姫と白狐と満開の桜と

 四月文楽公演は昼の部に。夜の演目は『彦山権現誓助劒』で、仇討ちモノは好かないからである。つまり消極的な選択だったのだが、これが幸いして、「道行初音旅」も『本朝廿四孝』も楽しめました。ついでに言えば、仇討ちモノでも『仮名手本忠臣蔵』は別。大好きといっていいくらいである。思うに、武士道だの忠義だのといった徳目を離れて、純粋なテロ行為になってるのがいいんですね、あれは。大都市のまん中で武装した集団が権勢をふるう老人をなぶり殺しにするのだからこたえられない。だから、丸谷才一が主張するのとは違った、というかもっと俗っぽい次元で、カーニヴァルだったと言えるのでしょう。

 

 なら二・二六事件はどうなるのか。そう問いつめられても困るので、芝居で殊に様式の美を重んじる類いの芝居で観るからこそ面白いのである。ポルノの代わりにナマの性器を見せられた方がコーフンするというようなもので、まあ、そういう質の人間もいるかもしれないが、そういう人とはあまりお付き合いしたくないですな。

 

 何の話だったっけ。そう、「道行」が綺麗で可憐でよかったということが言いたかったのだった。春の吉野山。前後左右はただもう咲き散る桜。さながら花の迷宮のようななかを、はなやかなこしらえの美少女と美少年が埒もない会話に興じつつ、花の魔性に魅せられたようにうっとりと歩を進めていく。そして白狐の化身である少年は鼓の音に惑乱して、時折瞳を金いろに光らせたり、白い尻尾をゆらゆらと打ち振ってみたり、あげくには恍惚のあまり宙をふわふわと漂ったり宙返りしたりしてしまうのだ。

 

 舞踊の名手がふたり組んだ歌舞伎の舞台もさぞ見栄えがするだろうが、化生の者と深窓の姫の幻想的な旅路は、やはり人形でこそ味が濃いと思う。それにしても、咲太夫さん、びっくりするほど痩せて声も細くなってたなあ。

 

 元々近松は門左衛門より半二のほうが贔屓なくらいだから『本朝廿四孝』はもちろん面白く見物。半二らしく、随所にシメトリの趣向が凝らされている。極度に技巧的(過ぎる)、と評するのが普通なのかもしれない。たしかにあまりにめまぐるしく裏返される物語には、近松門左衛門の世話物のような「自然」は微塵もない。いっそ痛快なほどない。

 

 橫蔵・慈悲蔵の兄弟が正体を露したあと、後日―というかあり得ない未来―での合戦を約する幕切れ(無論このパタンは人形浄瑠璃に通有のもの)が、あれだけ深い感銘を与えるのは、では一体何なのだろうか。スペインのバロック悲劇を読んだときの、途方もない混乱と強烈な無常観とが一ぺんに襲いかかってくるようなまことに不思議な味わい。うまく分析できないのですが、近代を飛び越えて、いきなり「現代」性を突きつけられる感じ(テーマが現代的というのでもない)。老母が最後近くで「廿四孝」と題名の意味にいわば自己言及するくだりにもその感じはつよい。門左衛門とはまったく違った意味で、しかし天才という他ないんだろうな、こういう才能は。

 

 最後になりましたが、五代目吉田玉助さん、襲名おめでとう御座います。

 

 夜は呑み友だちに連れられて北浜の立ち呑み屋をはしごする。どちらもいい店で、一人でもまた訪れたいと思う。周囲がいかにもという一流企業のオフィスばかりで、その中にぽつぽつとこういう呑み屋があるのだから、大阪は面白い。神戸ではこうはいかない。

 

 もうひとつ大阪らしくて可笑しかったのが、友人と会うまえに時間つぶしに入った天神橋筋の居酒屋。夕方とまで行かない時刻にもかかわらず、もうすぐ現役引退かなというオッサンにはじまり、前現役だの元現役だの前世は現役だったろうというのまでが店いっぱいに元気よく呑んでいる。当方なぞはまだ洟垂れ小僧という割り付けであって、カウンターの端っこでなんとはなしに背中を丸めながら生ビールをちまちまやっていたことではあった。

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