狐の一人舞

 令和四年は全面中止となったのだから、数年来の習慣というには当たらない。当たらないがしかし、昨年のえんぶりがじつに愉しかったため(拙ブログ「岡目の一目~えんぶり復活(3)」参照)、仕事の都合で行けなくなったのには(予算も休みも組んでいたのに!)、ほとんど呆然とした。いくら身過ぎ世過ぎのためとはいえ余りに没義道な仕打ちではないか。

 と歯噛みしかけて、いやいや長者山新羅神社の祭礼であるえんぶり、怨み言は神への非礼と思い返す。参上叶わぬならば遠く神戸で神を称え豊饒を祈ぎ奉るに如かず。すなわち、YouTubeで早速公開された動画を大音量で流しつつ、一人居間にて摺り、歌う。まるで「蘭陵王」における内田百閒のごとく、ほたえにほたえぬく。

 ベッドに入っても、まぼろしのお囃子の音をふせぐために、寝入るまで耳を押さえつけていなくてはならなかった。


○佐藤美津男『浮浪児の栄光 戦後無宿』(辺境社)
セバスティアン・アビス『小麦の地政学』(児玉しおり訳、原書房
○渡辺哲夫『〈精神病〉の発明 クレペリンの光と闇』(講談社選書メチエ
○田中聡『身の維新』(亜紀書房
○鈴木聖子『掬われる声、語られる芸 小沢昭一と『ドキュメント日本の放浪芸』』(春秋社)
○徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』(講談社選書メチエ
○ジョン・トロイヤー『人はいつ「死体」になるのか』(藤沢町子訳、原書房
○マーシャル・ブレイン『人類滅亡の科学』(竹内秀春訳、日経ナショナルジオグラフィック社)
ホルヘ・ルイス・ボルヘスシェイクスピアの記憶』(内田兆史・鼓直訳、岩波文庫
竹友藻風詩学と修辞学』
○樋口勝彦『ローマ風俗考』(日吉論叢2)
○岸本千佳『もし京都が東京だったらマップ』(イースト・プレス
○越前敏弥『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』(ディスカヴァー・トゥエンティワン
○井奥陽子『近代美学入門』(ちくま新書
○G.K.チェスタトン『聖トマス・アクィナス』(生地竹郎訳、ちくま学芸文庫
最相葉月中井久夫 人と仕事』(みすず書房)……この順で読んだのはたまたまながら、中井久夫が晩年にカトリックの洗礼を受けていたことを(これは別の特集雑誌で)知って、改めて慊ないものを覚えた(加藤周一についても同じ事を感じた)。なぜカトリックかと訊かれた中井先生は筆者に「ヒュブリス(傲り)があるから」と答えたそうである。そこに嘘は無いとしてもチェスタトンの言うとおり、トマスの思想が「ありとある存在が存在することへの賛歌」だとすれば(チェスタトンを読む限り、その通りであると思う)、死を意識した時期に悔悟のあげく入信というのは、どうにも軽佻浮薄であるように思う。中井先生のお仕事に対する敬慕が少しでも減じるというのではないが、やはりそう思う。

 

 

 

 

戦前の旅

 今回は二冊収穫がありました。

★市河晴子『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(高遠弘美編、素粒社)・・・跳ね踊るような文章がいい。戦前(しかも満州事変後)でもこんな闊達な旅行出来てたんだなあ。発掘してくれた編者に感謝。
岡田温司『キリストと性 西洋美術の想像力と多様性』(岩波新書)・・・女陰としてのキリストの傷口(!)など、かなりコアなテーマが盛り沢山。岡田さんの本としてはかなり推測に基づく記述が多いが、これはやむを得ない。それにしてもヨハネとイエス、やっぱりあやしかったんだ!

