メランコリーの解剖

 頭に霞がかかったようで気分も沈みがちなのは、第一に花粉症、次に八戸三春屋閉店のせいだけど(ホントに地下の食品売り場は良かった!)、海彼の干戈のうわさに因るところも少なしとせず。ふっと思い出したのが、林達夫の一文。「『旅順陥落』ーある読書の思い出」という。日露戦争には進歩的立ち位置にある日本のブルジョワジーによる反動主義的ブルジョワジー(つまりロシアの専制政治ということです)粉砕という側面があるとレーニンは指摘した。しかしその「後継者」を自認するスターリンはあろうことか、日本との戦争(これはもちろん第二次世界大戦)に当たって「赤軍兵士」の恨みを今やはらす時が来た(!)とアジっている。この臆面もない修正主義は・・・と続くのだが、当方の拙い要約より、原文に就いて見られたし。中公文庫『共産主義的人間』所収。
 殊に末尾の一段は暗澹たる認識をこの上なく簡浄に差し出している。この度のいくさについてもある真実を衝いているのがすごい。


○アイリス・オーウェンス『アフター・クロード』(渡辺佐智江訳、国書刊行会)……快作。ルシア・ベルリン以来のコーフンであります。ラストの寒々しい凋落ぶりが良い。作者はかの悪名高きエロ本屋オリンピア・プレスで(『ロリータ』の版元でもある)ポルノを書きまくっていたらしい。でも若島正さんの解説によるとどれもアンチ・ポルノ的な書きぶりだったらしい。若島先生、訳出してくださいませんか。
○古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)……言葉に支配されないために。
四方田犬彦『世界の凋落を見つめて クロニクル2011-2020』(集英社新書
○ミルチャ・カルタレスク『ノスタルジア』(住谷春也訳、作品社)
○シャーリィ・ジャクスン『壁の向こうへ続く道』(渡辺庸子訳、文遊社)
○クリストファー・クラーク『夢遊病者たち』1・2(小原淳訳、みすず書房)……第一次世界大戦史。悠々たる史料の取りさばきが読ませる。『八月の砲声』(ちくま学芸文庫)のまえに読んどきゃよかった!
○井上真偽『ムシカ 鎮虫譜』(実業之日本社)……ムシが苦手な向きにはおすすめ出来ません。
○安倍雅史『謎の海洋王国ディルムン』(中公選書)……いくつになっても刀を振り回すのが好き・・・なのは『ゴールデン・カムイ』の土方歳三老でありますが、男子はいくつになっても「なぞの文明」が大好きなのである。トレビゾンド帝国とかモンフェラート侯国とかモンテネグロ主教領とかハザールとか、書いてるだけで恍惚とする。
○ダイナ・フリード『ひと皿の小説案内 主人公たちが食べた50の食事』(阿部公彦監修・翻訳、株式会社マール社
○星野太『崇高の修辞学』(月曜社
山田庄一『京なにわ暮らし歳時記』(岩波書店)……劇評家の水落潔は著者の実弟。すなわち戦前の大阪を代表する旧家・水落家の出身。
○『ランボー全詩集』(鈴木創士訳、河出文庫
○『青と緑 ヴァージニア短編集』(西崎憲訳、亜紀書房
ヴァージニア・ウルフ『フラッシュ 或る伝記』(出淵敬子訳、白水Uブックス
○八條忠基『「勘違い」だらけの日本文化史』(淡交社
彌永信美『大黒天変相 仏教神話学1』(法藏館
守中高明『浄土の哲学 念仏・衆生大慈悲心』(河出書房新社)……ドゥルーズの訳者であり浄土宗の僧侶でもある著者ならではの熱き/篤き思想史。否定性を前提にし、更にそれを内面化することを強要する天台浄土教ニーチェの批判するキリスト教の牧者に等しいとする定位が意表を衝く。親鸞の「悪」はだから従来のプロテスタントとのアナロジーより、虚無をそのまま受容するニーチェに近くなるのだ。この論理であれば、死後にしか目を向けないという日蓮的浄土批判に対抗できるな。
釈徹宗『ダンマパダ ブッダ「真理の言葉」講義』(KADOKAWA文庫)……現世を超越する面ばかり(「出家」)が強調されがちだが、さすが釈さん、仏教における「往きて還る」相を説得的に示してくれた。
小林康夫『存在の冒険 ボードレール詩学』(水声社
○ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』(夏目大訳、みすず書房
○佐野静代『外来植物が変えた江戸時代』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館
伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ
○柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書
P.G.ウッドハウス『春どきのフレッド伯父さん』(森村たまき訳、国書刊行会)……フレッド伯父さんことイッケナム卿には初見参。たいへん貴重なシリーズなのであるが、やはりどうにも会話の調子が小骨のように引っかかる。
マルグリット・デュラスマルグリット・デュラスの食卓』(樋口仁枝訳、悠書館)……一つ一つの文章がさすが、という見事さ、レシピは載っているけれど料理本にあらず。ま、いくつかメモはしたけれど。
○渡健輔『神戸指物師列伝』(風来舎)……前のマンションの近くに「鈍渡」
○R.L.スティーヴンソン『さらわれて デイビッド・バルフォアの冒険』(佐復秀樹訳、平凡社ライブラリー
○原田信男『食の歴史学 和食文化の展開と本質』(青土社
○ジャック・ハートネル『中世の身体 生活・宗教・死』(飯原裕美訳、青土社
○小川正廣『ホメロスの逆襲 それは西洋の古典か』(名古屋大学出版会)
○半澤孝麿『回想のケンブリッジ 政治思想史の方法とバーク、コールリッジ、カント、トクヴィル、ニューマン』(みすず書房
○マイケル・ビリッグ『笑いと嘲り ユーモアのダークサイド』(鈴木聡志訳、新曜社
森まゆみ『聖子 新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』(亜紀書房

 

 

 

 

儺をやらふ

 なんと三ヶ月ぶりです。年末年始は文字通りに酔生夢死、続いて八戸えんぶり中止を知って意気消沈しておりました。なんとか鬼を払って気分を励ますべく、今年は追儺の料理をしっかり作りました。

