危機の思想と思想の危機~双魚書房通信(19) 牧野雅彦『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ)~

 有名だが、多数の読者に支持されているというよりも、いくつかのエピソードの霧が当人をもやもやと包み込んで、それがいつの間にかこれまたいくつかの評語をまぼろしのように吐き出して、それらをあまり意味も無く呟くことがすなわち論じるということにされてしまう型の思想家がいる。ルソーがそう。福沢諭吉なんかも存外この中に入るのかもしれない。

 

 カール・シュミットはそうした不幸な思想家のなかでも恵まれないことでは一二を争う。なにせ名前を出せばたちどころに「ナチスの御用学者」と身がまえられ、どうやら称賛している気味合いの人々も「危険な思想家」と言って済ますのが通例のようだから。

 

 後者の言い回しに対し、著者はあとがきでどう言っているか―「このような物言いには、悪(ルビ「ワル)を気取った知識人が、よせばいいのに刃物をふりまわして得意になっているようなところがあ」る、と(それにしても、「あとがき」とは何ゆえこのように面白いのか)。そして、シュミットを「危険な」ではなく「危機」に対峙した思想家だとする。

 

 ここまではまだ《評語》のうち、と言えなくもない。尋常でないのはそこからであって、既訳未訳を含めシュミットの著作を自在に引用しながら、この問題的(プロブレマティッシュ)な法学者=思想家の輪郭をくっきり描き出して見せた。「多くは論争的な文脈で書かれていて、特定の相手に対する論評や批判的註釈の形をとることもしばしば」、つまり正面切って自分の立場を宣言するタイプではないシュミットの思想構造が綺麗に差し出されている。綺麗に、というのは小綺麗に―とはつまり《評語》的に、ということだ―まとめたのとは異なる。見えにくい脈絡を執拗に追尋して明確に述べることである。とりわけ評者が感心したのは、「政治神学」というシュミットの基底から始めて、第一次大戦ヴェルサイユ体制(そしてワイマール体制)とその崩壊・第二次大戦とその戦後処理・戦後の国際秩序という具体的な歴史の流れの中に彼の主張を置いてその立ち位置をはっきりさせ、最後にまた「政治神学」が孕む問題に言及して終えるという整然たる構成。よほど緻密な思考が出来る学者なんだろうなあ。

 

 シュミットはローマ・カトリックの信徒だった。だからこの世のすべては神が創造したものとみる。しかし最後の審判までは地上で生きてゆかざるを得ない。とりわけ世俗の政治権力にどう接すればいいのか。しかもその接し方は具体的な歴史のありようとそれに反応して変化する体制のありようによって、一定不変のものではありえない。要するに「個別的具体的な歴史的・政治的状況における危機」にキリスト教徒としてどう身を処していくべきか、それが政治神学である(「序」)。ドグマティックな裁断ではなく「位置」「文脈」に常に目を向ける姿勢に留意せよ。

 

 カトリックであるということは、個人の内面に信仰の問題を還元するプロテスタントとは違い、教皇を戴く教会という組織の性格、ことにそれと世俗権力との関係について態度を決める必要があるということ。著者は、シュミットが注目したド・メーストルや、さらにはラスキなどの教会/国家観を取り上げ、彼らとシュミットの共通点・相違点を検討していく。あ、そうだ、言及される思想家の言説が丹念に引用されているのもこの本の特徴。何も尻込みする必要はないので、どこまでも続く(ように見える)引用には、これまた丁寧なパラフレーズが付いているので大丈夫。評者も面倒くさそうなところはパラフレーズだけで済ませました。

 

 なんといっても本書の圧巻は先に書いたように、第三章から第八章まで。これは章題をつなげると、「ヴェルサイユ体制と国際連盟批判」から「戦後西ドイツ国家の成立とシュミット」まで、ということになる。「批判」の要諦はそれが「正統的で安定した法秩序を作り出していない」点にある。ちなみにこの場合の「正統」とは「権利をめぐる紛争を処理する手続きや制度が実効的に機能していること」を指す。安定をもたらさないのはなぜか。シュミットはそこにアメリカの影響力の拡大を指摘する。合衆国国務長官の名を冠したケロッグ=ブリアン協定ーいわゆる「不戦条約」―は、戦争の放棄を謳うものの、放棄されたのは「恣意・利己心・不正によって遂行された戦争」である。しかし一体誰が「不正な戦争」かどうかを決めるのか。また国際連盟の集団安全保障体制は、「地方的対立を世界戦争へと拡大するのに適している」。

 

 この論点は第六章(「第二次世界大戦の敗戦とニュルンベルク裁判」)でより精細に展開される(今さらですが、本稿ではシュミットの議論と著者による整理を一括りに扱っています。引用でもどちらのものかは一々示していません)。ニュルンベルク裁判は、「戦争の違法化」の極致である。「違法化」は「正当な戦争」と「不正な戦争」を区別するがゆえに、世界大の内戦をよびおこす。だから、ヨーロッパ列強の力の均衡の上に築かれた、いわばルールに則った国家間の戦争(および終戦処理手続き)とは対極に位置するものである。苛烈にして透徹した認識。ちなみにこの話題に関しては藤原帰一『戦争を記憶する』および高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』がいい参考書となります。

 

 第七章におけるアムネスティ(恩赦)を巡る議論も興味深い(最近出た神崎繁『内乱の政治哲学 忘却と制圧』はアムネスティに関するシュミットの論説から始まる)が、先を急ごう。

 

 「正しい戦争」および不気味に広がるアメリカの影。なにやら二一世紀を生きる自分の周囲がキナ臭くなってきた按配である。著者は筆を控えているが、シュミットの予見する世界像はぞっとするほど正確である。「純粋海洋的実存への徹底した決断」によって産業革命と技術の解放へと歩み出たイギリス、その「海洋支配の継承者」たるアメリカと日本の戦いは従って大洋をめぐる世界戦争であり、ドイツ(もちろんヒトラーのドイツ)が展開する陸戦とは区別されねばならない。ナルホド。「太平洋戦争」という呼称は単なる戦場ではなく、こういう世界史的意義をもっていたわけだ、とにわかにあの戦の性格がはっきりしてくる。

 

 また――「従来の「中立」が(中略)交戦国とその戦闘行為に対する第三国の不介入を原則としているのに対して、道徳的価値評価を背後に潜ませているアメリカの「中立」は、ひとたび事情が変われば無際限の介入へと転化する」。アメリカは「地上の世界の裁判官の地位に座して、あらゆる民族とあらゆる圏域のすべての問題に介入する権利を引き受ける」ことになるだろう。

 

 また――「闘争の手段が技術的に高度なものになればなるほど、(中略)パルチザンは自己の基盤であった土地との結びつきを失っていくことになる」。そして「相手の完全な殲滅を可能にする絶滅手段が想定する敵は、完全に無価値な存在、存在そのものが否定されるべき存在となる」。

 

 悪魔的なまでに明晰な思想家(おや、また《評語》化してしまった)の精髄をこれまた明晰に取り出した一冊。あまりに清澄に書かれたがゆえに、ここから始めて『政治的なものの概念』や『政治神学』や『大地のノモス』の毒にどっぷり浸かりたくなるはず、というのは決して本書を貶めていうのではない。

 

 

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

危機の政治学 カール・シュミット入門 (講談社選書メチエ)

 

 

 

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