壺中天

 某日 京都は北大路、『仁修樓』再訪。これだけの味を堪能出来るのなら、新快速で一時間(+地下鉄十五分+タクシー十分)はちっとも面倒だと思わない。

 「紫美」と名の付いたこの日の献立以下の如し。

*凍冬瓜盆……蒸した冬瓜をくりぬいたところに、蟹身と鱶鰭を詰めている。見た目といい味といい水無月の京のひと品めはこうでなきゃ、という一品。でも日本料理ではないのだから、冬瓜も周りのジュレも一口目は涼やかな印象ながら、旨味の底が深い。
*冷製前菜……①トマトと玉蜀黍を胡麻味噌ダレで和えたもの、②くらげ、③野菜甘酢。中華の前菜として尋常な顔ぶれ。つまり、上岡さんが「他との違いを見てくれ」と気合いを込めているということ。たしかにこれだけコリコリしたくらげは食べたことがない。
*広東焼𨿸……前菜を味わっている目の前では鶏に油がかけられている。中華は音も食う、というのは本当だな。「骨付きのほうが旨いのは間違いないが、食べるのに手間取ると皮の食感が消えてしまう」とのことで骨はあらかじめ抜かれている。だから無論皮はさくさくのぱりぱりで、しっとりした身とのコントラストがたまらない。
*乾坤寳甲……えーと、思い出せる限りで書きますと、杏仁・棗・金華ハム・干し貝柱・鶏・干し椎茸、それにすっぽんの蒸しスープ。蒸しているから清澄極まりないくせに、ぐんぐんと旨味がのびていく。「乾坤」とは山海の珍味をつめこんだ、という意味らしい。たしかに乾坤、つまり宇宙という形容にふさわしい豪奢な一碗。
*蠔皇吉品……豪奢の語を使ってしまったら、この干し鮑の煮込みは一体どう評すればよいのか。贅とか華とか豊とか醇とか貴とか精とか麗とか霊とか神とかいった漢字がアタマの中でぐるぐると駆け巡り、それが『ちびくろサンボ』の虎よろしく渾然と融けて、それを一滴に煮詰めたような味、としか言いようが御座いません。上岡シェフが「ここまで来ると、もう、広東料理でも最強クラスと言えると思います」と言うのにハゲシク同意する他無し。まさしく皇帝、王者の味であります。この神鮑の下、神ソースの上には白いふわふわが挟まっていて、これがまた濃艶。卵白と生クリームを炒めたもの、だそうな。この仙人のチーズがあってはじめて、鮑もソースも冷静に味わえるのでしょう。中華の技というのは底知れませんな。
*XO炒時菜……青菜は空心菜。それと牛スジを炒め合わせている。スジ肉が軽やかな風味なので、訊ねてみるに「山椒で下茹でしてます」とのこと。これは色々応用出来そうですね。
*紅焼魚翅……本当はこの鱶鰭自体、贅とか華とか豊とか醇とか貴とか精とか麗とか霊とか神とかいった漢字を使いたくなるレベルの仕上がりなのですが、何せ蠔皇吉品を知ってしまった身としては、「孔子に比べたら孟子は・・・」と言ってしまいたくなる。人間贅沢になれるとオソロシイものです。
*港式白粥……ただし、しっかりコクのある白粥(でもあっさり)に、上岡さんの勧めで鱶鰭煮込みをひと掬い垂らして食べると、二日酔いでも三日酔いでもかかってこい、という気分になれる。あるいはこの一碗で、三日酔いになれるまで呑める(やっぱりここは老酒でしょうな)と謂うべきか。
*湯……陶然として粥を啜り終えると上岡さん、「あと一口いけます?」。シェフのこのニヤリ顔に抗うことなぞ当方には無理。というわけで食事の最後はスープ。二口くらいの麺(目の前で切って茹でる)が入っている。これは鶏だけでとったとのこと。味を邪魔しないように、麺には玉子も鹹水も使っていないとのこと。懐石でいえば箸洗いのような位置付けであって、実際にすっぽん、鮑、鱶鰭のあとでは、「余韻」それ自体、というような味わいだった。これでおわかりのように、上岡誠さんは、料理の技術だけでなく、献立の構成にも抜群の冴えを見せる料理人なのです。鯨馬は惜しみ惜しみスープをのみながら、鮑やすっぽんに別れを告げておりました。
*杏露蕃茄……トマトのコンポート。なのであるが、トマトの旨味が濃いので、これでまた紹興酒をやりたくなってしまう。

 一体に上岡さんは、広東料理の真ん中をびしっと攻めてくる人で(だいぶんこちらの好みに合わせてくださったのも大きいけど)、とはつまり、スパイシーさやあぶらっこさではなく「ダシ」中心に味を組み立てているから、料理を愉しみながら、つねに日本料理との対比を意識していた。スープを蒸してとる、とか山椒で下処理するとか、和食の技術であってもおかしくはないのだけれど、ぎりぎり和食という線に近づきながらも、やはり曰く言い難い何かがある。翻って「日本料理とはなにか」と考えてしまう。これは、シェフが講釈を垂れるタイプとはほど遠いだけに、「中華(というか広東菜)とはなにか」と日々思い巡らせているゆえの効果なんだろうなあ、とこれは帰りの新快速でしみじみ思ったことでありました。上岡誠さんに感謝。ちなみに今はランチ営業はされていないとのことです。