オヤジ殺しエッシャー地獄

 あべのハルカス美術館エッシャー展。初日はそう混んでいなかったが、前の北斎展のように段々評判が広がって最後はとんでもない行列となるかもしれない。それくらい充実した展覧だった。ご興味のある方はお早めにどうぞ。

 

 無限階段の塔にしても手を描く手にしても、画面の細部や質感よりも構図とか、もっと言えばアイデアの面白さが記憶に残っている人が多いのではないか(鯨馬は完全にその類)。正直ネットの画像で充分なのではと思いながら見て回ったのだが、やっぱり版画だけあって、描線の切れ味や伸びゆきかたが大層面白かった。こればっかりは実物を間近で見なければ分からない。エッシャーはハルカスに限る。

 

 多く出品されていた風景画も見応えがあった。大部分がイタリア旅行で印象に残った風景を描いたもの。基本は克明な描写であるにも関わらず、なんだか超現実の中に迷い込んだような雰囲気が横溢するのが愉快。キリコの憂愁やマグリット形而上学は無いけれども、自然の神秘にうたれて茫然と立ちすくむような、ロマン主義的な資質の持ち主だったのかもしれない。そう考えると、結晶の形状への熱中も、エッシャー流の自然哲学だとすんなり納得がゆくのだ。

 

 もっとも偏執的な線をみっちり描き込む画家の作品を何十点と見て回るのはかなりのトラヴァーユであって、近視のみならず老眼とみに進んでいる身としては、眼鏡をかけたり外したり近づいたり遠ざかったり肩を揉んだり腰を伸ばしたり、大騒ぎの体だった。

 

 天王寺界隈では知っている店がないので、難波まで日本橋を通ってぶらぶら。相変わらずごみごみした所だな。道頓堀のおそるべき喧噪も皆様ご存じの通り。疲れ眼中年は逃げ込むようにして『今井』へ入る。小海老の天ぷらでビールを呑み、板わさとぬたで酒を一合。このぬたがよく出来ていて、さえずりのしつこさを殺しつつ活かしつつという酢味噌の按配が、大阪、それもミナミで昼酒をやってるという気分にしてくれる。給仕のおばはんの物腰、店の静かさ、また然り。

 

 最後に「丁稚うどんひとつ」と注文すると、「夜泣きうどんやね」と笑われた。「お店(たな)の子ども衆(し)」が主人番頭の目を盗んで夜泣きうどんを呼び止めている場面からの連想で間違えておぼえていたのか。ともあれ、看板のキツネよりはこちらの方が好みに合う(ぬる燗のアテにもなるのではないか)。

 

 蕩然たる気分で店を出(酔ってない)、日本橋文楽劇場へ。今回は第二部、中将姫雪責めと、『女殺油地獄』の二幕。

 

 近松浄瑠璃を見るのは十年ぶりくらいになる。実を言うと、少し敬遠の気味合いがあった。歌舞伎ではなく人形浄瑠璃を見にきたんだから、なるべくそれらしい味わいの演目がいい。「日本の沙翁」はその点、人物造型・心理描写の冴えやいかにも無理のない物語の構成に鼻白むのではないか、と偏見を持っている(偏見だとは承知している)。その点、『油地獄』は誰もが言うとおり「無軌道な生きかたの若者」による「衝動的な殺人」が題材なのだから、ある意味気張らずに見物できるだろうと踏んだのだ。

 

 油まみれの殺しの場の酸鼻はともかくも、ほとんど儚げなくらいの脆さ、あえていえば愛嬌すら漂わせる与兵衛のキャラクターに瞠目した。義父・実母に殴る蹴るの暴行は、《孝》第一の江戸時代の見物客にはすこぶる衝撃的だったろうが、今の目から見れば、非道暴虐という程のものではなく、単に甘えているだけである(それが分かっているから徳兵衛も勘当は出来なかったのだ)。現に「徳庵堤の段」で伯父に打擲されたあと、悄気返るあたり、上方でいう典型的なアカンタレであり、年齢や社会的地位が上の人間は「しゃーないなーもー」と構ってしまうタイプである。ヤンキーの往々にして人なつこい(という類型表現)が如し。やっぱり芝居は見物してみなきゃね(本日は感心ばかりしております)。

 

 「徳庵堤」ではお吉にきちんと挨拶出来ているし、ともかくも朸荷うて商いにも出てるのだ(売り上げはナイナイしてるにしても)。不良とか悪とかではなくて、先のことを考えられない気弱な人間が「どうにかなる」と殺ってしまったのではないか。注して言う、「先を考えられない」とは向こう見ずに非ず。面倒なもの鬱陶しいものを直視するのが厭で、だから見ないという意味である。

 

 しかし、与兵衛という若者の「性格」を論じたいのではなかった。「河内屋内」での気の滅入るような言い争いを見ていて、ふと、「これはつまり、あれだな、システムの問題だな」という感触を得た。カウンセリングのひとつの立場に、システムズ・アプローチ

というのがある。本人の心理自体を取り上げて問題化するのではなく、《家族》というシステムのなかで誰のどういう発言・行動がどういう反応を呼びさまし、その反応がどのように連鎖するかに注目する。この技法だと、たとえば息子の引きこもりに対して、夫婦間でのことばのやり取りに介入することもある。

 

 当然徳兵衛やお沢に落ち度があるわけではないのだが、この家族、《与兵衛の素行を改める》ことに焦点をおいてどうにもならない状況が続いてきたんやろうなあ、とため息が出た。

 

 近松がそんなことを考えて書いた訳ではもちろん無い。近松に近代性を見いだした、と言いたいのでもない。このどうしようもない現実のぬるっとした不気味な手触りが、なんで浄瑠璃のようないわば様式と修辞の飽和点のような言語で表現可能だったのかなあ、となんとも不可思議なのである。※ま、近松作はテキスト・クリティックと演出のことを考えなきゃなんとも言えないわけですが。

 

 ついでに、この日は『今井』の煮染め弁当を買っていった。高野豆腐・かまぼこ・兵庫豌豆の煮物に、牛蒡・揚げ茄子・椎茸・南瓜・生麩の煮物、これにぬたと出し巻きとこんにゃく辛煮、焼きシシトウ、ご飯はきのこめし。演し物はともかく、サーヴィスに関しては、当方文楽劇場にまったく信用をおいていないのです。

 

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