○マリオ・プラーツ『パリの二つの相貌』(碩学の旅1、伊藤博明他訳、ありな書房)
○バリー・ウッド『捏造と欺瞞の世界史』上下(大槻敦子訳、原書房
○中村圭志『ビジュアルでわかるはじめての<宗教>入門   そもそもどうして、いつからあるの?』(「14歳の世渡り術」、河出書房新社
辻惟雄若冲が待っていた 辻惟雄自伝』(小学館
○山田仁史『新・神話学入門』(朝倉書房)
○山田仁史『人類精神史』(筑摩書房
○稲垣栄幸『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がれない面々』(小学館
佐藤聖編『百鬼園先生   内田百閒全集月報集成』(中央公論新社
○戸森麻衣子『大江戸旗本春夏秋冬』(東京堂出版
エドワード・ポズネット『不自然な自然の恵み   7つの天然素材をめぐる奇妙な冒険』(桐谷知未訳、みすず書房
○上村忠男『歴史をどう書くか   カルロ・ギンズブルグの実験』(みすず書房
長谷川宏『日本精神史 近代篇』上下(講談社
○ひきちガーデンサービス『オーガニック植木屋の庭づくり   暮らしが広がるガーデンデザイン』(築地書館
○フィリップ・マティザック、L.J.トラフォード『古代ローマの日常生活』ⅠⅡ(岡本千晶・元村まゆ訳、原書房
○辰巳浜子『暮しの向付』(辰巳芳子編、文化出版局
橋本治『言文一致体の誕生』(失われた近代を求めて1、朝日新聞出版)
○アーネスト・T.シートン『二人の小さな野蛮人』(中山理訳、秀英書房)
○大林太良『銀河の道虹の架け橋』(小学館
小野紀明『西洋政治思想史講義』(岩波書店
○土屋健『恐竜たちが見ていた世界』(技術評論社
吉見俊哉『敗者としての東京』(筑摩選書)
筒井康隆ジャックポット』(新潮社)
筒井康隆『世界はゴ冗談』(新潮社)
○ルース・バーナード・イーゼル『絵画とタイトル』(田中京子訳、みすず書房
○田野大輔『魅惑する帝国 政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会)
ウェルギリウスアエネーイス』(杉本正俊訳、新評論
西洋古典叢書編集部『西洋古典名言名句集』(京都大学学術出版会)
渡辺保吉右衛門 「現代」を生きた歌舞伎役者』(慶應義塾大学出版会)
藤森照信・下村純一『藤森照信の現代建築考』(鹿島出版会
○岩田文昭『浄土思想 釈尊から法然、現代へ』(中公新書
窪島誠一郎『枕頭の一書』(アーツアンドクラフツ)
○アラン・S・ミラー、サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観』(伊藤和子訳、パンローリング)
○ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー 疎外されたヴィジョン』(高山宏セレクション「異貌の人文学」、野島秀勝訳、白水社

 

 

 

 

祖母・正司歌江のこと

 行き来が絶えて、もう三十年近くにはなるだろうか。逝去のこともYahoo!ニュースで知ったくらいだから。ともあれ由縁ある者のひとりとして、思い出せることを書き付けておく。

 若い頃に出来た娘が当方の母親で、その後に別の男性と結婚したから、要するに私生児ということになる。母の父、つまり当方にとっての母方の祖父は晩年でも身内ながら色気ある人だった。まあ、若気の過ちというところか。歌江の口からはこの祖父の話がたまさか出て来た。「おにいちゃん」と呼び、懐かしそうな口調だった。

 母は十数年、千里古江台の歌江の家に家政婦として通っていた。そのつながりがあって、当方も小学生の頃には「おばあちゃん」が少なくともその頃はかなり有名な芸能人だと認識していた。そうそう、「おばあちゃん」という呼び方を嫌って、「歌江さん」と幼い孫に呼ばせていたのだった。

 といっても、結婚後おしどり夫婦としても有名だった夫とのあいだには男児が生まれていたし(母にとっては弟にあたる)、また物堅い勤め人の家に育ち、自らも会社員だった当方の父は歌江のことを嫌っていたから、行き来といってもその頃から頻繁にあったわけではない。歌江・当方の両親、それに当方でテレビの「芸能人家族対抗歌合戦」のような番組に出たらしいがこれは幼すぎて記憶がない。

