沙翁道中膝栗毛

 「極私的ヘーゲル&沙翁まつり」が続いている。年末年始は仕事柄用事が多くなるので、遅々として進まないというのが実情。ま、目新しい情報を、しかもすかすか気味にしか盛り込んでない新書を読み飛ばしてるんじゃないから、焦らず乱さず読み続けようと思う。大体が期限のあるものではないし。

 ヘーゲル(『哲学史講義』)のいいサブ・テキスト誰かご教示くださいませんかね。長谷川氏畢生の訳文のおかげで不審なくらいすらすら読めるのではあるが、なんせ素人ゆえ、ヘーゲルの言説をしかるべきパースペクティヴの中に置いて見ることが出来ないのですね。『哲学史』の後に予定している『美学講義』(四年前に中断したっきりとなっている)の方は、むしろアランを読むためのサブ・テキスト、というか《地ならし》という心づもりがあるのだが。

 松岡和子訳シェイクスピアは『リア王』と『ハムレット』と『夏の夜の夢』が終わったところ。松岡さんの訳文も響きが良くていい(ただ喜劇よりは悲劇のほうがよりいいんではないか、というこれは現時点での感想)。こちらの方は、一度挙げたコリーの『シェイクスピアの生ける芸術』や蒲池美鶴『シェイクスピアアナモルフォーズ』(東京大学出版会)など、むしろサブ・テキストが充実しているために中々進まないという事情(言い訳)がある。

 コリー訳書を含む「異貌の人文学」の監修は高山宏。そして、蒲池氏の著書は図書館でなにげなく手に取って立ち読みしてみると、滅法面白そうだったという出会い方で、「これは高山さん好みだろうな」と内心見当をつけていた。すると、やっぱり近刊『見て読んで書いて、死ぬ』(青土社)でばっちり絶賛されていたのである。こうこなくてはならない。と自分のセンスにうっとりする(少し高山節が憑いている)。

 『見て読んで書いて、死ぬ』はブログの書評を集成したもの。最近余り読めてないなあ、という時のいわばリハビリには、超絶読書家の書評集を服用するのが、少なくとも自分の場合いちばん効く。つまり猛烈に読書欲が刺戟され、酒も美食も美女も(一時は)要らぬという気分にしてくれる。

 予測通り効いてくれましたねえ。騒々しい文体は相変わらずだが、それも含めてなんだか随喜の涙がこぼるる程に嬉しかった。おかげで衝動買いに突っ走ってしまう。来月のカードの支払いを考えると浮かぬ顔になるのを抑えられない。

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 困ったのは、邦訳の無いものでも原綴なしに著者名書名が挙げられていること。「ブースケの『マニエリスム絵画』」なんて言われてもね。「ブースケ」でネット検索しても「怪獣ブースカ」ばっかりヒットするし(何とか探し当てて注文出来た)。こういう種類の書物には詳細な索引を付け、人名・書名の原綴を添えるべきではなかろうか。曲がりなりにも一般向けの本でそれは衒学的すぎると言うか。しかし高山宏に学を衒うなというのは芸者に別れろ切れろというようなものではないか。

