牛と蛸と美少年

 職場菜園の青ネギが大豊作。で、家で鴨すきをした。清酒と薄口醤油の割り下にちょっぴり蜂蜜を落とす。卵は用いず、柚子をしぼったり針柚子をのせたり粉山椒をふったりして愉しむ。翌日は鴨のあぶらと肉汁がこびりついた鍋でうどんを炒める。


 一人で抱き身一枚はえらく食べでのあるもので、鴨もすき焼きもこりゃ当分は要らんわな、と思っていたところ、またもやすき焼きを食べることになった。


 ずいぶん奢っているようだが、自分でやったわけではない。『いたぎ家』が誘ってくださったのである。なんでも某料理人が「ホンマに旨い牛肉を食べさせてあげる」と差配してくれ、鯨馬もそのご相伴にあずかったというわけ。


 『バンブー』の竹中さんが(あ、名前書いてしまった)肉を焼いてくれたのだが、当方の如きずぶの素人が見ると目をむくぐらい砂糖をふりかけるのである。醤油はちょっぴり。そして肉はしっかり焼く。そんな罰当たりなことをして・・と心配になるほど、綺麗な極上等の肉である。


 まさか、と思いつつ口にするとこれが旨いのですな。魔法にかけられたような気分でありました。『いたぎ家』営業終了後からの開宴だったため、夜中三時過ぎまで「むう」と唸りつつ食べていた。言うまでもなく食べ物や酒の話で盛り上がりながら、ビールや燗酒をくいくい流し込む。


 翌日、魔法が解けた。昼過ぎに起きると猛烈な胃もたれ。太田胃散を大量にのむ。無論竹中さんの所為でも牛の罪過でもなく、四十男の胃袋の脆弱性に問題がある。はて、そう言えば竹中さんも年はそう変わらないはずだが、大丈夫だったのかしらん。


 昼すぎに向かったのは神戸市立博物館の古代ギリシャ展。空前の規模とかなんとか惹句にあったと思うが、ま、点数はともかく近頃ずいぶん見応えのある展覧会だった。なにしろクレタ文明からヘレニズムまで、要するにギリシャの古代史全部をぎゅっと詰め込んだという展示なのである。


 個人的にはクレタ文明のところがいちばん面白く見物できたな。クレタというところは、中心となる宮殿がミノタウロス(半人半牛の怪物)の棲むラビリントスと目されたくらいで、牡牛の信仰が盛んな土地だった(若者が牛を飛び越えるという儀式もあったらしい)。当然出展品にも牡牛を象ったものが多い。素朴な粘土製のものも精緻な青銅細工もとりどりに見てて飽きないが、面白いのはそれらが犠牲獣の代わりに用いられて、時には破壊されたという説明。


 そうだろうな、あんな可愛らしい動物を殺すなんてしのびないもんな。と納得する。


 エピテートンというものがあります。言ってみれば本朝の枕詞で、特定の名詞を修飾する定型的な言い回しのこと。「眼光輝くアテネ」とか「狡知に長けたオデュッセウス」とか。その中に「牛の眼をしたヘラ」というエピテートンがある。ヘラは大神ゼウスの妃神。ヘラの大地母神的性格を示すという説など色いろで、由来は結局分からないらしいのですが、『イーリアス』を読んでこの形容に出会った時、直観的に「ははん、ヘラの美しさを讃えたことばだな」と思った。牛の眼って大きくて黒く濡れていて、いかにもうつくしいから。女神を形容するのに家畜を持ってくるというところでどきっとさせられますが、古代人にとってはごく自然な心の動きだったはず。


 なんの話だっけ? そう、クレタの牛。我々よりはるかにこの草食獣と親しんでいた人々が、可愛さのあまりに代替物をこしらえるのは実にもっともなことだと頷く一方で、牛を犠牲に捧げた後は当然神との共食という名目で饗宴が開かれただろうから、あんなに美味い肉の味をおぼえた人間が、せっかくのご馳走にありつける機会をふいにするはずもないなあ、と思い返したりする。もちろん昨晩のすき焼きの味を思い出しているのです。歴史の解釈というのはかくの如く難しい。


