この世の外なら何処へでも

 旧師が講演をするというので、大学へ。先生の語り口は二十年前のままだった。主題は源氏物語「野分」巻の「あくがるる心」をめぐって。「あくがる」(現代語形だと「あこがれる」)、今は「理想的な対象に心惹かれる」という形而下的な使い方が主流となってしまったが、本来はこの語、「魂が自分の身から離れてさまよう」という意味だった。「野分」巻における「あくがる」の用法を精細に観賞していくという流れの講演で、冒頭にドイツロマン派を持ってくるところもF先生らしい。浪漫的な気質、殊に「あくがる」という側面に鋭くひびいていくご自分を、凝っと見つめているという趣であった。
 旧師に引き比べるのはおほけなきことながら、離魂の癖(へき)、鯨馬にも少なしとせず。先生の口調はユーモアを交えたものだったが、所々胸を抉られるような思いがした。
 講演後はせっかく六甲に来たのであるから、『彦六鮓』で呑む。学校へ行く前に、近くの「フクギドウ」で開催中のやちむん展に寄り、登川均さん作の酒器と、鉢を買っていた。『彦六』で無理を言って、その酒器で燗酒を出してもらう。ぐい呑みに注ぐ時の音が魂に滴るようでありました。
 二軒目は先生方と合流して三宮。文学の話をこれだけ語ったのは久々という気がする。

石牟礼道子『花びら供養』(平凡社)・・・渡辺京二編。
河出書房新社編集部編『池澤夏樹、文学全集を編む』(河出書房新社)・・・講演の前日に手に取った本。偶々だが、『源氏』訳を続けている角田光代さんが、先生(解題を書いている)について触れていた文章に出会って何となく嬉しかった。
○内田洋子『十二章のイタリア』(東京創元社)・・・エーコ追悼と本での村おこしを描いた最後の二章が面白い。ヴェネツィアで出版業が盛んだったのは知識として持っていたが(代表的な出版人であるアルド・マヌツィオの伝記を読んだおぼえがある)、リアルト橋のたもとから聖マルコまで書籍の店が続いていたとは知らなんだ。それにしても、ヴェネツィアのことを書いているだけで、「あくがるゝ」心地になるのはなぜでしょうね。
○スティーブン・バックマン『考える花  進化・園芸・生殖戦略』『感じる花 薬効・芸術・ダーウィンの庭』(片岡夏美訳、築地書館)・・・味が薄い。思えばエーコ教授のような超弩級のエンサイクロペディスト(かつ魅惑的な語り手)はほんとに見当たらなくなった。
○マリオ・インフェリーゼ『禁書 グーテンベルクから百科全書まで』(湯上良訳、法政大学出版局
○クラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデ『写本の文化誌 ヨーロッパ中世の文学とメディア』(一條麻美子白水社)・・・中世のインクって茨から作ってたんですな。
○マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話 その形と本質』(小澤俊夫訳、岩波文庫
池上永一『黙示録』(KADOKAWA)・・・『テンペスト』があまりに面白かったもんだから、「それを越える傑作」とか言われるとかえって不安で避けていた。でも読んでみるとやっぱり凄い。与那城王子という、『テンペスト』の聞得大君みたいな怪物的キャラクターが登場して、「俟ってました!」という感じ。主筋にはあまり絡んでこないのだが、小説家が出したくて仕方ない、という感じがよく伝わってくる。
○藤田正勝『日本文化を読む 五つのキーワード』(岩波新書)・・・西行の「心」・親鸞の「悪」・兼好と鴨長明の「無常」・世阿弥の「花」・芭蕉の「風雅」だそうである。へへえ、恐れ入りました、という感じである。
○浅野秀剛『浮世絵細見』(講談社選書メチエ
○松本郁代『天皇の即位儀礼と神仏』(吉川弘文館
○ブアレム・サンサル『2084世界の終わり』(中村佳子訳、河出書房新社)・・・「2084」は「1984」から一〇〇年後。お分かりのようにオーウェルの『1984年』を先蹤と仰ぐディストピア小説である。破滅的な世界戦争のあと、「徹底的かつ決定的な勝利」(どっかの独裁国家のニューステロップみたいやな」)を収めたある宗教が治めるアビスタンという単一国家が世界を覆い尽くしている(とアビスタンは主張している)。崇拝されるのはヨラー(!)なる神とその「代理人」たるアビ。巧妙かつ容赦ない宗教=政治の監視システムの中で人々の思考は完全に停止。辺境のサナトリウムから帰還したある青年が、世界の真実と自由とを求めて聖なる都へと侵入する―――とまあ、鯨馬はこのオビの紹介に惹かれて読んだのですが、どうもいけない。ディストピア小説は大概退屈なものだけど、この新作も喜ばしき例外とはなれなかった按配である。世界のシステムを説明しよう説明しようとするあまりに、小説としての動きが無くなってしまうのがこのジャンルの欠点で、『2084』もなんだかWikipediaで新作RPGの梗概を読んでるような味気なさが残った。第二に、これははじめの疵とも結びつくのだが、主人公が行動しない。一つだけやってのけるのだが、その後はまるで某朝の連続テレビ紙芝居、じゃなかった、連続テレビ小説のナレーションを聞いてるがごとき進行で、とはつまり、結局は紙芝居なのである。そして第三にこれだけ枚数を使って世界の解説をしてる割には、それが生々しく迫ってこない。むしろ、徹底した寓話、ないしは神話的な方向性を狙うべきではなかったか(ブッツァーティや『シルトの岸辺』のジュリアン・グラック)。作者はアルジェリア政府の厳しい監視下にあって創作活動を続けているそう。その勇気には敬服の他ないけれど、『服従』を嗣ぐ作品とは到底申しかねます(ウエルベックがオビでそう推薦しているのだが)。しかし、今や《世界》を描くには宗教はやっぱり不可欠の主題なんだなあ、とそれだけが妙にリアルに実感できた。いっちょオレが書くか。

 

2084 世界の終わり

2084 世界の終わり

 

 

 

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