儺をやらふ

 なんと三ヶ月ぶりです。年末年始は文字通りに酔生夢死、続いて八戸えんぶり中止を知って意気消沈しておりました。なんとか鬼を払って気分を励ますべく、今年は追儺の料理をしっかり作りました。

【其の壱】これはひとひねりした方。
*福茶……昆布、山椒、梅干に湯を注いで飲む。煎茶という手もあるけれど、吸物代わりだから湯で。煎り大豆もよい(黒豆だとより香ばしい)。酒のあと、酔い覚ましにもうってつけです。間に合わなければ宿酔のときでも。
*塩鰯……昔は安い時期に買い込んで塩漬けしておいた鰯を節分に焼いたものだそう(上野修三さんの本で知った)。油焼けで腹は割れ赤っぽくなったから赤鰯。今のスーパーで売ってるのはそこまでではないにしろ、さして旨くはない。で、今年は生鰯から自製。まず脱水シートにくるんで一日置く。かなり水分を抜く。そのあと好みの加減の立て塩に清酒を半量程度混ぜて数時間漬けておく。焼くときにも酒を塗る。しっとりして生臭さもなく頭からわたまで食べられます。だから玄関先に刺すものまでなくなってしまう。
*太巻「かず」……行事ごとのときくらい炭水化物制限を解いてもいいんだけど、あの丸かぶりというのはどうにもはしたなくてねえ。そもそも白米食いながら酒が呑めるか。すなわち太巻の具だけを並べ、焼き海苔に載せて巻かずに摘まむから太巻「かず」。かんぴょうの淡煮と干し椎茸の含め煮、芹(根付きで湯がく)、焼き穴子(東山市場の魚やで)。本来の上方の「お巻き」にはマグロやら蟹やらサーモンやらの生ざかなを入れない。もちろん摺り山葵を添える。意外にかんぴょうが肴としていけました。ごく淡味なのがよかったのか。かんぴょう山葵の巻き物は元々好物だしな。
*けの汁……節分に豆を食べないのも如何かと思って・・・というのは後付けで、青森旅行が流れた無念を少しでも慰めるためにこしらえる。今回の具は、高野豆腐(戻して細かく刻む)・蕗(あく抜きして刻む)・大根(他の大きさに合わせて刻む)・干し大根・蕨(塩漬けを戻す。刻む)・なめこ。そして青大豆の打ち豆(ふつうは大豆のじんだ)。あればこんにゃくや牛蒡・人参もいいですね。出汁は昆布(そのまま具にする)と津軽の焼き干し(これも引き上げない)。味付けは味噌。二年寝かせた自家製と、南部の赤味噌を混ぜる。青森で食うと上方ものにはきつい塩加減なので、酒呑み向けにごく薄味で調味する。

【其の壱】こっちはうんと古風にしてリヴレスク。大阪は船場の旧家・水落家の「行事帳」を参考に。
*麦飯……押し麦でなく丸麦で。幕末、大坂町奉行として江戸から赴任した久須美祐雋というお侍が『浪花の風』なる見聞録をものしている(『日本随筆大成』などに翻刻あり)。そこにも「節分大晦日には必らず麦飯を焚て、赤いわしを添へて祝ひ食ふ」とあり。偶に食べると白飯よりあっさり香ばしくてちょっといいものである。
*鯨汁……昆布出汁で、実はコロ・牛蒡のささがき・こんにゃく・大根。コロはもちろん糠湯で下茹でしておく。白味噌で薄めに調味。食べしなに揉んで粉にした陳皮と七味。風雅なような野暮ったいような風情がよろしい。


