枕の中から囁く声は~双魚書房通信(18) ミシェル・ウエルベック『H.P.ラヴクラフト 世界と人生に抗って』(国書刊行会)~

 『服従』で世界を騒然とさせたウエルベックの、最初の本。ウエルベックとあの怪奇な神話の創造主との結びつきがもひとつ分からないままページを繰ると、スティーヴン・キングの序文(二〇〇五年版)がある。


 自分で書いてて怖くなったことはあるか。これはホラー作家なら何度も受けたことのある質問だが、それはギタリストの指にタコができるような、いわば職業病であってどうってことはない、とキングは言う。しかし、書くこともできないほどの恐ろしいアイデアが浮かんだことがあるか。これはすでに「職業病などという退屈なことについて話しているわけではない。彼らは仕事の話をしているのであり、それは決して退屈なことなどではない」。ではキングの場合はどうか。


 プロヴィデンスラヴクラフトの故郷)の街を歩いていたキングは、通りかかった質屋のショーウィドーを見ながらこう夢想する。この中に、ラヴクラフトが毎晩毎晩頭を載せて寝て、その上で夜な夜な夢を見た枕があったとしたら。枕に封じ込められたラヴクラフトの「悪夢のさえずり」を物語にしたらどうだろう!


 この物語が実際に書かれることはなかったわけだが、モダンホラーの帝王にしてしかり。そしてウエルベックの見るところ、HPLこそは「書くこともできないほどの恐ろしいアイデア」を書き続けた小説家なのである。

 


    「あらゆる人間の渇望すべての絶対的な無意味さにここまで侵蝕され、骨まで刺し貫かれた人間は、きわめて稀だろう。」
    「彼の作品の主人公たちの死には、何の意味もない。それはいかなる安堵ももたらさない。物語を締めくくらせてくれることも全くない(中略)こうした悲惨な展開には無関心なまま、宇宙的な恐怖は膨張し続ける。」

 


 だが、「ラヴクラフトの作り出す恐るべき存在は、どこまでも物質的である」。大いなるクトゥルフすらも「電子の配列のひとつ」に過ぎない!だから彼の作品の主人公たちの造形がおしなべて平板なのはむしろ意図的であり心理描写は邪魔なのだ。「彼らの唯一の実質的な役目は、知覚することなのである」。主人公はみな、おぞましい怪物=神を呼び出すためのいわば口実(プレテクスト)に過ぎないというわけだ。キングも序文で「彼の恐怖の叫びは明晰である」と断言している。認識でも(ホフマン『砂男』)行為(キングの諸作)でもなく知覚。ウエルベックは言う、「視覚は(中略)ある時は妖精譚的建築の驚異的な眺望をもたらす。しかし悲しきかな、わたしたちには五感がある。そして他の四感覚はこぞって確認するのである、世界は率直に言って気持ちの悪いものなのだと」。


 いかなる心理学的・人間的意味も持たない恐怖は、客観的な叙述を求めるだろう。HPLが遺伝子学や数学、物理学といった最新の科学を取り入れようとしていた、という指摘は(ゲーデル不完全性定理からアインシュタインの相対性原理まで!)興味深い。HPLと資質こそまるで逆方向とはいえ、徹底した人間嫌いという点では通底するリラダン(ホラー作家とは呼べないけど)がテクノロジーへの独特なアプローチをもって作の構成原理としていたなあ、などと連想する。


 それにしても、かかる暗鬱な神話群を書き続けられた人間とは。ウエルベックによれば、HPLは民主主義や経済第一主義を嫌い抜いた(だから極貧のうちに死んだ)。その意味では反時代的精神の持ち主だったようだが、反面、いかにも一九世紀末に生まれ三〇年代に亡くなった人間らしく、頑迷な人種主義者でもあった。むろん、彼が属していた社会階級(「ニューイングランドプロテスタント清教徒の旧ブルジョワジー」)からすれば当然の偏見だったが、ニューヨーク、移民の流れ渦巻くこの都会で生活したことで、その人種主義に磨きがかかった、とウエルベックは推測している。HPL自身の手紙から引いておこう。「南部の海水浴場では、ニグロたちが海岸に行くことを許されていません。繊細な人々が脂ぎったチンパンジーの群れの横で海水浴をしているのを想像できますか?」「わたしは最終的には戦争になるだろうと期待しています(中略)その暁には、人としてアーリア人として、力のほどを見せ、そこから逃げることも生還することもできないようあ、科学的な大規模収容所を作り上げようではありませんか」。


 ここに衰退しつつある階級のルサンチマンをかぎ取ることはたやすい。サディスティックなホロコースト幻想に陰気に昂揚する人生の落伍者の顔つきをうかがうことも同様にたやすいだろう。しかしウエルベックは決然として強調する。

 


    「はっきりさせておかねばならないことは、彼の物語のなかでは、犠牲者の役割はおおかた、アングロサクソンの教養ある、控えめで、良き教育を受けた大学教授であることだ。実のところ、彼こそがむしろその手の人物の典型である。」
    「お分かりのことと思うが、彼の作品を突き動かす中心的な情念は、サディズムというよりもはるかに、マゾヒズムの類のものだ。しかしこれは、その危険な深みを強調するものにほかならない。アントナン・アルトーが指摘しているように、他人に対する残酷さは芸術においては凡庸な結果しかもたらさないが、自身に対する残酷さには、これと異なり大いに興味深いところがあるものだ。」

 


 「危険な深み」とはこの場合、単なる人種主義的憎悪を越えた、いわば情念の自己増殖の謂であろう。HPLの作品において、舞台はどこであれ、「すべてが〈の普遍的現前を露わにするのである」。もうひとつ引いておこう。「諸文化の凋落についての省察よりもさらに深いところにあるもの、それは恐怖だ。恐怖は遠くからやってくる。そこから嫌悪が生じる。やがて嫌悪そのものが憤りと憎悪を生み出す」。『ダンウィッチの怪』にウエルベックは「キリスト教の主題のぞっとさせるような裏返し」や「受難物語のおぞましいパロディ」を見ているが、これはどうか。それこそ《遠くからやってくる恐怖》《普遍的な〈悪〉》を描写しつくそうとした時に、清教徒の血筋あらそえずに漏らした呻き声のようなものではないか。


 ともあれ絶対的な恐怖に執着し続けた小説家は全身を癌に冒され、看護婦たちに感銘を与えるほど忍耐強く礼儀正しい模範的な病人として、一九三七年に死ぬ。


 「世界で初めての真に知的な恋文」「豊かで意表を突く創造性の爆発」とウエルベックの著書を称賛しつつ(キングはご存じのとおりおそろしく率直な物言いをする作家だ)、いくつかの疑問をあげている。人生は苦しみと失望に満ちたものか?人間はわたしたちのなかに好奇心を喚起しないのか?ラヴクラフトはセックスに無関心だったのか?*


 含蓄に富んだ反問だ(発したのがキングだけに尚更)。ここにはHPLの作品だけでなく、ホラー小説、そして文学の本質を問う真摯な声がある。ラヴクラフトの本を持っているかたはぜひ本棚から取り出して読み直して銘々に考えて下さい。できれば夜更けに一人で・・・そして、最後にまたキングのことばを借りれば―――どうか良い夢を。(星埜守之訳)


*「クトゥルフラヴクラフトの物語に出現するときにわたしたちは、巨大な触手を具えている、時空を越えた殺人ヴァギナを目撃しているのだ、といった議論も可能だろう」。やっぱりキング、信用できる。

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