【其の壱】これはひとひねりした方。
*福茶……昆布、山椒、梅干に湯を注いで飲む。煎茶という手もあるけれど、吸物代わりだから湯で。煎り大豆もよい(黒豆だとより香ばしい)。酒のあと、酔い覚ましにもうってつけです。間に合わなければ宿酔のときでも。
*塩鰯……昔は安い時期に買い込んで塩漬けしておいた鰯を節分に焼いたものだそう(上野修三さんの本で知った)。油焼けで腹は割れ赤っぽくなったから赤鰯。今のスーパーで売ってるのはそこまでではないにしろ、さして旨くはない。で、今年は生鰯から自製。まず脱水シートにくるんで一日置く。かなり水分を抜く。そのあと好みの加減の立て塩に清酒を半量程度混ぜて数時間漬けておく。焼くときにも酒を塗る。しっとりして生臭さもなく頭からわたまで食べられます。だから玄関先に刺すものまでなくなってしまう。
*太巻「かず」……行事ごとのときくらい炭水化物制限を解いてもいいんだけど、あの丸かぶりというのはどうにもはしたなくてねえ。そもそも白米食いながら酒が呑めるか。すなわち太巻の具だけを並べ、焼き海苔に載せて巻かずに摘まむから太巻「かず」。かんぴょうの淡煮と干し椎茸の含め煮、芹(根付きで湯がく)、焼き穴子(東山市場の魚やで)。本来の上方の「お巻き」にはマグロやら蟹やらサーモンやらの生ざかなを入れない。もちろん摺り山葵を添える。意外にかんぴょうが肴としていけました。ごく淡味なのがよかったのか。かんぴょう山葵の巻き物は元々好物だしな。
*けの汁……節分に豆を食べないのも如何かと思って・・・というのは後付けで、青森旅行が流れた無念を少しでも慰めるためにこしらえる。今回の具は、高野豆腐(戻して細かく刻む)・蕗(あく抜きして刻む)・大根(他の大きさに合わせて刻む)・干し大根・蕨(塩漬けを戻す。刻む)・なめこ。そして青大豆の打ち豆(ふつうは大豆のじんだ)。あればこんにゃくや牛蒡・人参もいいですね。出汁は昆布(そのまま具にする)と津軽の焼き干し(これも引き上げない)。味付けは味噌。二年寝かせた自家製と、南部の赤味噌を混ぜる。青森で食うと上方ものにはきつい塩加減なので、酒呑み向けにごく薄味で調味する。

【其の壱】こっちはうんと古風にしてリヴレスク。大阪は船場の旧家・水落家の「行事帳」を参考に。
*麦飯……押し麦でなく丸麦で。幕末、大坂町奉行として江戸から赴任した久須美祐雋というお侍が『浪花の風』なる見聞録をものしている(『日本随筆大成』などに翻刻あり)。そこにも「節分大晦日には必らず麦飯を焚て、赤いわしを添へて祝ひ食ふ」とあり。偶に食べると白飯よりあっさり香ばしくてちょっといいものである。
*鯨汁……昆布出汁で、実はコロ・牛蒡のささがき・こんにゃく・大根。コロはもちろん糠湯で下茹でしておく。白味噌で薄めに調味。食べしなに揉んで粉にした陳皮と七味。風雅なような野暮ったいような風情がよろしい。