○山下泰平『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(柏書房)……横田順彌の本読んどけばいーやん、とも思いますが、ともかくもヘンテコな本を一心に面白がっている風情が風流でよい。
○岩間一弘『中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえて』(慶應義塾大学出版会)
○渡辺浩『明治革命・性・文明 政治思想史の冒険』(東京大学出版会)……渡辺先生は贔屓の学者のひとり。丸山門下だが、思想史の現場における「肌合い」を仔細に検討してゆく手続きが素晴らしい。本書でも、開国を迫った欧米列強と受けた幕府双方のいわば「説得のレトリック」をめぐる攻防・苦悩に光を当てる着眼が清新である。結果としては衆知の通り臆面もないパワー・ポリティクスのうねりに巻き込まれていくのだけれど、その間のうごきをたどることは著者のいうとおり、現在の知性のあり方へと直截にはねかえってくるだろう。
○レオニード・アンドレーエフ『イスカリオテのユダ L.N.アンドレーエフ作品集』(岡田和也訳、未知谷)
○ヒラリー・マンテル『鏡と光』上下(宇佐川晶子訳、早川書房)……『ウルフ・ホール』から何年待ったのかなあ。乾いて冷たい主人公が素敵。なにやらブキミなヘンリー七世もそれとして素敵。
山内昶もののけ』上下(ものと人間の文化史法政大学出版局
原武史昭和天皇』(岩波新書)……題名は「昭和天皇」だが主旋律として響いているのは貞明皇太后との奇々怪々なる母子関係。つまり同著者の『皇后考』のエッセンスと言うべき本。生物学研究と国体との関係はじめ、はっ。とさせられる記述ばかりである。
○谷口桂子『食と酒 吉村昭の流儀』(小学館文庫)
○スティーヴンソン『爆弾魔 続・新アラビア夜話』(南條竹則訳、国書刊行会
春日武彦『奇想版精神医学事典』(河出文庫)……この人の書いたものはこれが初めて。面白かったので下の三冊も続けて読んだところ、どうやら本書が集大成的な一冊らしいと見当が付く。小説批評の形をとった『無意味なるものと不気味なるもの』がいちばん面白く読めたのだが。
春日武彦『無意味なるものと不気味なるもの』(文藝春秋
春日武彦『残酷な子供グロテスクな大人』(アスペクト
春日武彦『何をやっても癒されない』(角川書店
○デイヴィド・ヴィンセント『孤独の歴史』(山田文訳、東京堂出版
○バリー・ストラウス『10人の皇帝たち』(森夏樹訳、青土社
○関容子『銀座で逢ったひと』(中央公論新社)……関さんの文章がまた読めて嬉しい。
○村井俊哉『はじめての精神医学』(ちくまプリマー新書
○中井圭志『宗教図像学入門』(中公新書)……『宗教のレトリック』の気合いで一冊書いていただきたい。
○会田大輔『南北朝時代 五胡十六国から随の統一まで』(中公新書)……宋代に次いで惹かれる時代。だったが、まだ基礎知識が少なすぎてごちゃごちゃ。通史でもう少し丁寧に勉強しておこう。
○ピエール・ルメートル『僕が死んだあの森』(橘明美訳、文藝春秋)……訳者後書きにあるように冷え冷えした感触のミステリ。ハイスミスにも通じるとか。もう少し読みたい作家。
○I.バーリン『反啓蒙思想 他二篇』(松本礼二訳、岩波文庫)……ヘルダーを読み始めたとこなので、いいサブテキストとなった。またド・メストルのポートレイトが興味深い。
○J・G・A・ポーコック『野蛮と宗教Ⅰ』(田中秀夫訳、名古屋大学出版会)……上記バーリン本に触発されて、逆に啓蒙思想の研究書が読みたくなったのである。
○ピエール・ルヴェルディ『魂の不滅なる白い砂漠』(平林通洋訳、幻戯書房ルリユール叢書)……この叢書相変わらず突っ走っている。その一方でソログープ『小悪魔』の新訳なぞもぶつけてくる。万歳。
井上順孝神道の近代』(春秋社)
○林采成『東アジアのなかの満鉄 鉄道帝国のフロンティア』(名古屋大学出版会)
○アレクサンダー・レルネト・ホレーニア『両シチリア連隊』(垂野創一郎訳、東京創元社
○ジェームズ・ガーニ/Bスプラウト『空想リアリズム』(ボーンデジタル)
エドワード・アタイヤ『細い線』(真崎義博訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)……みんな少しずつおかしいようで、でも、いやこの人物配置だとこうなるかも、という妙なリアリティ。ミステリなのでこれ以上書けませんが、しかし解説者は一箇所(冒頭の牛乳瓶のエピソード)誤読しているのでは?
