真説・豊後 湯のたび(二)

 大分二日目。ビュッフェの朝食を済ませて、最上階にある展望浴場へ。別府湾を正面に見る大浴場で、朝日を反射して目に眩しいほどの海を見ながらとっぷり湯に浸かる。浸かりながら別府の他の温泉に行くか大分に戻って市内を歩くかを思案する。どうせ残りの七湯すべて回れるわけではないし、大分でぷらぷらすることにしよう。そう決めると、誰もいない浴槽で二回だけ蛙泳ぎの真似をした。


 ホテルの車で別府駅に送ってもらった後、日豊本線大分駅まで行ったのだが、改札を出たところから何か違和感がある。いわゆる駅前広場に出ると完全に狼狽してしまった。地図を見ながらでも正反対の方向に行ってしまうくらいの方向音痴ながら、町のたたずまいとか空気はたいてい一回で頭というよりは躰に染みこませることが出来る質・・・のはずなんだけどな。このひどく立派で清潔に整えられたバスローターリーと駅ビルは本当に大分なのか。前来たときは、いかにも鄙びた低層の駅舎にくっついていたやや雑然とした広場、そして忘れた荷物を取りに一散に走った駅の地下道のこれまたいかにも使い込まれた風情。それらとあまりに目の前の光景の差がありすぎる。こちらの記憶が誤っていたのかしらんと首をかしげながら大通りを北に歩いていくと、角に吉野家があるアーケード商店街(最近はガレリアとか称している)には確かに見覚えがあったから余計に奇妙である。
※家に戻って調べると、やはり駅舎ごと全面改装されていた。旅人が軽々に口を挿むべきことではないけれど、そこそこの規模以上の都市であればどの道駅前がいちばんの盛り場ということにはならないはずで、だとすれば洒落た中心部と古い趣の駅前という対照を残すのもひとつの戦略だろう、と思う。


 市役所となりのホテルに荷を預け、当てもなく歩き出す。陽光は昨日以上に強烈だが、風は相変わらず快い強さで吹いている。だから歩くこと自体はなんともないにしても、改めてゆっくり歩き見た大分の町は失礼ながら潤いに乏しい。別府が生活者の住処としたらこちらはやはり官庁街という性格が強いためか。丹念に見ているつもりでも駅に戻ってしまうまで何ほどの時間もかからなかった。


 市内観光はこれで切り上げるべいか。ふと別府から大分に来る、その一駅前の西大分なる駅の観光案内板に柞原八幡宮の名があったことを思い出した。たしか豊後一宮だったはず。それに九州はなんといっても八幡信仰である。根元の宇佐まで戻るのはいくらなんでも時間が掛かりすぎるけれど、九州に来た以上柞原に参詣しておくのも悪くないだろう。


 とりあえず駅前広場のバス案内所で柞原行きのバスがあるかきいてみた。「ありますが、一分前に出たところです」。むう。次はいつ。「四時間後になります」。む、むう。西大分の駅から歩いて上れますか。「登山のつもりならともかく、普通は歩いて登る場所ではないです」(こちらはいつもの肩掛けカバンにサンダル履きという恰好だった)。むむむ。と田辺聖子さんの小説に出てくるすかたんの亭主みたいな不得要領なる返事をして案内所を出る。駅ビルの中歩いても仕方ないしな。ぼうっとしていると駅の南側に出てしまっていた。案内板をみると市立美術館がこの先にあるらしい。たちまち殊勝な神信心の気持ちは風に飛ばされてしまう。


 八幡大菩薩がその不心得を咎め給うたのであろう。この道でえらく難儀した。別段悪路というわけではない。逆にいかにも明るくモダンに整えられた芝生の街路は夏ともあって白々と枯れ広がるばかり、それをすぎても新築のマンションばかりで旅行者の目を楽しませるものはなにひとつない。その上道路から案内板に従って曲がった先にはこんもりとそびえる丘があり、美術館はその頂に位置するのであるらしい。不覚にもくらっと来たが、ここで引き返してしまうとそれこそ元も子もないわけである。なんや結局山ノボリせなあかんのやないか、アホクサ。とこれまた田辺さんの小説の登場人物の口吻を借りてつぶやく。ちなみに上方ことばで「アホクサ」とは相手への非難というより、不快困難な状況に立ち至った自分を客観的に批評するニュアンスが濃い。


