鶉が叫んで冬が来る

 山鶉(ペルドローグリ)が熟成しましたと知らせをもらって「MuogOT」へ。一年ぶりだな、うずらちゃん。リヨン風ソーセージもサラダも旨かったけど、やはりこの日の主役だけあって、山鶉は見事な仕上がり。ももはコンフィしてから炙り、胸はそのままロースト。細かい肉はフォアグラを混ぜて蒸し焼きに。土鍋の中にはアラで取ったスープで炊いたリゾット。てっちりだって最後の雑炊に味の粋が集まるように、このリゾットも身をくねりたくなるような旨さでした。土の香りと葡萄酒の香りがする肉は言うまでも無し。それより驚倒したのは肝・心臓・砂肝(串焼きにしてある)だった。トリのキモに驚倒とはまた大袈裟な。いえ、誇張に非ず。内臓だから無論苦いのだが、その苦さがおっそろしく気品に富んだもので、山深いために春のおとずれも未だ知らない庵の松の戸に雪の玉水がしたたり落ちる、という風情であった(式子内親王は鶉の肝が好物だったのではないか)。神戸牛のシャトーブリアンがこようが黒鮪の大トロがこようが、少なくとも凜然たる気配においては敵うものではない。内臓ばかりの鶉ちうのはどこかにいないものか。「ひとつとりふたつとりては焼いて喰ふうづらなくなる深草の里」(蜀山人)。前田さんのジビエ料理を食べると冬到来、という実感が湧いてくる。次は年末に鳩を料ってもらうことにする。※ワインではハイリゲンスタインの二〇〇三年というリースリングが良かった。


 その前田さん。鶉の状態を説明するのに「このコ」「このコ」と言う。その口調ととろけんばかりの表情がじつに可笑しい。スティングやクイーンの歌を口ずさみながら「このコ」の羽を毟っていたと聞くと尚更可笑しい。なんでも「弾の当たり所が良かったので内臓が綺麗にのこった」とのこと。


 鶉にしたらどこに当たったとて当たり所が悪かったには違いない。


 それにしても、死してなお「熟成」が求められるとは、このペルドロー氏、余程因果な宿世を負っていたものと見える。当方などは四十年生きてみて、毛ほども成熟したおぼえがない。これが死んだら多少はマシになるのであろうか。一年ほど経って遺族うちそろって開「棺」式をば執り行う。

 「あら、お義父さんたらすっかり脂気が抜けちゃって」「おじいちゃんの内臓、とろっとろだね」「軒に逆さに吊っておいてもう少し放っといたらええのとちがうかしらん」「心臓の串焼きはジャンケンで勝った人のもん、ちうことらしいで」


 なんだかゾクゾクして参りましたので、読書メモはまた次回ということで・・・

 

 感懐一首。

いのちあるものは熟成せざりけり皿のジビエのくれなゐぞ濃き

 

 

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「このコ」です。

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