○山下泰平『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(柏書房)……横田順彌の本読んどけばいーやん、とも思いますが、ともかくもヘンテコな本を一心に面白がっている風情が風流でよい。
○岩間一弘『中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて』(慶應義塾大学出版会)
○渡辺浩『明治革命・性・文明 政治思想史の冒険』(東京大学出版会)……渡辺先生は贔屓の学者のひとり。丸山門下だが、思想史の現場における「肌合い」を仔細に検討してゆく手続きが素晴らしい。本書でも、開国を迫った欧米列強と受けた幕府双方のいわば「説得のレトリック」をめぐる攻防・苦悩に光を当てる着眼が清新である。結果としては衆知の通り臆面もないパワー・ポリティクスのうねりに巻き込まれていくのだけれど、その間のうごきをたどることは著者のいうとおり、現在の知性のあり方へと直截にはねかえってくるだろう。
○レオニード・アンドレーエフ『イスカリオテのユダ L.N.アンドレーエフ作品集』(岡田和也訳、未知谷)
○ヒラリー・マンテル『鏡と光』上下(宇佐川晶子訳、早川書房)……『ウルフ・ホール』から何年待ったのかなあ。乾いて冷たい主人公が素敵。なにやらブキミなヘンリー七世もそれとして素敵。
山内昶もののけ』上下(ものと人間の文化史法政大学出版局
原武史昭和天皇』(岩波新書)……題名は「昭和天皇」だが主旋律として響いているのは貞明皇太后との奇々怪々なる母子関係。つまり同著者の『皇后考』のエッセンスと言うべき本。生物学研究と国体との関係はじめ、はっ。とさせられる記述ばかりである。
○谷口桂子『食と酒 吉村昭の流儀』(小学館文庫)
○スティーヴンソン『爆弾魔 続・新アラビア夜話』(南條竹則訳、国書刊行会
春日武彦『奇想版精神医学事典』(河出文庫)……この人の書いたものはこれが初めて。面白かったので下の三冊も続けて読んだところ、どうやら本書が集大成的な一冊らしいと見当が付く。小説批評の形をとった『無意味なるものと不気味なるもの』がいちばん面白く読めたのだが。
春日武彦『無意味なるものと不気味なるもの』(文藝春秋
春日武彦『残酷な子供グロテスクな大人』(アスペクト
春日武彦『何をやっても癒されない』(角川書店
○デイヴィド・ヴィンセント『孤独の歴史』(山田文訳、東京堂出版
○バリー・ストラウス『10人の皇帝たち』(森夏樹訳、青土社
○関容子『銀座で逢ったひと』(中央公論新社)……関さんの文章がまた読めて嬉しい。
○村井俊哉『はじめての精神医学』(ちくまプリマー新書
○中井圭志『宗教図像学入門』(中公新書)……『宗教のレトリック』の気合いで一冊書いていただきたい。
○会田大輔『南北朝時代 五胡十六国から随の統一まで』(中公新書)……宋代に次いで惹かれる時代。だったが、まだ基礎知識が少なすぎてごちゃごちゃ。通史でもう少し丁寧に勉強しておこう。
○ピエール・ルメートル『僕が死んだあの森』(橘明美訳、文藝春秋)……訳者後書きにあるように冷え冷えした感触のミステリ。ハイスミスにも通じるとか。もう少し読みたい作家。
○I.バーリン『反啓蒙思想 他二篇』(松本礼二訳、岩波文庫)……ヘルダーを読み始めたとこなので、いいサブテキストとなった。またド・メストルのポートレイトが興味深い。
○J・G・A・ポーコック『野蛮と宗教Ⅰ』(田中秀夫訳、名古屋大学出版会)……上記バーリン本に触発されて、逆に啓蒙思想の研究書が読みたくなったのである。
○ピエール・ルヴェルディ『魂の不滅なる白い砂漠』(平林通洋訳、幻戯書房ルリユール叢書)……この叢書相変わらず突っ走っている。その一方でソログープ『小悪魔』の新訳なぞもぶつけてくる。万歳。
井上順孝神道の近代』(春秋社)
○林采成『東アジアのなかの満鉄 鉄道帝国のフロンティア』(名古屋大学出版会)
○アレクサンダー・レルネト・ホレーニア『両シチリア連隊』(垂野創一郎訳、東京創元社
○ジェームズ・ガーニ/Bスプラウト『空想リアリズム』(ボーンデジタル)
エドワード・アタイヤ『細い線』(真崎義博訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)……みんな少しずつおかしいようで、でも、いやこの人物配置だとこうなるかも、という妙なリアリティ。ミステリなのでこれ以上書けませんが、しかし解説者は一箇所(冒頭の牛乳瓶のエピソード)誤読しているのでは?
師茂樹最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(中公新書)……なんぼなんでも副題は大仰に過ぎると思うが、それはそれとして面白く読めた。最澄=一乗、徳一=三乗という単純な図式ではなかったこと、また論争に因明の論理が(かなりきっちり)組み込まれていたこと、またこの論争の、いわば「日本論争史」上での位置づけなど、かねて関心を寄せていたトピックが綺麗に説明されていた。
○阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』(中公新書
○『山川静夫の歌舞伎思い出ばなし』(岩波書店
○タミム・アンサーリー『世界史の発明』(花田知恵訳、河出書房新社
谷川俊太郎他『ハムレットハムレット!』(小学館)……文字通り近現代日本文学の「ハムレットもの」アンソロジー。ほとんど知っていたけど、まとめて読み返すとたとえば大岡昇平ハムレット解釈がいかに清新だったかよく分かるものである。
西谷正浩『中世は核家族だったのか 民衆の暮らしと生き方』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館
マリオ・バルガス=リョサケルト人の夢』(野谷文昭訳、岩波書店)……うん、いかにも岩波だ。
○近藤祉秋/吉田真理子『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』(青土社
浅羽通明星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと』(筑摩選書)……最相葉月さんの評伝に丁寧に言及しながら反駁している。ASDアスペルガー症候群)傾向があるというのは分からないでもないが、文芸批評としてはそれで済ませても意味が無い。徹底した合理主義と良識とのコンビネーションは今の日本では「奇想」や「矯激」に見えてしまうんだろうなあ。「反動」とすら見えるかもしれない(こーゆー区分けは実に不毛なのですが)。バーリン本で取り上げられるヴィーコやヘルダーも(創作の才の有無は別として)星新一的な思考をすることで結果的に反啓蒙の立場に見えるところがあったのではないか。
池内紀川本三郎『すごいトシヨリ散歩』(毎日新聞出版)……敬愛する物書きお二人の対談なのだが・・・つらくなって途中でよしてしまった。
スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(柴田元幸訳、白水社)……ミルハウザー(&柴田元幸)の手にかかると、畏怖すべき超越神の召命さえこうも甘美な工芸品(ワルクチに非ず)に化してしまうのか(「夜の声」)。ちっともコワくない幽霊譚「私たちの町の幽霊」がいい。
○伊藤聡『日本像の起源 つくられる〈日本的なるもの〉』(角川選書)……いわば「日本人の自意識年代記」。〈外〉への憧憬と居直りという構図は牢固として抜きがたい強迫観念のように思えてくる。私見では空海と徂徠は違う次元に立っている。
○マーク・トウェーン『イノセント・アブロード』上下(勝浦吉雄訳、文化書房博文社)
○土屋恵一郎『社会のレトリック 法のドラマトゥルギー』(新曜社
○ジャネット・マーティン・ソスキース『メタファーと宗教言語』(小松加代子訳、玉川大学出版部)
○ピーター・コンラッド『オペラを読む』(富士川義之訳、白水社
○成瀬国晴『なにわ難波のかやくめし』(東方出版)……著者の生家があった日本橋三丁目の町内を、プルーストみたいに細密に辿り返しながら上方芸能の一斑にしのびよるという趣。大阪本の中でも出色の出来。
○キャロリン・パーネル『見ることは信じることではない 啓蒙主義の驚くべき感覚世界』(藤井千絵訳、白水社)……バーリンやポーコックとはひと味ふた味違った啓蒙主義へのアプローチ。猫オルガンやらタバコ浣腸やら珍奇な主題を次から次へと繰り出して、副題どおりに驚くべき感覚世界、というのは感覚を巡る言説空間を垣間見せてくれる。垣間、というのは著者自身が個々のエピソードに淫して全体としては散漫な叙述になっているきらいがあるから。しかしこれは決して批判的に見ているのではないので、たとえばオースティンの『分別と多感』(Sense and Sensibility)のタイトルの含蓄とか、盲人についてディドロほど熱心に語った哲学者はいなかったなあとか、考えを展開させるきっかけがかくも充溢していればそれでいいのである。少なくとも十七世紀のお化けみたいなコギトに比して十八世紀はずっと生気に富んだ複雑な時代であった。とても「合理主義」だけで片付けられるものではない。

 次回はもっとまめに読後感をメモしておきます、ハイ。

 キーンと音がするくらい冷え込む冬の八戸なら、えんぶりがなくても行きたいけれど、何故か市内の設備は全部休館になっており、飲食すらいつ灯が消えるやら分からん状態ではなあ。と実はまだうじうじ悩んでいる。

 

 

 

嵐のあと

 九月には八戸でも、地区を限ってのことだが独自の時短要請が出ていた。今回は三泊。週末を挟んだ旅だったが、はじめて訪れたとき(たった三年前!)と比べても中心街の人通りの減少は歴然としている。余所者ながらにつらい眺め。とはいえ旅行客に出来ることは経済を回す蟷螂の一斧となるくらい。つまりは精一杯飲み歩きました。以下覚え書き風に。

★番町『Pot d'Etan』。ランチとはいっても、夕景まで満腹が続く充実のコース仕立てだった。
アミューズ】黒オリーブのペーストを詰めたポテト、ポロネギのタルト
【前菜】レンズ豆サラダ、姫林檎の中にパンデピスを詰めたもの、蝦夷鹿サラダ、豚足と香茸のテリーヌ
※鹿が官能的。テリーヌは胡椒の効かせ方がいい。
【スープ】松茸とジビエコンソメ
ジビエ蝦夷鹿、鴨、月の輪熊。スペシャリテといいたいくらい、堂々として気品がある。
【魚】石垣鯛と帆立
※蒸し物。葡萄と柿の葉で包んでいるのが嬉しい。ぎりぎりまで旨味を引き出しながら生の食感を残した火通しに感銘。ソースの紫蘇の泡仕立て。牛蒡・黒大根・タネツケバナがあしらい。
【肉】子羊のソーセージ
※前の一皿の優美に対して香辛料のキックがきいたもの。
【デセール】何種類かの中で選ぶ。モンブランにしたところ、ちっとも甘くなくて大正解だった。ブルゴーニュのマールとよく合った。