 木が覆い被さる山道をのろのろ上がってゆく間、ただの一人とも出会わなかった。これで登り着いたものの休館だったりすればそれこそ「アホクサ」の極みである。内心びくびくしながらようようたどり着いたミュゼには、果たして・・・面妖なくらいヒトがいた。それもkid(餓鬼とも言ふ)を連れた家族者ばかり。何や知らん、と思いつつともかくも券を買って入ってみるに、なんでもなんたらちう集団(アホクサくて名前は忘れてしまった)が手がけた、従来にはない作品形態らしい。これもうろ覚えでいうのだが、「われわれはデジタルが従来の美の概念を拡張するものと考えている」というキャプションを見てげんなりした。「従来の美の概念」にデジタル技術が含まれていない以上、デジタルを使えば、言った者勝ちかどうかはともかく「概念が拡張」されるのは当たり前ではないか。昨夜の「純米で辛口」並みの無意味な惹句であって、これは上方的な用法ではなく文字通りにアホクサい。どうせなら従来の美の概念をここまで縮小してみせました、くらい言えるような企画をしてみせんかい。


 よって展覧会に関する一切の論評は差し控える。


 駅まで、今度は我を折ってバスで戻ると頭の中ではあほらしやの鐘ががんがん鳴って昼酒を呑む気力もない。鯨馬二日目にして討ち死にか、と横に目をやると駅に隣接するJRのホテルに「CITY SPA てんくう」なる文字が。丁度営業が始まったばかりである。温泉は温泉であってともかくも浸かっていればこれ以上具合がひどくなることもないだろう(「新しいコンセプトに基づいて従来の温泉の概念を拡張した」のでないかぎり)。客観的にはともあれ主観的には這う這うの体でエレベーターに乗り、十九階のボタンを押した。


 最悪そこらのスーパー銭湯を覚悟しておけばいいわけだ、と思っていたところこれがじつによろしかった。ま、全体としては瀟洒なつくりのスーパー銭湯というところながら、何せ駅の真上の十九階での露天(まさしく天に向いて露出した按配)風呂なのですからな。しかも二つある浴槽のひとつには、さすがに「おんせん県」、きちんと天然温泉の茶色く澄んだのがこんこんとあふれている。


 真上に広がる空も素晴らしいが、下界の眺めも絶品である。右手は別府湾とそこにのしかかるような山並み、右の端は国東半島がやんわり霞む。海はいうまでもなくきらきら。山は、関西みたいにのんのんとしたなだらかな稜線を描かず、突兀と盛り上がってじつに力強いカタマリ感を与える。左手のいちばん奥にひときわ高くそびえるのは由布岳か、このロケーションで、この好天ならひょっとすると九州随一の霊峰英彦山かもしれない・・・などと胸躍らせながら湯に浸かるのは極楽極楽。文字通り天にも昇る心地だった。


 結局この温泉では二時間半の長居をした。風と涼しいくらいの気温とからっとした空気は、この高さにもなると寒さにさえ感じられて、雲が太陽を隠しているうちはとても浴槽から上がれるものではない。といって太陽が顔を出すとそれはそれで快感のあまり、出る気持ちも解かされてまた躰をめいっぱい伸ばすことになる(お陰でものすごく日灼けしてしまった)。また、天然泉でないほうが高濃度炭酸泉だとかで、三八℃という超低温のお湯ながら、ラルゴのテンポでじぃーわぁーと効いてくるんですな。そのまま自分が一個の泡になってふわふわ浮いてしまいそうな気分。いってみれば人工の極みのような湯なのだが、こういう仕掛けなら偏窟といえども気持ちよく称賛しますよ。ま、昨日の、背中をどーんとどやされるような芳辣な快感とは違ってずいぶん「甘口」ではあるのだけれど。


 いくらぬる湯とはいえ、これだけの時間浸かりっぱなしだとさすがに喉はからから。改めて昼呑みの店を物色しながら町を歩く。しかし健全質実な大分の町でこの時間見かけるのはランチや定食の店ばかり。メシが欲しいのではないし、その手の店は三時には閉めてしまうことが多いので(この時二時を回っている)、落ち着けないのが困るのだ。


 こういう時に妥協して夜までイヤな気分を引きずるのも鬱陶しいから、結局一時間近く歩き回ってようやく飲み屋さんの昼営業らしいところを見つけた。ついでに晩めしの店も見つかったのだから、やはり妥協してはいけないのである。ここでは枝豆と鯵フライと玉子焼き(とくに旨いわけでもないが、丹念に作っているのが分かって好もしい)を肴にビールをひたすら呑む。最近はビールは一杯か二杯でいいなと思うことが多いけど、この日はやっぱり旨かった。


 満足して店を出るとはす向かいに古本屋の看板が見える。なんたる僥倖ぞ。と心躍ったが、近寄って見ると「カフェと古本」てなことが書いてあるのをみてイヤな予感がした。このテの店がろくなものであった経験がない、とはつまり紅茶の淹れ方も拙劣だし(そのくせオーガニックがうんたらとか麗々しく書いておる)本の仕入れも並べようも一見して素人、いや素人以下と分かる程度(そのくせ店長のこだわりのコーナーとか書いておる)。