 たまに夫の目を盗むようにして、母は当方(と弟)を千里の家に遊びに連れて行く。庭に何かの祠が有り、二階には無気味なほど大きい座敷(と団地住まいには思えた)のあるその家は、滅多に訪れることもないし、家の正統な生まれの孫でもないことは分かっていたから、鏡花流に言えば胸がキヤキヤする反面、どことなく気詰まりに感じていたのは自然な反応であったろう。

 こんな調子で綴っていたら切りがない。あとは順不同に、記憶に残ったことばを並べてみよう。

*「○○は」と当方の名を呼んで、「本当に眼が大きいな、産院ではじめて見たときには麻雀のイーピンかと思った」。
*「鰻にはにんにくがよく合う。濃いものを同士をぶつけると実は軽くなる」。蒲焼きににんにくのスライスをうんと載っけて食べるのである。これは確かに旨かった。
*(鍋をしてるとき)「野菜や魚のアクはとってはだめ。あれは持ち味の凝縮したところだから」。後に野菜居酒屋『いたぎ家』でこの話をしたら、店主のアニさんがえらく感心していたな、そういえば。
*「○○は」と当方の名を呼んで、「酒が好きなんやな。誰に似たのか」。もう時効だから明かすが、これ、まだ未成年のときのこと。次のことばと合わせて翫味されたし。
*「○○」、「もう私は酒をやめた」。おやあんなにがんがん飲んでいたのに・・・といぶかしげな孫の表情をとっくり見て、一呼吸置き、「これからは焼酎にする」とのこと。実際その後も一升酒ならぬ一升焼酎だったらしい。これは孫にも受け継がれている。伝統芸というべきか。
*これは歌江ではなく、遊びに来ていた照枝(てーばーちゃんと呼んでいた)が見せてくれた(語ってくれた?)藝で、豆絞りかなんかの手ぬぐいをちょっと捻って上に投げ上げる。それが落ちて頭に載ると同時に鉢巻になっている、というもの。おそらく寄席で噺家に教わったのではないか。大学で江戸時代の文化について学ぶことになった孫としては、こういった音曲や藝事のはなしをもっともっと訊いておけばよかった、とこれは会わなくなってから度々悔やんだものだ。無論、女三人の漫才として一世を風靡したには違いないが、元は旅藝人ー本人の口からも「河原乞食」という語は聞いた覚えがあるー、古い藝や藝人気質を身を以て知った最後の世代ではないか。たしか米朝師匠も「こんな話出来るのはもうあんたらだけや」とどこかで言ってはった気がする。

 総体に傍若無人な人柄だった。これは貶めるのでもひねって称揚するのでもない。感じたままを形容するならば、そういうことになる。歌江を媒に会う機会があった何人かの芸能人(藤岡琢也大空真弓茶川一郎その他)の記憶と比べてもそう思う。

 記したように近年はまるで交流がなかったから、「生涯現役」というネットの表現に拠るしかないわけだが、そうだとしたら傍若無人また闊達だった祖母にとっては幸せな晩年であった、ということである。

彼の『神学大全』~双魚書房通信(19) 鹿島茂『書評家人生』

 書評本を読むのは人生の一大悦楽だが、無論本に善し悪しはある。でも見分けるのは簡単。風呂場に持ち込む気になるかどうか。これはその気にならない方がいい書評本なのである。スマホでもメモ帳でもいいけど、どんどん読みたい本が出て来て情報を控えておくのに、バスタブくらい不便な場所はないから。

 我らが鹿島茂はどちらに属するか、実はこれがヤヤコシイことになっている。まあ聞いてくださいな。

 いそいそと机に向かい、当方の場合は書籍管理のアプリを立ち上げ、舌なめずりしながらー大抵はバーボンかシェリーをちびちびやりながらー、面白そうな本をチェック、豊饒な収穫に酔いしれる。

 さて、そこから数週間?場合によっては数日(幾月か後のことだってある)経つと、鹿島大人の名調子にどっぷりはまりたくなって、今度はぬるめに立てた湯にちょっといい入浴剤を奢り、「さて書見なと致そうか」とゆっくり頁を繰っていくのである。