 牡牛の他に海洋的性格が強いというのもクレタ文明の特徴。海洋的性格、なんていうとややこしく聞こえますが、要するに壺や甕に描く紋様に、海洋生物のモチーフが多いということ。これがすばらしい。


 感銘の半分は文学的なもので、引きしまったイルカの形姿を眺めていれば西脇順三郎の世界が揺らぎ出るのはごく自然な成り行きだし、蛸のモチーフからは吉岡実サフラン摘み』(現代詩屈指の名品)の一節がひびいてくる。もう半分は、純粋に造形にうっとりした。蛸なんか、普段からよく観察してるんだろうなあという形の妙。そのくせやっぱり蛸ですから、どことなくユーモラスな趣があるのもよろしい。


 牛と違って愛玩していたわけではないだろうけど。


 古典期の彫刻は面白くないわけではなかったけど、クレタのほうが上だな。最後のヘレニズムの部屋に入ると尚更具合が悪い。どれも妙にリアルであくどくて、一言で言えば品格が低い。誰やらが「悪しき人間主義の亡霊」と評していたのはこういう傾向であるか、とある意味めっけもんだったと思いながら見て回り、会場を出ようとした最後のところに尤物が控えてました。伏し目がちな美少年の胸像。


 性的嗜好を告白してるんじゃないよ。この像のモデルとなったのはアンティノウス。注釈しておくと、ローマ帝国最盛期の皇帝ハドリアヌス(いわゆる五賢帝の一人)の愛人だった少年。ナイル川で事故により溺死。悲嘆に沈む皇帝は、アンティノウスを神格化し、アンティノエという都市まで建設したほど。世界史上もっとも豪奢な追悼のひとつではないか。


 もっとも鯨馬がローマ史に詳しいわけではなく、これまでの情報はすべてユルスナルの歴史小説ハドリアヌス帝の回想』によるもの。読まないと人生で大損したことになるような名作ですよ。詩人多田智満子の訳文は、神品とも称すべき出来栄え。そういえば多田さんもたいへんなギリシャ贔屓だったよなあ。


 ともあれ、一時この小説にずいぶん入れあげていた人間としてはアンティノウスの像は見逃せないものだったのです。彫刻としても出来がいいんじゃないかな。と書くとさっきヘレニズム期の作品をくさしたのと矛盾するようですが、なにせモデルは半分神様みたいな存在だし、顔の造作もだいぶん欠け落ちているため、へんに生々しいところがいい具合に薄らいでいるのである。「少し不満げな(きかん気、だったか)頤の線と思い詰めたような瞳のいろ」だったか、正確には憶えていないが、そんな風な特徴は良く出ている(というよりこの彫像を見てユルスナルが書いたのでしょうが)。ウィキペディアの画像では少し輪郭がきつく見えますが、実物はもっと陰翳に富んでいる。蛸の壺とアンティノウスの絵葉書が無いかと探してみたが、なかった。


 夕景になって、まだ少し重い胃を抱えたまま、三宮の鉄板焼き屋へと向かう。こんな調子で鉄板焼きなぞの食べたかろうはずはないので(いや空腹時でも選ばんか)、張龍が「久々に鉄板焼きでビールを呑みたい」というのに付き合ったまでのこと。


 というつもりでしたが、悪くない店で、後半は張龍よりもよく食ったくらいであった。メニューの中に「蛸のバター焼き」なるものがあったので、なんとなく嬉しくなって注文してしまう。ここらへん、精神の動き方は複雑にして微妙。ぷりぷりした美味い蛸でした。


 さすがに「佐賀牛300グラム」は頼まなかった。


 その後も当然飲み歩いていたのでしたが、最後の店で張龍が突然、こわれた。靴も靴下も脱いで床にひっくり返ってしまい、駄々っ子のようにばたばたしておる。たしか張龍には七つの肝臓があったはずじゃが・・・たった六軒くらいで乱酔するとは、こやつももうオッサンということか(三十二才)、無常迅速秋の風。悵然となって四十三のオッサンが家までかついでいく。嗚呼人生。
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