 ま、しかし豊後府内の町とゆっくり付き合うのはこれが実質初めてだからな。土地の精霊に敬意を表して、ワルクチはぐっと飲み込み、気に入らずともなにか一冊はもとめることとしよう。と決心して入る。


 ぐっぐっぐうっと飲み込みながら買ったのは大野林火の句集とペンギンクラシックスの「ローマ帝国初期詩人集」だった。どうも鯨馬にとっては、「かわいい」「てづくり」「自然派」という三幅対は鬼門のようである(けだし「新人入ったとこ」「ぽっきり」「サービス満点」の誘い文句三幅対の剣呑なることと同断の如し)。単に無神経/小汚い/不精たらしいというのとの違いが、もひとつわかりませんのですな。これでは通になれない。あ、結局ワルクチになってしまった。


 ホテルに戻り、ベッドにひっくり返って買った本を拡げてみたが俳句もラテン詩もまるでぴんと来ない。陽が落ちるまで寝ることにする。昼間温泉、ビールの後は昼寝、旅の醍醐味というもの。


 日が沈むとさらに涼しい。Tシャツの上に一枚羽織って出て良かったと思いながら、昼間目星を付けておいた店へ。今夜はイタリア料理である。ごく小体なつくりで、ご主人とホールの女の子二人だけの店。小さい店は客あしらい一つでずいぶん居心地が悪くなってしまうものだが、二人とも気さくでしかも丁寧。


 はじめは「おひとりさま」用に、おつまみを盛り合わせた皿でワインを一杯。鶏のクロスティーニとキッシュが旨かった。


 この後当方がメニュを見て考えていると店主が相談に乗ってくれる。さすがにパスタの後でセコンドは無理かな。ではアクアパッツァの中にパッケリというパスタを入れて煮込みましょうか?その後で肉、お願いね。ふふ。


 この、ふふ。の笑みの意味は料理が来て判明した。まな板大の皿の上にどーんとホウボウが一尾(なかなかお目にかかれないサイズ)、周りをムール貝が取り巻いている。なんのことはない、別府湾の一角をそのまま掬い取って来たという趣の一皿であって、見た目もすばらしいが、味は贅美を尽くしたとしかいいようのないものだった。まずムール。並みのものだと野暮くさくて何が旨いんだろうと思うこの貝が、玲瓏ともいえる澄み切った味わい。訊ねてみると豊後水道のとくに水の綺麗なところで養殖しているのを使っているという。「珍重されるモン=サン=ミシェルのブツに比べてもひけはとりません」とのこと。ナルホド。


 しかしもちろん主役はあくまでもホウボウである。デカイ割りには味がぼやけておらず、というより、これまで塩焼きや椀種としてもひとつノリの悪いやっちゃな〜と思っていたくらいなのが、ここでは花やかに変身し、ニンニクやパセリ、タイムの香りにも負けず堂々と味を主張している。それにひとりで隅から隅まで食べられるのだからね、部位ごとの食感や味の違いを、文字通りに骨までしゃぶり尽くした。ことにホウボウ独特のあの胸鰭をちゅうちゅう吸っていると絶妙の味が舌に触れて、ついワインがあることを忘れそうになってしまう。またパッケリという、一緒に煮込まれたパスタ、見た目はずんぐりと老婆の靴下みたいで色気の無いこと甚だしいものの、その分アクアパッツァのダシを存分に吸い込んでいるわけで、トマトやオリーヴを間に挟んで口に運ぶと、まずは官能的な触感、次にと渾然一体となったダシがいっぱいに広がる。


 ほぼ無言で一滴のダシも余さず食べ終えたあと、ようやく顔を上げたひとり客に向けてご主人が「肉は召し上がりますか」と、今度は明瞭ににやり、という表情で訊ねてきた。降参降参。


 食後、赤ワインで余韻を楽しみつつなんとなくイタリアの話になる。思い返すと胸がきゅんと鳴る、というところでは二人ともソーダソーダと深く頷く。「あ、それなら」とやおらご主人が奥に入っていくと、流れ始めたのはBS−TBS『小さな村の物語 イタリア』のテーマ音楽であるL'APPUNTAMENTOであった。三たびご主人がこちらを見ていたずらっぽく笑う。


 今にも涙が出そうだ、と頷くと、「毎日これを初めにかけて、エスプレッソを飲んでひとしきり涙を流してから仕込みに掛かります」との答が戻ってきた。いい店だなあ。たしかに平日にもかかわらず、瞬く間に客で満杯になっていた。値段も思わず聞き返したくらい安い。冬はジビエも頻繁に出る、とのこと。また来ますね。


 大分の夜は続く。(つづく)
【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村