 つまりヤヤコシイと言ったのは、理想の書評が持っているべき(往々にして背反しがちな)美質ふたつが鹿島本にはあるからだ。ひとつは読み手の食欲をそそる書物がどれだけ多く紹介されているか。勝率が大事なのである。競馬の予想屋じゃあるまいしとヒンシュクする向きもあるかもしれないが、まずもって書評家に求められるのはいい本を嗅ぎ分ける感覚の冴えである。味覚音痴の料理人はどうしたって大成するわけがない。そして本当にすぐれた料理人がふだん用いないような食材にも新たな味覚天国の可能性を探り当てるように、一級の書評家はジャンルを横断し、こちらがさなくば手に取ることを意識すらしないような本を次から次へと繰りだしてみせねばならぬ。鹿島大人はどんなけ足ながいねん!と感歎したくなる足捌きで書物の世界を優々と渉猟して回ってることは誰しも認めるところだろう。

 しかし、ここからは鯨馬子一箇の好みになるのだが、出来れば書評家にはなにかの背骨または参照枠ー丸谷才一の表現を借りるならホームベースーといったものがあらまほしい。例えば大書評家でもあった丸谷才一その人ならジョイス(つまりモダニズム)と新古今(つまり王朝和歌)。所謂専門の書評家は、関心の幅が広く足取りが軽いのはいいとして、どこか本を見る人間の「眼」が見えてこなくてスナック菓子を食べ終えたあとのような頼りなさが残ることも少なくない(シリル・コノリーのように藝一本で書き抜くならばそれとして見事だけど)。

 その点鹿島茂は言うまでもなく十九世紀フランスの押しも押されもせぬ大家。マンガを論じても日本古典を論じても、バルザックを読み抜いた識見が通奏低音として流れているから、自ずとそれとの対比分析が(無意識にせよ)なされて、結果彼の差し出す評価が普遍的な視点を備えるにいたる、ここが肝腎なのである。

 で、ふたつめの美質。少々誤解を生みそうな表現だが、文章に愛嬌がなければならない。ぬる湯に長々浸かりながら/ブランデーをなめながらじっくり付き合いたくなる、というのはそういうことである。といって、読者に媚態を体するような代物は絶対にダメなのであって、堂々と自分の鑑賞を語りつつ常に相手への説得(恫喝でも詭弁でもなく)という姿勢を忘れない、とはつまり文章に個性があってしかも風通しがよい、うん、これは名文ということですね。鹿島大人は書評というコスパ/タイパが最悪な仕事を、文筆稼業のほぼ始発から営々と続けてきたことについて、本書序文でマゾヒストだからとはにかんでみせているけれど、苦しさ・不機嫌・説教、そういった表情を一切見せずに書物という愉楽について語り続けたその構えは、評者には倫理的とさえうつる。これだけよく見えてしかも考えることが好きなひとが、この時代この世界にあってそうあり続けることにどれだけのエネルギーが必要だったか。

 おそらく鹿島茂の書評本を読み終えて一等感銘を受けるのは、彼の《アンガジュマン》のそうした晴朗さ自体であるに違いない。

 それにしても、これだけ書評の規律(本書でも十一プラス三原則が示される)を明晰に掲げた大書評家の本を書評するのはじつにむつかしい。だいたい一箇所も引用がない時点で、鹿島ルールの⑤に違反してるじゃないか。まあしかし、これは引用し始めると切りがないからと逃げておいて、でもルール③「書店で一度は手に取ってみることを勧める方向で書評する」に関しては「熱烈に勧める」と書き足した上で守れたことにしておきましょう。(青土社

 

 

 

 

軽薄さについて

 コロ助の騒動も傍目に見て過ごしたような感じだったが、やっぱり三年近く足枷つけられてたら習い性になるもんですな。最近すっかり家居が日常に(日本語おかしいか)なってしまった。

