菱岡憲司さんの『小津久足の文事』(ぺりかん社、5400円)が出て、これが実にいい本である。どうあっても双魚書房通信に取り上げるべし、と思っていたところ、飯倉洋一氏の忘却散人ブログで紹介されていた。順番を競うものではないのだが(いや、やっぱり口惜しい)、そして何度取り上げられてもいい価値を持つ本だとは思うのだが、こちらが書きたかったことをぜんぶ、ものの見事にぜんぶ、飯倉先生が書いてしまっているのである。書評のタイトルは「菱岡憲司の文事」でキマリやな、とひとりほくそ笑んでいたのに、これもばっちり使われている。菱岡さんの贔屓筋としては残念でたまらない(拙ブログ「懦夫をして起たしめるもの」ご参照ください)。熱愛発覚のニュースに接したジャニーズファンの心境である。だからやけ食いやけ酒をしたのである。牡蠣のグラタンと猪肉のパテでワインを呑み、穴子の南蛮漬けで滋賀酒を呑み、和牛のラグーソースのパスタでアードベッグのハイボールを呑み、ぼんち揚げをかじりながら焼酎の水割りを呑んだのである。
しかし悔しい口惜しいと繰りかえすだけではなんぼなんでも大人げない、と反省した(で、今これを書いている)。
以下、内容は飯倉先生のご指摘とほとんど重なりますが(口惜しい)、ファンとしての感想を少しだけ。
学者とその研究対象との出会いにはまことに不思議なものがある。こう結びつくより無いわなあ、という《縁》が感じられるのだ。菱岡さんと同じ日本近世文学の中から例をあげるなら、高田衛と上田秋成。揖斐高と柏木如亭。ね。まるで筍の旬に新若布と木の芽が出て、河豚の旨い時季に橙が生るようなものである(高田先生、揖斐先生、すいません)。あるいは、そういう対象に巡り会えるということ自体が学者の才質の証明になるのかもしれない。
菱岡さんと小津久足もまた同じ。ご両名とも残念ながら御目にかかったことはないけれど、まるで右手と左手がぴったり合わさるように似ている、と思う。
そう感じさせる理由は、一つははっきりしている。共通する精神ののびやかさである。小津久足は松坂の町人にして、本居春庭、つまり宣長の長男の門人(しかも宣長と同じ小津一族の出身なのだ)というがっちがちの環境にありながら春庭も宣長も賀茂真淵でさえも批判し、その紀行文を読んだ馬琴に(あの頭の高い馬琴に)「後生畏るべし」と言わせた男である。国学漢学いずれの束縛からも自由にものを考えることが出来た一箇の畸人である。菱岡憲司「北窓書屋ブログ」中の「小津久足アネクドーツ」参照。
菱岡さんは篤実敦厚の学究でありながら(恩師先輩への感謝を綿々と叙したあとがきからも分かる)、専攻とする領域に跼蹐することなく、広く世界の文学を愉しみ、またそれを自分の血肉と化すことの出来るひとである。なんせ光文社の古典新訳文庫を片っ端から読んじゃうんだからね。単に教養として読むんではなく、一作一作と丁寧に付き合い、そこに自分の好みの筋をぴしっと通しているところがすごい。本書には別段カタカナ名前の作者作品が引用参照されているわけではないが、その背景が行間にじわっとにじみでている。現象的に言えば、文体の気品である。いたずらに晦渋にならず、暢達よく意をうつし、しかも冗長に流れない。つねに文学と初々しく―ということはつまり真摯に―向き合っている姿勢(まるで、星みた子犬のように)も好もしい。
しかし学問が機械的な分析でも作業でも無い以上、どこまでも幸福なる蜜月の状態をよく保ち続け得るものかどうか。ぎくっと、ひやっとさせられるものともとことん付き合うのが他ならぬ文学の研究であると思う。先に挙げた高田先生揖斐先生のお仕事を拝見してつくづく思うのだが、学者が対象を発見する以上に、対象は学者そのものを形成していく。
菱岡憲司さんの文事、これからもじっくり付き合っていきます。
それにしても、久足紀行文の雄篇と仄聞する『陸奥日記』、はやく出ないかなあ。
- 作者: 菱岡憲司
- 出版社/メーカー: ぺりかん社
- 発売日: 2016/11/14
- メディア: 単行本
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