★岩泉町『鮨 瑞穂』。移転後洒落た造りにはなったが、大将ご夫妻と若大将の暖かなもてなしは少しも変わらない。
【肴】大とろ炙り・おろし大根、造り(中とろ、鰤、鮃。鰤に冷淡な人間が取り乱すくらいうまい。大間のまぐろは言うまでもなし)、鱈きく(真鱈の白子である。大ぶりでぷりぷりである)、生の本ししゃもの天ぷら、むかご、鯛わた塩辛、魳塩焼き(上物)、鰤大根(甘くなくて酒に合う)
【鮨】槍烏賊、鮃ヅケ、まぐろ、牡丹海老、海胆、のどぐろ炙り、鯖きずし、小鰭、蒸し穴子、玉子
 鮨が終わってからもなんとなく去りがたくて、出してもらった干し口子でぬる燗。

★湊高台『Casa del Cibo』。ここも八戸に行くたび訪れる。八戸の魚介と池見シェフの発想・手数、組み合わせればいつまでも新しい料理が食べられるのではないか。
○バターナッツのパンナコッタとペリゴール産フォアグラのテリーナ
○八戸産鰆の瞬間燻製、カルパッチョ仕立
※燻香によって、鰆のあぶらの香りがより際立つという摩訶不思議な仕上がり。ソースが菊のペーストというのもよい。
○レアに仕上げた奥津軽いのしし牧場さんの猪肩ロースガトー仕立
※野生ではないので、生が食べられる。あぶらはあっさりしている。「ドングリなど餌の種類を変えるともう少しあぶらの香りがよくなるのでは、と牧場にリクエストしておきました」とのこと。
○八戸産真鱈白子の黒いグリッシーニ揚げ
※本日の尤物である。イカスミを練り込んだグリッシーニをくだいたものを衣にして揚げている。上にはカラスミをふっている。魚介のアラを煮詰めたソース。味も香りも食感も立体的。
○冷製サフランタリオリーニ八戸産鮭といくら
※「なぜ冬なのに冷たいパスタを出すんだ」と文句を付けた客がいたらしい。「蕎麦屋は冬かけしか出さないのかって言いたい」と池見シェフ。こんな端麗なパスタを愉しめないなんて莫迦なやつもいるもんだ。
○鮑の肝を練り込んだフェットゥッチェ八戸産蝦夷鮑と
※肝ソースではなく、練り込んでいるのがミソ。だから噛んでいるともふぉっ。という感じで海の香りが立つ。
青森県産銀の鴨と栗のキタッラ
※鮭・鮑と見事な三幅対。
○八戸産アブラボウズのインパデッラ
※名前の通りむやみとあぶらの強い魚。生で食べるとタイヘンなことになるらしい。これは洋食向けの素材でしょうな。
青森県産NAMIKI和牛シンシンのアッロースト
○岩館リンゴ園産紅玉のキャラメリゼジェラート
※「タルトタタンのようにいきなり焼き込むとリンゴがくたっとなる、それがイヤで」、薄切りにしたのをいちいちオーヴンで加熱し水分を飛ばしているそうな。一事が万事。以て池見シェフの流儀を知るべし。
モカセミフレッドを入れた和栗のモンテビアンコ

★内丸『やぶ春』……藪睦会に入っている。神戸の『やぶ』は閉めてしまったので、器・肴とも久々に江戸=東京風を満喫。
○板わさ
○芝海老かき揚
○せいろう

十六日町『鶴よし』……ここの肴も気合いが入っている。焼き海苔は、今時珍重すべき「海苔箱」(下に豆炭が入れてある)に入って出てくるのである。ぬる燗にぴったりである。天然の真鴨が呼び物なのだが、今年は入荷が遅く少しの差(ほんの三日!)で食べられなかった。ま、極寒でいちばん旨い時期にまた行くからよいのだ。
○焼き海苔
小鰭
○せいろう


《本》まめにメモしてないから、だいぶん忘れてしまった。
長田弘『食卓一期一会』(角川春樹事務所)
○中村稔『森鴎外渋江抽斎』を読む』(青土社
岡野弘彦三浦雅士『歌仙 永遠の一瞬』(思潮社
佐藤愛子『古川柳ひとりよがり』(集英社
○中野剛志『小林秀雄政治学』(文春新書)……「小林秀雄プラグマティズムだ」という断定だけ抜き出すとぎょっとなるが、ランボー神話に魅惑された結果「物」「生活」への複合観念に呪縛され続けたことを思うと、実はさもあるべき結論。ただし疑問二点。第一に、モノモノモノと叫び続けた批評家がどこまでモノに肉薄できていたのか、他の著作で確かめないと、それこそモノ神崇拝のイデオロギーになってしまうのではないか。次いで、総じて発言の脈絡は丁寧にたどっているけれど、この「始末が悪い」「手に負えない」レトリシャンの、言うなれば啖呵や皮肉や見得といった表情をあまりにも額面通りに取り過ぎているのではないか。
○アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』(大久保ゆう訳、フィルムアート社)
井上ひさし井上ひさしの読書眼鏡』(中央公論新社
村上リコ『図説英国社交界ガイド』(ふくろうの本、河出書房新社
夢枕獏萩尾望都『花歌舞伎徒然草』(河出書房新社
○『火の後に 片山廣子翻訳集成』(幻戯書房
○『Newton 大図鑑シリーズ 時間大図鑑』(ニュートンプレス
池澤夏樹小島慶子『わたしのなつかしい一冊』(毎日新聞出版
○宮下規久朗・佐藤優『美術は宗教を超えるか』(PHP研究所
○大谷雅夫『万葉集に出会う』(岩波新書
○渡部泰明・平野多恵『国語をめぐる冒険』(岩波ジュニア新書)
荒川洋治『忘れられる過去』(みすず書房
小松和彦編『禍いの大衆文化 天災・疫病・怪異』(KADOKAWA)
○田島優子『海獣学者、クジラを解剖する。』(山と渓谷社
遠藤ケイ『蓼食う人々』(山と渓谷社)……『男の民俗学大全』でいっぺんに贔屓になった。
○タラス・グレスコ『悪魔のピクニック』(仁木めぐみ訳、早川書房
○ヴィンセント・フランクリン/アレックス・ジョンソン『料理メニューからひもとく歴史的瞬間』(村松静枝訳、ガイアブックス)
○森川裕之『名食決定版』(大垣書店
○成瀬宇平『47都道府県・伝統調味料百科』(丸善出版
○成瀬宇平『47都道府県・魚食文化百科』(丸善出版
○野崎洋光・成瀬宇平『47都道府県・汁物百科』(丸善出版
○成瀬宇平『47都道府県・発酵文化百科』(丸善出版
○成瀬宇平・紀文食品広報室『47都道府県・伝統食百科』(丸善出版

 

わにとワクチン、お岩さま~九月雑纂

★たまたま週に二度、動物園に行った。一度目は王子動物園。二度目は天王寺。どうしても比べてしまうのだが、大きさで劣るのは仕方ないけど、我が王子動物園、もう少し展示に清新で動物も元気が出るような工夫が出来ないものか。天王寺は真上を高速道路、真横にJRと極端な悪条件の立地にもかかわらずこせつかなく見えるようにかなり計算が行き届いているように思う(ただし悲惨なところは悲惨である)。

