怪な欲望がめばえてくる。物語を作り上げようという欲望である。


 ―お前にはわからんのだ、ロバのように愚かな女め。わしはこれまでずっと、ほかの者が話したことを書きとめるばかりだった。いつも無味乾燥な手紙ばかり、つまらない手紙ばかりだ。請願、財産委譲。わしはできる限りうまい文章を作る。ときには手紙を少し装飾する。だがそれでも、常に他人の意図の奴隷だった。客たちよりわしのほうが賢いというのに、彼らのたわごとを書きとめてやらねばならなかったんだ。だがこれからはそれも変わる。もう変わったんだ。それがどれほど重要なことか、お前にはわからんのか?


 第二部では、バートンが帰国後刊行した巡礼記録が、聖地を支配していたオスマン=トルコの総督、メッカのシャリフ、イスラームの法学者たちの目にとまり、バートンと接触した人物たちを喚問(時に拷問)して真実を探求するページがバートンのハッジ物語に交錯するように挟まれる。アフリカの解放奴隷は昔がたりにバートンとの冒険を近所の連中に語って聞かせる。

 もうお分かりだろう。物語が物語を生みだし紡ぎ出す、テクストの合わせ鏡というボルヘスお得意の迷宮。それはまたシェヘラザード(あらゆる小説家の守護聖女!)の寝物語の裡に幾層にも物語が積み重なる、あの「果てしない物語」の構造とも重なってくる。

 物語「前」の現実を闊歩しているはずだったバートン大尉は、やがて輻輳する語りのうちに取り込まれ、タピストリーの一文様と化してしまう。これぞ作者が仕掛けたアラビア大魔術そこのけの仕掛けだった。

 しかしこう指摘しただけでは、凡百のポストモダン小説(種村季弘大人曰く「エテ公がラッキョウの皮をむくような」)とひとしなみに見られるおそれがある。この小説の重力の中心をなしているのは、逆説的にも、あのどの信仰にも染まりきらない男の魂の色調―果たして色は存在するのか?―であった。どれほど現地の言語に習熟し、そのメンタリティーを理解し、信仰の核心を掴んだところで、バートンは結局「女王陛下の赤子」である。いや、当人みずから信じていたような典型的な十九世紀的英国紳士の如くでありながら、異教(これはキリスト教徒の立場から見て)の魂にかかる深みにおいて感応しえたというべきか。

 いずれにせよ、バートンの真髄、と先に呼んだものの正体は小説の最後にいたってもなお不明なままである。しかし少なくとも公式的なキリスト教の信仰に冷ややかであったことは確実である。冒頭でバートンに終油の秘蹟(バートン夫人の強い要請による)を施した司祭は直後に自分の判断を後悔し、司教に報告に行く。司教との対話が小説の結末となる。これが余韻嫋々としていていい。

 バートンは信仰を持たなかったのではないかと生まじめで詰め寄る司祭に対して、老司教はこう答える。


−人生でそれほど多くの嘘をついてきたのなら、信仰の問題でもどうだったか、わかったものではないのでは?
−それは不要な心配だ。バートンはカトリック教徒だった。以上。
−どうしてわかるのです?
−私にこう言ったのだ。どうせキリスト教徒でなければならないなら、カトリックが一番いいとな。
−なんという信仰告白ですか。


 なおも食い下がる若き神の僕に、こんなことばが返される。いわく、「こう言ってはどうだろう。バートンは名誉カトリック教徒だった、と。」

 世界のどこを踏破しようと、どの教えに親昵しようと、決して「現役」ではなかった人間のありようを示してじつに洒落た形容であり、またこう言い放って司祭を追い返す司教の姿に、諦念に満ちた老いたるヨーロッパのため息が聞こえるような気がする。すなわち知る、これは魂を持たない男の伝記を装いつつ彼の生きた魂を持たぬ世紀(21世紀はどうだろう?)の伝記という特異な小説であった。

 「名誉」カトリック教徒であり、おそらくは「名誉」ムスリムでもあったバートンにとっての天国とは、おそらくプレ・イスラム千夜一夜的世界だったのではないか?とすれば、今頃彼は彼の天国のあちこちで、珍奇な習俗や産物の調査にいそしんでいることだろう。

世界収集家

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