この不都合なる世界~双魚書房通信(22) スティーヴン・グリーンブラット『暴君 シェイクスピアの政治学』~

 グリーンブラットは贔屓の学者。新歴史主義の驍将としては『ルネサンスの自己成型』(高田茂樹訳、みすず書房)、シェイクスピア研究の本領発揮の『煉獄のハムレット』(未訳)といったところか。といってもがちがちの学者先生ではなくて、近くはピュリッツァー賞をとった『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房)など、ルクレティウスの写本発掘というマニアックな話材でぐいぐい読ませる。

 才人がこの薄い一冊で語ったのは「なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?」という問題。もちろんシェイクスピアがどう取っ組んだかを叙していくわけだが、執筆の動機は巻末の「謝辞」(向こうの著者は「あとがき」を付けないからね)に明らかである。


  もう一世紀も前のことのように思えるが、実はわりと最近、イタリアのサルデーニャの新緑におおわれた庭にすわって、私は近々の選挙結果について心配していた。友人の歴史学者ベルンハルト・ユッセンがどうするつもりだと聞くので、「私に何ができる?」と言ったら、「何か書けばいい」と言う。それで、そうすることにした。
 それが本書の発端だ。そして、選挙が最悪の予想どおりになってしまってから、妻のレイミー・ターゴフと息子のハリーが、現在の私たちがいる政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っているという話を私が食卓でするのを聴いて、その話をまとめるとよいと言ってくれた。そうして、本書が書かれた。


 念のため記しておきますと、原著は二〇一八年に出された。そして言うまでもなく著者は「アメリカ合衆国の文芸評論家、ハーバード大学教授」(ウィキペディアの表現)。

 つまり政治的パンフレティアーとしてのデビュー作ということになる。といっても、直接的な批判は出てこない。「現代で言えばスターリンの恐怖政治と何ら変わらない」「カンボジアポル・ポト政権の殺人的構想のように」といった評言は数カ所。そして彼の国のむやみに柄の悪い大統領に対する言及はない。

 『ヘンリー六世』『リチャード三世』『マクベス』『リア王』『冬物語』『コリオレイナス』等を簡潔かつ丁寧に(乱暴でも鈍重でもなく、という辺り、筆力の冴え)読み進めながら、暴君がなぜ誕生するか、という初めに記した問題に迫ってゆく。そこであぶり出されるのは暴君の怪物的なキャラクターもさることながら(個人的には『冬物語』のリオンティーズにふるう鞭は過酷すぎるようだが)、いつの間にか暴君という台風に巻き込まれてゆく、というより、せっせと水蒸気を送ってその勢力を拡大するためにむしろ嬉々として奉仕する周囲の人間たちの動き方である。貴族の保身・計算もある、煽動に手もなく熱狂する民衆の愚昧もある。しかしいずれにせよ、怪物が(しかしそれは本当に怪物なのか?)王冠を戴いたら最後、身分の上下を問わずひとしなみに暴虐の嵐に引きさらわれてしまうわけだから、ずいぶん奇っ怪な力学計算。

 いかにも、暴君の絶対的な孤独については触れられている。しかし全体としてみれば暴君はいわばひとつの真空―台風の「目」―であって、国民(という語をあえて使う)こそが暴君を生み出すという暗澹たる認識が前面に出てきている、というのが素直な読後感。

 とすればこれは政治的パンフレットとしては失敗しているのか?

 私はそうは見ない。あくまでもシェイクスピアの戯曲に即して人物の内面・出来事の展開を批評しつつ、そこに幻術のように現実世界のパノラマを浮かび上がらせようとする、綱渡りのように際どいスタイルを著者が選んだのである。ほぼ確信を持っているのだが、グリーンブラットは、二十一世紀の混沌を叙するにヤン・コットの流儀は(残念ながら)ふさわしくないと断念した末の藝である。

 あえて藝という。シェイクスピアを語りつつ、そこからはブレずに遠くに「現在」を重ね映しするための、緊張に充ちた措辞の選び方にまず評者は、大袈裟にいえば手に汗握る気分だった。

 しかし本当に感嘆させられるのは、遠い異郷(これは日本にとって、ではなく現実のどの国にとっても、ということ)の権謀術数絵巻を通して、二〇二〇年の現実世界がいつのまにやら宮内大臣一座の座付き役者創るところの戯曲世界のように見えてきたことだ。ここでこそ、例の「世界は舞台、人はみな役者」の名台詞を想起すべきであろう。

 もちろんいつか戯曲は終わるのだけれども。(河合祥一郎訳、岩波新書