☆はじめてシネマ歌舞伎なるものを見た。当然劇場は神戸国際松竹。串田和美演出の舞台『四谷怪談』を映画用に編集したものらしい。七之助のお袖が可憐。国生時代の橋之助の声も良かった。もっと古い時代のアーカイヴをどんどん流していただきたい。

★ワクチン接種一回目がようやく終了。於ノエビアスタジアム。これでもかというくらいバイトのコがいるのにびっくりする。日本的ニュー・ディール政策か。ともかく三メートルおきに矢印が貼ってあるのに「こちらです~」なんて声張り上げられてもなあ。こちらが阿呆のようでなあ。

☆お誘い頂いて、阿倍野区民ホールの『染丸まつり』へ。襲名三十周年記念だそうな。主治医の許可が出たとのことで、最後には師匠が車椅子で登場。お元気そうで何より。

吉川一義『『失われた時を求めて』への招待』(岩波新書
○林田慎之助『幕末維新の漢詩』(筑摩選書)
遠藤ケイ『男の民俗学大全』(ヤマケイ文庫)・・・・・・こういう名著こそ文庫化にふさわしい。
田中優子他『最後の文人 石川淳の世界』(集英社新書
赤沼多佳他『唐物茶碗』(淡交社
○サンダー・エリックス・キャッツ『発酵の技法 世界の発酵食品と発酵文化の探求』(水原文訳、オライリー・ジャパン
○チャールズ・テイラー『世俗の時代』上下(千葉眞他訳、名古屋大学出版会)
ウンベルト・エーコウンベルト・エーコのテレビ論集成』(和田忠彦訳、河出書房新社
○ゴンサロ・M・タヴァレス『エルサレム』(木下眞穂訳、河出書房新社
エルメス財団編『Savoir&Faire 木』(講談社選書メチエ
高山羽根子『うどん、キツネつきの』(創元SF文庫)
安野光雅『日本の原風景』(山川出版社
アンドレ・モロワ『文学研究 Ⅰ』(片山敏彦訳、新潮社)
中村勘九郎勘九郎とはずがたり』(集英社文庫
中村翫右衛門『芸話 おもちゃ箱』(朝日選書)
○清水克行『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)・・・乱世というより多元的・多層的権力構造。ヨーロッパ中世と同じ。これに比べるとパクス・トクガワーナは均質で退屈・・・と思ってしまうが、いやいや近代国民国家のつるつるした一元世界に比較すれば近世なぞは充分に「自由」があった、とも言える。
高野秀行・清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(新潮文庫
種村季弘『水の迷宮』(国書刊行会)・・・・・・ちくま文庫泉鏡花集成』(全十四巻)の解説が収録されたのが特にありがたい。
三浦展『花街の引力 東京の三業地、赤線跡を歩く』(清談社Publico)
ウィリアム・フォークナー『土にまみれた旗』(諏訪部浩一訳、河出書房新社
○森明彦『食べられる草ハンドブック』(自由国民社
○石弘之『砂戦争 知られざる資源争奪戦』(角川新書)・・・・・・いや確かに、コンクリートでビル建ててるうちはそりゃ砂不足になるわ。世界各国で砂輸出禁止が相次いでいるらしい。インドでは砂マフィアが強大な裏権力で、ジャーナリストや警官を何十人も殺しているとか。ちなみに、砂漠の砂は形状・性質(アルカリ)のために建築に不向きなのだそうな。ここを突破できるかどうか。
○岡崎守恭『遊王徳川家斉』(文春新書)・・・子女は五十人いて「オットセイ将軍」と渾名されたことは知っていたが、子を一門・有力諸藩に送り込んで、「一橋幕府」(王朝と呼んでもよいのではないか)を構築したと言われるとナルホド、と思う。「遊王」とは幕府正史にある表現です。
○エルンスト・カッシーラー『国家と神話』上(熊野純彦訳、岩波文庫)・・・・・・門外漢ながら、カッシーラーの著作には比較的親しんでいる。旧訳版の本書(訳者・宮田光雄)初読から二十年(?)ぶりで読み出すと、不審なくらいすらすらと頭に入る。多少は年功重ねたためか。訳文の恵みか。だけにあらず。カッシーラーはナチという野蛮な「神話」の記憶生々しい時期にこれを書いたのだが、現在ネット・SNSの普及はあらたな迷妄を生み出しつつある(「新たな中世」の到来を言ったのはたしか蓮實重彦)。異なる文脈でも痛切に読み込めるのはやはり名著の証。
○山本勉『完本仏像のひみつ』(朝日出版社
日下三蔵編『ラビリンス「迷宮」 ディアナ・ディア・ディアス新井素子SF&ファンタジーコレクション3(柏書房

 

あ、出ましたよ、『記憶の図書館 ボルヘス対話集成』(垂野創一郎訳、国書刊行会)。垂野さんがブログで力説してらっしゃるとおり、これで7,480円は高くない高くない。どうせ酒飲む店もないんだから、この一冊買ったとて高くもなんともない。

 

 

