夏は怪談。というのも実はよく分からない結びつきながら、伝統は重んじるたちだから連休中はそれ関連のものばかり読んでいた。いくら名手・傑作揃いといっても、岡本綺堂あるいは内田百閒(その他色々)ばかりではやっぱり飽きてくるから、こういう時はアンソロジーに限る。東雅夫さんが選んだ「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション」など、これがほんとにジュニア向けか、という充実の編輯ぶりです。ただ名作選の限界で、どうしても作品の顔ぶれがどこかで見た感じになってくる。そうなるとかえって『青蛙堂鬼談』や『冥途』に戻りたくなるから不思議なものだ。
で、怪談にも飽きるとゾンビ本・ゾンビ映画に切り替える。似てるって?私見によればこの二つは全く世界が異なるのである。幽霊はコワイが、今どきゾンビ映画見て本気で怖がる大人は少ないだろうし(グロいのが気持ち悪いというのは別)、またゾンビは哲学になっても幽霊では哲学できないでしょう?
○マキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか』(武田宙也他訳、人文書院)・・・なんかは、ま、中身に別に新鮮味はないんだけど、ゾンビという存在がいかに「問題的」なのかはよく分かる。吸血鬼だの狼男ではこーはいかんでしょーが。
じゃ、ゾンビが発生させる(という表現を使いたい)テーマとはなにか。むろん、いわゆる哲学的ゾンビ(外面の反応は完全に人間と同じだが、意識を持たないという仮定の存在)とか、「不気味の谷」とか、カニバリズムの問題が一方にある。鯨馬は正直こちらの方にあまり興味が無い。やはり面白いのは、《ゾンビがいる世界》である。それはつまり《破滅しつつある世界》である。
○ダニエル・W・ドレズナー『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一他訳、白水社)・・・なんかがどんぴしゃ。叙述は結構いちびっているけど、リベラルやネオコンや社会構成主義など、リアルな「枠」に則して分析していて面白い。なかには「ゾンビ疲れ」なんてタームも出てきたりして、こうなったらいやでもコロちゃん騒動を想起せざるを得ないのだが、結局のところユダヤ=キリスト教的世界観の持ち主でなくとも、終末ないし破滅に否応なく惹かれる(蠱惑される?)のが21世紀的感覚のであるらしい。そういえばコロちゃんがらみの議論でも、なにか悲観的な見方をいうと様になり、逆に楽観的な見通しを述べるとアホのように見えるのは、あれは事態が悪化した場合に「これで日本も終わりです」論だと「そら見てみろ」と威張りやすい(終熄しちゃったらみんな問題を忘れてしまうから楽観論者は威張れない)だけでなく、「一朝ことあれかし」的なアポカリプス待望のあらわれとは言えまいか。
それにしても映画・アニメのゾンビはもう頭打ちなようで、パロディにするか(『ボディ・ウォーム』『ゾンビランド』)、ひたすらSFXでたたき込むか(『バイオハザード』)、いずれにしても古典ゾンビ映画の戦慄はいささか薄れつつあるというのが実感。それに比べて、小説はヴィジュアルのインパクトを持たないぶんまだまだ鉱脈が尽きてるわけでもなさそうで、
○マックス・ブルックス『World War Z』(浜野アキオ訳、文藝春秋)・・・などは、少し前の作になるけど、未だにこのジャンルでは乗り越えられてないんではないか。まあ、ゾンビ物に限らず小説では世界破滅テーマは存分に揉まれて練られてきたジャンルだもんな。底力が違うのかも知れない。
それ以外の本も少しだけ。
○冨田恭彦『詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ』(講談社選書メチエ)
○フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(阿部重夫訳、ハヤカワ文庫)
○ジャン・デュビュッフェ『文化は人を窒息させる』(杉村昌昭訳、人文書院)
○レベッカ・ウィーバー=ハイタワー『帝国の島々』(本橋哲也訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局)
○ジョゼー・サラマーゴ『修道院回想録』(谷口伊兵衛訳、而立書房)
○鈴木大拙『神秘主義 キリスト教と仏教』(坂東性純・清水守拙訳、岩波文庫)
○小川敏男『漬け物博物誌』(八坂書房)