師茂樹最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(中公新書)……なんぼなんでも副題は大仰に過ぎると思うが、それはそれとして面白く読めた。最澄=一乗、徳一=三乗という単純な図式ではなかったこと、また論争に因明の論理が(かなりきっちり)組み込まれていたこと、またこの論争の、いわば「日本論争史」上での位置づけなど、かねて関心を寄せていたトピックが綺麗に説明されていた。
○阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』(中公新書
○『山川静夫の歌舞伎思い出ばなし』(岩波書店
○タミム・アンサーリー『世界史の発明』(花田知恵訳、河出書房新社
谷川俊太郎他『ハムレットハムレット!』(小学館)……文字通り近現代日本文学の「ハムレットもの」アンソロジー。ほとんど知っていたけど、まとめて読み返すとたとえば大岡昇平ハムレット解釈がいかに清新だったかよく分かるものである。
西谷正浩『中世は核家族だったのか 民衆の暮らしと生き方』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館
マリオ・バルガス=リョサケルト人の夢』(野谷文昭訳、岩波書店)……うん、いかにも岩波だ。
○近藤祉秋/吉田真理子『食う、食われる、食いあう マルチスピーシーズ民族誌の思考』(青土社
浅羽通明星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと』(筑摩選書)……最相葉月さんの評伝に丁寧に言及しながら反駁している。ASDアスペルガー症候群)傾向があるというのは分からないでもないが、文芸批評としてはそれで済ませても意味が無い。徹底した合理主義と良識とのコンビネーションは今の日本では「奇想」や「矯激」に見えてしまうんだろうなあ。「反動」とすら見えるかもしれない(こーゆー区分けは実に不毛なのですが)。バーリン本で取り上げられるヴィーコやヘルダーも(創作の才の有無は別として)星新一的な思考をすることで結果的に反啓蒙の立場に見えるところがあったのではないか。
池内紀川本三郎『すごいトシヨリ散歩』(毎日新聞出版)……敬愛する物書きお二人の対談なのだが・・・つらくなって途中でよしてしまった。
スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(柴田元幸訳、白水社)……ミルハウザー(&柴田元幸)の手にかかると、畏怖すべき超越神の召命さえこうも甘美な工芸品(ワルクチに非ず)に化してしまうのか(「夜の声」)。ちっともコワくない幽霊譚「私たちの町の幽霊」がいい。
○伊藤聡『日本像の起源 つくられる〈日本的なるもの〉』(角川選書)……いわば「日本人の自意識年代記」。〈外〉への憧憬と居直りという構図は牢固として抜きがたい強迫観念のように思えてくる。私見では空海と徂徠は違う次元に立っている。
○マーク・トウェーン『イノセント・アブロード』上下(勝浦吉雄訳、文化書房博文社)
○土屋恵一郎『社会のレトリック 法のドラマトゥルギー』(新曜社
○ジャネット・マーティン・ソスキース『メタファーと宗教言語』(小松加代子訳、玉川大学出版部)
○ピーター・コンラッド『オペラを読む』(富士川義之訳、白水社
○成瀬国晴『なにわ難波のかやくめし』(東方出版)……著者の生家があった日本橋三丁目の町内を、プルーストみたいに細密に辿り返しながら上方芸能の一斑にしのびよるという趣。大阪本の中でも出色の出来。
○キャロリン・パーネル『見ることは信じることではない 啓蒙主義の驚くべき感覚世界』(藤井千絵訳、白水社)……バーリンやポーコックとはひと味ふた味違った啓蒙主義へのアプローチ。猫オルガンやらタバコ浣腸やら珍奇な主題を次から次へと繰り出して、副題どおりに驚くべき感覚世界、というのは感覚を巡る言説空間を垣間見せてくれる。垣間、というのは著者自身が個々のエピソードに淫して全体としては散漫な叙述になっているきらいがあるから。しかしこれは決して批判的に見ているのではないので、たとえばオースティンの『分別と多感』(Sense and Sensibility)のタイトルの含蓄とか、盲人についてディドロほど熱心に語った哲学者はいなかったなあとか、考えを展開させるきっかけがかくも充溢していればそれでいいのである。少なくとも十七世紀のお化けみたいなコギトに比して十八世紀はずっと生気に富んだ複雑な時代であった。とても「合理主義」だけで片付けられるものではない。

 次回はもっとまめに読後感をメモしておきます、ハイ。

 キーンと音がするくらい冷え込む冬の八戸なら、えんぶりがなくても行きたいけれど、何故か市内の設備は全部休館になっており、飲食すらいつ灯が消えるやら分からん状態ではなあ。と実はまだうじうじ悩んでいる。