行く夏とは言わない


 夏井いつき先生の『俳句ポスト』がリニューアルしてからもひとつ戦果がふるわない・・・・・・。

林家染丸『上方らくご歳時記』(燃焼社)
澤田瑞穂『中国史談集』(早稲田大学出版部)
○ジェス・ウォルター『美しき廃墟』(児玉晃二訳、岩波書店
野口冨士男『巷の空』(田畑書店)
○ガーズィー・ビン・ムハンマド王子『現代人のためのイスラーム入門』(小杉泰訳、中央公論新社
○バーバラ・H・ローゼンワイン『怒りの人類史』(高里ひろ訳、青土社
○チゴズィエ・オビオマ『小さきものたちのオーケストラ』(粟飯原文子訳、早川書房
○ローズ・マコーリー『その他もろもろ』(赤尾秀子訳、作品社)
シュテファン・ツヴァイク『聖伝』(宇和川雄訳、ルリユール叢書、幻戯書房)……林達夫の対話(『思想のドラマトゥルギー』)で触れられていて、ずっと(三〇年近く(笑))読みたかった本。ルリユール叢書もっと出してくれ。
中条省平『人間とは何か 偏愛的フランス文学作家論』(講談社)……読書の記憶をたどり返しながら語られるフランス文学史
山崎正和『哲学漫想』(中央公論新社)……表題の連載エッセイ(未完)と時評・書評・追悼文。「哲学漫想」がすごい。前著『リズムの哲学ノート』の足らざるところを自ら省察し、訂正・補筆・展開する。その際にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』全巻を読み直し、註する!専門家は知らず、この本をここまで丁寧に読み解き、評価・批判した文章はほとんど無いのではないか。あ、思い出した。吉田秀和がつとに「天才的に曖昧な哲学」と評していたが、おそらく山崎正和の犀利な批判と同じスジだと思う。他にも新型コロナ騒動をいつもどおり冷徹かつ現実的に考察した文章にも圧倒される。充実した晩年としか言いようがない。これだけ見事に「思想と人生」とを生ききった人だからこそ、「人間がなぜ孤独死していけないのか」ということばは(最近出た山崎正和の評伝に収められている)限りなく重い。
○尾脇秀和『氏名の誕生』(ちくま新書)……なぜかあげるのを忘れていた。特殊な(ここが重要)近代化の中で夫婦同姓がデフォルトとされていく骨太な論の運びも読ませるが、ともかく細部が面白くて面白くて。江戸研究には必携の一冊。
日下三蔵編『皆川博子随筆精華2 書物の森への招待』(河出書房新社
○笹本正治『歴史のなかの音』(三弥井書店
○ノーマン・ロック『雪男たちの国』(柴田元幸訳、河出書房新社)……読み終わって「雪男出てこえへんやん」と呟き、一瞬後に「いや、これでええのや」と思い返す。しみ通るような細部で読ませる。スコットが歴史事実としては前年に死んでいたということを知るとなおさら味わい深い。
○渡邉 義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ
○北川扶生子『結核がつくる物語』(岩波書店
○フョードル・ソログープ『小悪魔』(青山太郎訳、白水社uブックス)
○岡本亮輔『宗教と日本人』(中公新書
ジュール・ヴェルヌ『ジャンガダ』(安東次男訳、文遊社)

 

 

 

 

 

子鳩とブラックジャック

 雲が垂れ込めるなか、上京の『仁修樓』へ。松坂木綿の縞物を着ていたが、店に入る頃には汗みずくになっていた。

 一年ぶりということもあって、こちらからは「うんと。」とお願いしていた。その「うんと。」コース《紫美》は以下の如し。

(1)甜醤鰻魚捲
(2)什錦花拼盤
(3)燕窩木瓜
(4)石岐烤乳鴿
(5)XO炒鮮鮑
(6)妙品三宝鴿
(7)海胆冷拌麺
(8)美味甜点心


(1)骨切りした鰻を、葱・山椒・生姜を揉み込んだ水に二日浸ける(臭み抜き&身をやわらかくする)。引き上げた身を巻いて揚げる。香料を入れて煮詰めた醤油だれ。鰻を揚げているくせになんとも軽やか。ひと品めから目が覚めるような鮮やかな味。横に、鰻の中骨も入れて引いた上湯(シャンタン)を添えているのが心憎い。骨も焼いてから一度下茹でするという処理を施している。
(2)前菜盛り合わせ。①野菜甘酢漬け、②蒸し鶏葱だれ、③ペカンナッツ飴炊き、④冬瓜、⑤豚足の香味漬、⑥蕃茄焼売、⑦帆立香り揚げ。④は上湯で下味を付けたものを冷たくした例の一品で、最後にぽと、と垂らした山椒油が涼しい。⑥は生だとすこし皮が硬いくらいのプチトマトをまるごと入れて蒸し上げたもの。直前に作るので、トマトの身もだれず、噛むとあまずっぱい汁がほとばしる。
(3)パパイヤまるごとを器にして、そこに上湯・金華ハム・棗で引いたスープを入れて蒸し上げる。燕の巣入り。パパイヤの甘さ(蒸すと香りが一層なまめかしくなる)とハムの塩気のぶつかり合いでまずはっ。とさせて、落ち着いてからは滋味滋味してくる、という趣向。マンゴーの実を突き崩す具合で味が濃淡様々に変化するのも愉しい。口が慣れてきた頃のために青柚を用意してあるので、一滴たらすと食材が食材だけあって、南国風の椀盛を食べてるような。
(4)出たーっ!という感じでハトが来た。ハトを酷愛する鯨馬は前もってお願いしていたのである。一羽まるごとをローストにしている。皿脇にはゴム手袋が。「しゃぶるようにして、存分に召し上がれ」ということ。ハト肉独特の精緻なテクスチャーからかんばしいジュースがほとばしる。皮の芳脆と好対照。アタマも不思議と余すところなく食べられてしまう。フォーク・ナイフなんぞは言うに及ばず、箸をあやつったとてこの快楽は得られるものではない。鳩は百鳥の王である、てなことを心に呟きながら、後半はほとんど性的快感すら覚えつつ一心に食らいついた、のだと思う。気がつけば皿の上はあたかも快楽殺人の現場のような光景を呈しているのであった。上岡シェフは、献立全体の構成にも神経を配る料理人。この一皿のために(1)で食慾をかき立て、(2)で心を華やがせたあと、(3)でまるで水垢離をとったように舌を清浄にしてから、と按配してくださったに違いない。
(5)あの鳩のあとでは、鮑ですら「箸休め」に感じてしまう我が舌の驕りがおそろしい。貝に添えられたアワビ茸というきのこがよろしい。
(6)やはり鮑は周到な計算のもとに出されたのだった。二羽目の鳩は贅美を尽くしたもので、前に一旦呼吸を整えておかねば満喫出来なかったかもしれぬ。それくらいエネルギーと気合いのこもった一皿。作り方を簡略に記しますと、①姿を壊さないようにして臓物と中骨を抜く。②①と上湯ベースで一時間半かけてダシを引く。③②で鳩を一時間半蒸し煮するのですが、中身を抜いた鳩のなかに、いいですか、干海鼠と鱶鰭と干鮑(丸々ひとつ!)と金華ハムとを詰めるのです。スープには当然干鮑のダシも入る。こうして書いていてもなんだか夢まぼろしの心地こそすれ。④③のダシにかたくりでとろみをつけ、わずかにオイスターソースを混ぜて更に一時間半。いうまでもなくこれはダシを味わう料理で、つまり広州料理を本貫とする上岡シェフにとってはまさに腕の見せ所となるわけ。「エネルギーと気合い」なんて汗臭い形容は失礼なほど、優雅にして端正。おっそろしく「のびる」スープですねえと感歎すると、ゆっくり深く頷いたシェフ曰く、「近いうちにうちのスペシャリテに入ると思います」。当然でしょうな。鳩が、おおあの鳩ですらここでは縁の下の力持ち的な役回りに徹していた。海老蔵の興行に歌右衛門勘三郎がご馳走役をつとめるが如し。「妙品」の形容では些か謙遜に過ぎるように思う。『豆腐百珍』でさえ「妙品」の上に「絶品」を置いているのだから。あるいは(中華だけど)我が江戸時代の評判記に倣って「極上々々吉」とでもするか。ともあれこのひと品だけとって、三十年ものの紹興酒をごくぬるの燗で延々やりたいものである(『仁修樓』のような店でそんなことはしてはいけません)。
(7)「冷やし中華です」と出したシェフがニヤリ。炒めに使った生鮑の肝を溶いたソースで麺を和えるのだが、名前のとおり海胆がこんもり積まれておる。いや、八戸で散々海胆放蕩を尽くしてきた鯨馬、海胆そのものにはさほど動揺しないのだが(少し動揺した)、ここに『仁修樓』のスタンダード上湯の煮凝りを混ぜているのがすごい。鮑+上湯、海胆+上湯、もちろん三者単体といくらでも味の変化を堪能出来る。無論これほどのスープが素人に、どころかそこらの料理屋にだって引けるわけはないけれど、この出し方は勉強になった。悪くないトリと干し貝柱、昆布で濃い目に引いた出汁を煮凝りにして、オクラのたたきや芝海老、青豆などの吹き寄せと和え混ぜにしたら洒落たひと鉢になるのではないか。
(8)鯉のなりに彫刻した杏仁豆腐(上岡シェフは飾り切りの名手)を、水出しの鉄観音に浮かべたのと(清冽)、「ほぼほぼマンゴー」なプリン、とはつまり生のマンゴー9割につなぎをちょびっと入れて形を作ったもの。