 無論この間に引越で眺望絶佳・交通絶望の地に移ってきた、ということはある。顧みればしかし、これまで住んだのは神戸市バスで言えば2系統・7系統とかくれもない「山際路線」沿線であって(今は11系統)、殊更不便になったわけではない。ま、トシのせいなんですがね、気分良く酔って帰ってるつもりでも、坂道ですっころんで前歯を欠いたりマンションの階段でずっこけて額を(とぶら提げていた一升瓶も)割ったり、なんだか我と我が身が厭になって引きこもってる気配なしとせず。

 これは精神衛生上甚だ以ていかがわしき事態である。どうせ肉体的には散々すっころんでずっこけてんだから、来年はひとつ持ち前の軽佻浮薄を存分にまき散らそう、と堅く誓う。すなわち夜遊びに励むべし。これが抱負であります。皆様もよいお年をお迎えください。

○岡本裕一朗『哲学100の基本』(東洋経済新報社
林望武田美穂リンボウ先生のなるほど古典はおもしろい!』(理論社
里中哲彦『ずばり池波正太郎』(文春文庫)……闊達。でも歴史学者の難癖やイデオロギー史観に対して池波正太郎を称揚する段は力み返っていて、ややミイラ取りがミイラになった感あり。惜しい。
吉川幸次郎『中国詩史』(高橋和巳編、ちくま学芸文庫)……諸処の論文をあつめて編んだ集なのに、大河流るるがごとく一貫した眼貫いており、まさしく「詩史」の趣。司馬相如・孔融阮籍といった(こちらにしてみれば)マイナー級の連中を丁寧に論じてくれているのも有難い。岩波文庫の『文選』、買わねば。
小玉祥子『艶やかに 尾上菊五郎聞き書き』(毎日新聞出版)……なんだこのさばさばし(すぎ)た語り口!東京ものの照れはあるんだろうけど。先々代の中村屋成駒屋といったうんとこゆい先輩達を見上げてきた世代だとこうなるのかな。
○渡辺佳延『知の歴史』(現代書館
○ロイ・W・ペレット『インド哲学入門』(加藤隆宏訳、ミネルヴァ書房
○田村美由紀『口述筆記する文学 書くことの代行とジェンダー』(名古屋大学出版会)……端正に切り回している。なくもがなのPC的遁辞はちと煩い。武田泰淳・百合子の章はやや苦笑気味に投げ出してる雰囲気があり、それがよろしい。
○アーノルド・ゼイブル『カフェ・シェヘラザード』(菅野賢治訳、共和国)
泉鏡花記念館・泉鏡花研究会『泉鏡花生誕一五〇年記念 鏡花の家』(平凡社)……大病と逗子寓居以前はあの潔癖症はなかったらしい。三島由紀夫の「蟹」と同じく作り上げられた、かくあらねばならぬという意味での、理念としての嗜好なのかもしれない。にしても、兎のコレクション、やっぱり可愛らしいな。
○宇江敏勝『炭焼日記 吉野熊野の山から』(新宿書房)……今流行りの「山の怪談」も、野生動物の生態すらほとんど出てこないが、じつに面白い。人間(じんかん)の交わりから遠ざかりひたすら山仕事に打ち込む(あとは焼酎を飲んで寝るだけ。仲間との交流もほとんどない)姿に惹きつけられるせいだろうか。沢山本を出しているようだからしばらく追いかけてみる。
○若野康玄『大阪アンダーワールド』(徳間書店)……伝説の暴走族ゴロシやダルヴィッシュの弟などの列伝。その筋の人の書く文章って、不思議と体臭がむうっとくるだけのものよりも、観念的な(貶下的な意味にあらず)見方・表現の方に変な面白さがある。続編、期待してます。
小泉武夫『幻の料亭・日本橋「百川」』(新潮社)
ジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』(鯨井久志訳、竹書房文庫)
松尾剛次『破戒と男色の仏教史』(平凡社ライブラリー
○ミチコ・カクタニ『エクス・リブリス』(橘明美訳、集英社)……当方は初見参の米国の高名な批評家、だがもひとつぴんとこない。毒舌で鳴らしたそうだが、それより啓蒙的な口ぶり、というかいかにももっともな「現代的位置づけ」に鼻白む。分量が少なくて、じっくり味わい存分に意見を展開するという批評文になってない?ピンチョンからは『メイスン&ディクスン』、コーマック・マッカーシーでは『ブラッド・メリディアン』など、趣味は合うはずなんだけどな。
富士川義之『きまぐれな読書―現代イギリス文学の魅力』(みすず書房)……こちらは隅から隅まで堪能。シリル・コノリーやピーター・クェネルといった贔屓筋周辺の話題が多いのも嬉しい。書評以外のエッセイも富士川さんらしくゆったりと品が良くて、しかもいっぱい本が買いたくなる(読書エッセイの質は大抵ここで判別できる)。Amazonでぽちぽち~おまけにもひとつぽちぽちっとな。
○戸矢学『熊楠の神』(方丈社)
○並木浩一・奥泉光旧約聖書がわかる本   <対話>でひもとくその世界』(河出新書)……今回の秀逸はこれ!超越神と対話性との逆説的結びつきや預言者の個性など、毎ページ付箋を貼りたくなるくらい面白い。それにしてもICUで聖書学を学んだとはいえ、奥泉さん、すごいなあ。専門家(奥泉さんの大学の先生)を相手にここまで語れるとは。
京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館
釈徹宗・高島幸次『大阪の神さん仏さん』(140B)
ウィリアム・トレヴァー『ディンマスの子供たち』(宮脇孝雄訳、国書刊行会)……贔屓役者となったトレヴァー。年末年始は暖冬らしいですから、この長篇で身の毛をよだてるというのも風流なのではないでしょうか。