 學魔に敬禮。

 それにしても、まだ読んでない本のことをつらつら書いてもしようがない。少ないながら一月分の決算報告を。

斎藤信也『人物天気図』(朝日新聞社)…往年の大記者によるポルトレ集。どことなくのんびりした文章の風情がよい。
○マーガレット・トマス『ことばの思想家50人 重要人物から見る言語学史』( 中島平三総監訳、瀬田幸人・田子内健介訳、朝倉書店)…参考文献がいちばん有り難い。
○カタジーナ・チフィエルトカ、安原美帆『秘められた和食史』(新泉社)…やれやれ。
○『初代桂春團治落語集』(講談社
矢野誠一『ぜんぶ落語の話』(白水社
○逸身喜一郎・田邊玲子・身崎壽編『古典について、冷静に考えてみました』(岩波書店
南利明『ナチズムは夢か ヨーロッパ近代の物語』(勁草書房)…この怪物的大著(二段組みで千ページ近い!)にだいぶ時間を喰われた(失礼!)のである。うーんと大雑把にいえば、近代的主体の確立がナチズムを準備したということになるのだが――もちろん本書の意義は、前提のそのまた前提から説き起こして諄々と論証していくその過程にある。
○『これが好きなのよ 長新太マンガ集』(亜紀書房)…長新太の怪人玉ネギ男と長ネギ男が好きなのよ。
安藤礼二編『松山俊太郎 蓮の宇宙』(太田出版)…法華経において、白蓮たる釈尊と紅蓮たる女神との融合が説かれているという、少なくとも仏教教学に全く縁の無い衆生には衝撃の解釈が披露されていた。うーむ、これは『法華経』を丁寧に読まないと勿体ないな。勿体ないといえば、一応専門である梵文学というか「蓮」関連の文章を集めてもこの一冊にしかならなかったという松山俊太郎の天才の濫費ぶりもそう。ものすごい学殖と知見とを惜しげも無く撒き散らして(文字通りの散華!)る壮絶な絵図を目の当たりにしてるようで、何かこう、呆然とする。まあ、でもこの本にしても、安藤礼二(高山さんの本によれば「アンドレ」なる渾名を奉られているらしい)でなければ編集して出せなかったろうな。


  アンドレに敬禮。


○ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ『ヴォルテール、ただいま参上!』(松永美穂訳、新潮社クレストブックス)…ヴォルテール門徒としては見逃せない一冊。手練れの作者(らしい)によって、フリードリヒ大王とヴォルテールの虚々実々の駆け引きは瀟洒にスケッチされているが、期待が大きすぎたせいか、ややコクが足りないように思った。おそらくシェートリヒがネタ本の一つにしたであろうフリーデル『近代文化史』(同じドイツ語だしね)の方が、もっと劇的にもっと陰翳深く二人の肖像を描き出している。と書いてたまらなく懐かしくなりフリーデルを読み返したのだが、「ロココの王」(=ロココ時代の精神を体現する人物)としてのヴォルテール、そして「ロココの王」(=ロココ時代に覇を唱えた代表的な政治的支配者)としてのフリードリヒ、いやあアクが強いっ。二人の出会いは「プロイセンの胡椒とフランスの塩」の出会いというより「プロイセンの砒素とフランスのトリカブトの邂逅」と呼ぶのがよりふさわしい。そして、この二人が二枚看板をはっていた十八世紀という時代がいかに奇っ怪な魅惑に充ちていた世界だったか。


 文楽、初春の興行(昼の部)は『寿式三番叟』・『奥州安達原』「袖萩祭文」・『廿四孝』「十種香」「狐火」。鶴澤寛治さんが病気休演だったのを心残りとして、全体に愉しめた。『三番叟』は有名な鈴の踊りもよかったが、日本の神事=芸能のエッセンスがここに収斂するような、少し文化人類学乃至民俗学的な興味も加わってなおのこと面白い。荘重な翁の奉納の後には「もどき」が続かねばならないのである。日本文化の、健全な性格をそこに見ることができるように思う。

 翻って「袖萩祭文」は情緒決壊でハンカチをしぼる。親とは疎遠だし、子供が嫌いな人間が、どうして、何故、親子ものの狂言になるとかくもたやすく泣いてしまうのであるか。『.卅三間堂棟由来』の木遣でも、葛の葉子別れでも、すぐ目頭が熱くなってしまう。

 「十種香」は、歌舞伎の方の極めつき、(先代)雀右衛門の八重垣姫が重なって見えて仕方がなかった。逆に雀右衛門の芝居だと(残念ながらヴィデオですが)常に人形の俤がゆらめき出て見えるのは不思議なことである。「狐火」は人形ならではの妖しく艶めかしい舞台。ここまで邪気無く勝頼を恋する八重垣姫って、やはり可愛い。

 帰りはいつもの如く、道頓堀の『今井』。煮染めと板わさで熱燗をきゅーっとやってから夜泣きうどん(「きつね」より断然こちらが好き)。これまたいつもの如く、出汁の清澄にしてのびやかなことに感歎する。こういうのがプロの技なんでしょうなあ。

見て読んで書いて、死ぬ

見て読んで書いて、死ぬ


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