 「甜点心」のあと、ペカンナッツとピリ辛カシューナッツを合いの手に、特製ハイボール紹興酒に塩漬け生姜や棗を加えている)をちびちびやりながら鳩の思い出をたどる。「また鳩まつりをお願いします」「鳩地獄、というくらいにお出ししますよ」。

 思うに、中華は香り高い茶と一緒に料理を愉しんでから、卓を浄めて然る後ゆっくり(かつ延々と)軽いつまみ物で酒を呑むのが本道ではないか。これは危険思想であろうか。

 行くたびにますます精巧華麗になりながらも、出汁を基盤の広州料理の本質をしっかり見せる上岡誠の腕にはただただ敬服する。帰りのタクシー(堀川通沿いに京都駅まで下る)で、京に住むのも悪くないことだと思ったのは、微かに降る雨に黒々濡れた町並み以上に上岡シェフの魔力にとらわれていたせいに違いない。

○土岐恒二、吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集』(小鳥遊書房)……大冊で、しかも読み応えあり。土岐さんの論文・翻訳・シンポジウム記録が丹念に集められ、ゆかりある人の論文(富士川義之高山宏など)も併載という豪華版。ワーズワースを論じてたのは意外。エドマンド・ウィルソンイーヴリン・ウォー論が読めたのは嬉しかった。
○ダニエル・ストーン『食卓を変えた植物学者』(三木直子訳、築地書館)……今や世界の食卓を剪断するアメリカも、つい百五十年程前はむしろろくな作物のない国だったらしい。
○エイヴリー・ギルバート『匂いの人類学』(勅使河原まゆみ訳、武田ランダムハウスジャパン)……ヒトの嗅覚は思われてるより鈍くない、のだそう。また、嗅覚細胞の質よりも脳の判断によるところ大なので、「プラシーボ効果」が大きいのだそうな。プルースト的記憶の間歇があるのがよく分かる。
○廣野由美子『小説読解入門 『ミドルマーチ』教養講義』(中公新書)……ジョージ・エリオットなんてたぶん一生読まないだろうから、読解の首尾についてはなんとも言えませんが、前著『批評理論入門』同様あまりに「教室的」でやや鼻白む。ただ、かの長大な作品の丁寧な梗概が付いているのは有り難い。
中田考『増補新版 イスラーム法とは何か?』(作品社)
○青木真博『新版 鉱物分類図鑑323』(誠文堂新光社)……澁澤龍彦のいわゆるペトラ型なんかどうか知らんけど、最近は動物より植物より石が好き。岩石もまた生物のように輪廻転生を繰り返しているという記述では恍惚となった。
○和田博文編『石の文学館 鉱物の眠り、石の思考』(ちくま文庫
坪内祐三『文庫本千秋楽』(本の雑誌社)……わざわざ書名を掲げた上で悪口を、しかも故人の悪口を言うのはいささかはしたないけど、やっぱりこの著者評価出来ないなあ。せっかく面白そうな本を取り上げても自分との関わりの記述に終始するか、関連?周辺?情報を水っぽく絡めて終わり、という残念な場合があまりに多い。谷沢永一が「コラムニストはすべからく一撃必殺の博学でないといけない」と言っていた(坪内さんに向けての評言)のを思い出す。
○加藤敬事『思言敬事』(岩波書店
○ジョン・コナリー『キャクストン私設図書館』(田内志文訳、東京創元社
○風間賢二『スティーヴン・キング論集成』(青土社
半藤一利『昭和史探索1~4』(ちくま文庫)……盆休み用にと、遅まきながら。史料が直接引用されているので雰囲気がよく分かる。戦前の散文のレベルがひどかったことも分かる。読みにくいのは用語・文体(漢語や漢文訓読体など)のせいではなく、根本的に明晰・叙事の構えが少ないのだ。
○カロル・タロン=ユゴン『美学への手引き』(上村博訳、白水社文庫クセジュ)……同叢書のユイスマン『美学』が読みにくいなあと思っていたが、訳者後書きで、「偏りがひどい」と指摘してあった。訳文明晰。
○佐藤方彦『感性を科学する』(丸善出版
○小田部胤久『美学』(東京大学出版会
○小田部胤久『西洋美学史』(東京大学出版会
フロイト『幻想の未来 文化への不満』(中山元訳、光文社古典新訳文庫
フロイトフロイト、夢について語る』(中山元訳、光文社古典新訳文庫)……精神分析はいかがわしくとも、この2冊に特に露わな、18世紀的過激(ここが重要)啓蒙思想家としてのフロイトは光っている。ピーター・ゲイの評伝以降そういう研究はないのかな。
木下直之『せいきの大問題 新股間若衆』(新潮社)……知らんうちに続刊が出ていた(って四年も前)。よっ、帰ってきた股間若衆!
奥本大三郎ランボーはなぜ詩を捨てたのか』(集英社インターナショナル新書)……新書にはもったいない。評伝部分も読ませますが、「酔いどれ船」(奥本さんは「忘我の船」と訳す)、「地獄の一季節」「イリュミナシオン」の註解が有り難い。
○ノア・ゴードン『最後のユダヤ人』(木村光二訳、未知谷)
いしいしんじ『げんじものがたり』(講談社)……いしいしんじの日本語はひとの膝をカックンさせる按配が絶妙。なんどもカックンさせられてしまいには膝ががくがくになってしまった。出来れば「若菜」あたりも訳してほしい。オッサンになった光クンがどんなことばづかいで話すのか、聞いてみたい!
マーガレット・アトウッド『語りなおしシェイクスピア1テンペスト 獄中シェイクスピア劇団』(鴻巣友希子訳、集英社)……この著者でこの題材でこの訳者やん、白飯に明太子のせてバター醤油かけて海苔巻いたみたいなもんですやん。
池内紀『昭和の青春 播磨を思う』(神戸新聞総合出版センター)……実在の人物を材に虚実織り交ぜ(だと思う)、見事な短篇を作り出した。「間のびしたような」ぬる~い(ワルクチに非ず)風土のジェニーを伝えるのも見事。