 

 

Via Dolorosa

 いくら温暖化で遅くなってるとはいえ師走の紅葉狩りはぞっとしないから、今にも降り出しそうな曇天ながら家を出る。

 まずはご近所の禅昌寺。特に紅葉で名高いという訳ではないけど、ともかく人が少ない(というかいつ来ても誰もおらん)のが有難い。少し外れただけで深山幽谷の趣を味わえる板宿はケッタイな町である。

 次の須磨寺に向かう途中、ふとまだ参詣してないと気づいて板宿八幡の方へ。飛松の伝承なぞは上方にはいくらでもあるから格別に由緒あるお宮とは言えないだろうし、社域も取り立てていうほどの風情はない。でも、ホントに住宅街の真ん中をうねうね縫うように歩いて登る順路はなかなかよろしい。

 さて、板宿から須磨寺へは、途中大手町や離宮道など瀟洒な邸宅がならんでおり、歩いててたいへん気分が良い。もっともはたから見ればお屋敷をしげしげ眺める不審者なのでしょうが。むしろ須磨寺の横にある池(名前が分からない)の寂れ具合に気が滅入る。観光旅館などもあるから、かつては行楽の地として賑わったのだろう。たしか谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で須磨の月を見に行った(が周囲の灯りがまぶしすぎてちっとも風情がなかった)のはここだったのではないか。

 対照的に須磨寺はいつ来ても、エネルギッシュというか俗悪というか、森閑とした威厳はどこを探しても見つからず、でもまあ清濁併せのむ巨人・空海につながる寺としてはこうあらねばならないのかもしれぬ。今でも二十、二十一のお大師さまの縁日には市が開かれるそうな。こういう、のんびりした感じ、いいですね。

 などとひとりごちながら、鯖大師だの魚鳥供養塔だの(神戸の鮨組合建立)敦盛首塚だの八十八箇所の本尊群だのなにやらいかがわしい匂いのするところを舌なめずりしながら見て歩く。ここ、武田百合子さんが来て見て書いたら無類の散文になっただろうな。『遊覧日記』、浅草花やしきの件に就いて見るべし。

 須磨寺門前町の風情も佳い。今風の洒落たカフェ・雑貨やもちらほら出来ているけど、まだ鄙びてどこか猥雑な空気があってたいへんよろしい。惜しむらくは『志らはま』が臨時休業していたこと。あそこの穴子ずしで昼からぬる燗、と決め込んで浮き立っていたんだけどなあ。