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オペ前

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オペ後

 

蝉とフナムシとわたし~宇和島再訪(2)~

 二日目は日振島の日崎海水浴場(こちらには名前がある)で泳ぐ予定をしていた。高速船の乗り場に行ってみると、ちらほら客の姿はあるものの、釣り竿を携えたおとっつぁんか、明らかに帰省途中の人ばかり。今日は日曜日で、晴れてて、海水浴場も閉鎖されてなくて、んでもって日振島に渡る便てこれ入れて3便しかないはず。ああ、朝から移動もめんどくさいから前日キャンプしてそのまま泳ぎに行くのだな「普通」の客は、と無理矢理自分を納得させて乗り込む。

 あくまでも穏やかな海を走ること一時間弱、案の如く帰省客は別の港で下船、そして海水浴場がある明海(あこ)港で降り立ったのは鯨馬ひとり。海水浴客は置くとしても、漁港で日曜なればもとより人影はなし。スマホの地図を見ながら、何とはなしにとぼとぼと歩く。

 日崎海水浴場は、あった。

 誰もいなかった。ちらもほらもあったものではない。人っ子ひとりいないどころか、猫の子一匹、アリんこ一匹いない・・・いやアリんこの代わりにフナムシはぎょうさんおった。道案内をするがごとく、鯨馬の歩みにつれてささ、さーっとフナムシの波が前へ前へと揺れるのだった。

 ともかく、少なくとも昼過ぎの便が来るまでは、完全独占状態なのである。そう思うとなんだかむやみに愉快になってきた。早速更衣室で着替え(どこで着替えようと問題ないんだけど)て浜に向かう。畳一畳ほどの幅で砂はあったものの、残りは全て砂利乃至礫。厚底のビーサンを持ってきてこなかったことが悔やまれる。昨日すでに浜の小石で足裏を何カ所か切っていたので、よちよち歩む。

 防波堤があるので至極静穏な海面。本日は浮き輪に腹ばいになって下を覗くと、海草ゆらゆらのあいだを魚が群れ遊び、要するに海。海水浴場ではなくて、いろくずどもの王土に場違いが一匹泥足でふんごんだという按配である。

 いささか遠慮がちに、でもへっぽこアクアリストとしてはつま先で触れようかという近さでこれだけの眺めが展開しているのは堪らん状況であって、泳ぐのも忘れて水中観察にいそしむ。

 ところどころ、ぎょっとするくらい巨大な(当方の肘から先をこえる程)真っ黒の物体が転がっている。ナマコだろうか。それならば別に危害もない。と両足で挟んで持ち上げようとすると、この不吉な色の棍棒の端からびやーっと糸が噴き出した。むかしゴダイゴが投げてたようなヤツである。それが足先にねっとり絡みついて気色悪いことこの上ない。ナマコごときにぎゃっと声をあげたのにムカついてさらに足で蹴ってやると、ヤツも負けじと糸を吹き付けてくる。

 退散して浜に戻ると、足首から先はびっしりと糸が絡まっている。痛みもかゆさもないのだが、ひたすら気色悪い。そしてまたこの糸が矢鱈ねばついてなかなかはがれないのである(一部は翌朝まで残っていた)。教訓ナマコをいじめてはいけない。

 そういえば、獅子文六が戦中妻の実家ということで疎開していたのが宇和島近辺だった。食いしん坊の小説家は、海辺に転がっているナマコが食えないかと訊ねて、「あがいなもん食べてどないしなはるぞ」と笑われたのだった。うーん鯨馬の見たのと同じ種類のナマコだとすれば、文六、かなりの豪傑であるな。

 ナマコに懲りたのでもないけれど、カラダが冷えてきたので(海に入ったのは朝七時半)、しばらく浜辺の階段でひなたぼっこ。熊蝉の声でからだが浮き上がるような心地がすると眠りに入っていた。

 で、水中観察とひなたぼっこを何度か繰り返していたのですが、不思議なことに、あれだけ水が好き海が好き水生生物が好きな人間が、何やらオソロシクなってきたのでした。

 日はさんさんと照っているし、波も荒くなったのではないけれど、誰もいない海で遊んでいるうちに不意に暗い水底まで引きずり込まれる感覚が一瞬よぎって、文字通り震え上がる。ヴァレリーというおっさんが深海にさかまくものを見たと歌ったのはこういう感覚のことをいったのであるか。あるいはナマコの祟りであるか。

 いったん怖くなるとなかなか取り戻せないもので、それでも未練たらしく波打ち際でしばらくぱちゃぱちゃしたあと、諦めて浜と並行に入り込んでいる潮だまりを見に行くことにした。

 澄んだ水で(でも地中海とはちがって栄養豊か)、しかも沖つ波の来ないところとあって、カニだのヤドカリだのが鈴なり(?)。足先を水に浸していると、ヤドカリやスジエビが当方の指をくすぐっていく。これはこれで愉しい。

 透き通る水の中に妙な曇りがあるなと目を凝らすと、コウイカの赤ちゃん(?)が二匹連れだってひらひらしている!飛び込んで咥えたくなるほど可愛らしい。

 と我が楽園にサタンの如く闖入してきたのはアブ。じつにしつこくつきまとう。ハエや蚊と違って刺されるとかなり痛いので、無視するわけにもゆかず、タオルやらウチワやら振り回して必死に追い払う。段々憎らしくなってきて、わざと水着にとまらせたところをウチワではたき落とし、その上に石ころでめためたに叩き潰す(サタンは当方なのであった)。

 結局後半は潮だまりでの磯遊び。うーん昨日の小学生どもと変わらんな。ま、人目はないからよろしい(一応気にはしている)。

 船が来るまでの一時間は、何故か開けている休憩所のテラスでほけーっとしながら缶ハイボール三本と同じくチューハイ一本を開ける。それでも南国の陽差しはあっというまに水分を吸い上げてしまうと見えて、『有明』にたどり着くと、やっぱり昨晩同然に生ビールが切りもなく染みこんでいく。天然鰻、香りがいい。多少固いのは元々上方の地焼きで育っているからなんとも思わない。

 ホテルで小憩のあと、お城あたりをぶらぶらして夕食はきさいや商店街の角にある『蔭や』に飛び込みで。ここはおでんが旨く、また若夫婦もまことにいい人で、再訪決定。次は十年もかからないと思います。お世話になった宇和島の方々、感謝申し上げます。(おわり)