 なんとなく悄然と歩いてますと、スーパーがあった。店頭の商品がかなり安かったので、ちょっくらのぞいて見るべいと中に入る。そこで見つけたのですねえ、「タイムサービス!! 大根一本108円」。今年はこれまた秋らしからぬ高温が続いて大根がなかなか安くならない。鍋の薬味に大根おろしをするくらいならそれでも買うけど、こちらは沢庵を漬けねばならぬのである。ようけ買わねばならんのである。298円か108円かは大きくひびくのである。

 というわけで売り場の大根の山をほとんど空にする勢いでカゴに放り込んでいく。レジのおねいさんは「だ、大丈夫ですか」と心配していた。あれは当方のアタマを気遣ったのではなく、持てるかどうかを訊いていたのだ、と思う。思いたい。

 月見山から高取山町まで(板宿からでも上り坂一直線でおよそ十八分)、都合十四本の大根がつまったレジ袋を両手に提げながらとぼとぼ歩むときの心中については聡明犀利な読者の皆様のご賢察にお任せします。ゴルゴダまで十字架を背負って歩んだイエスさまの気持ちがあれほど痛切に分かったと思えたことはありませんでした。


野々村一雄『学者商売』(中央公論社)……大笑いしながら頁を繰った。エピソードの中身もさりながら、ぼきぼきと音がするような口調がいい。
○土肥恒之『西洋史学の先駆者たち』(中公叢書)
井上章一編『性欲の研究』(平凡社
○今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書)……オノマトペを緒(いとぐち)に切り込んでいく発想がユニーク。誤謬による推論をしてしまうところに創造性を見いだすのも、はっ。とさせられる。
校條剛富士日記の人びと』(河出書房新社)……本自体の程度はもひとつだが、ノブさんや外川さんといった懐かしい名がぞろぞろ出て来て泣きそうになる。
○ウィリアム・シットウェル『図説 世界の外食文化とレストランの歴史』(矢沢聖子訳、原書房
○ヘルマン・ケステン『異国の神々(小松太郎訳、河出書房』
井上ひさし『まるまる徹夜で読み通す』(「井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション」、岩波書店)……「推薦文100選」がすごい。帯や内容見本に載せたもの、つまりほとんどが散逸するような資料を丹念に蒐めて編集。一ファンの仕事だそうな。
池波正太郎『人生の滋味』(幻戯書房)……海軍時代の体験について、他書では周縁的なエピソードしか語られていないが、この本の一篇で「いためつけられた」という表現が出てきている。それが印象深い。あと、吉行淳之介篠山紀信との鼎談を読んで、吉行・池波がまったくの同世代だと気づかされた。なんだか愉快。
○松村一男・平藤喜久子編著『新版 神のかたち図鑑 カラー版』(白水社
○松村一男・平藤喜久子・山田仁史編著『新版 神の文化史事典』(白水社
○ケイト・スティーヴンソン『中世ヨーロッパ「勇者」の日常生活 日々の冒険からドラゴンとの「戦い」まで』(大槻敦子訳、原書房)……わはは、わいこんなん好っきゃ。好きやけどしかし、文章がマズい。「才気煥発」を見せつけようとして、かえってがちゃがちゃとひとりよがりになってしまってるのが惜しまれる。
末木文美士『近世思想と仏教』(法蔵館)……いろんな角度から論じていて参考になったのだが、《思想》としての位置づけが本質的な評価と等価と言えるかどうか。風俗、いっそ生活の一部と成り切った点にこそ「近世」ならではの仏教の面白さという見方は出来ないだろうか。すなわち仏教民俗学
川口浩『熊沢蕃山』(ミネルヴァ評伝選、ミネルヴァ書房
磯崎新デミウルゴス』(青土社
○小坂井敏晶『神の亡霊』(東京大学出版会
○齋藤環『100分de名著 中井久夫スペシャル』(NHK出版)
荒木浩『京都古典文学めぐり』(岩波書店)……清少納言が賀茂の臨時祭(冬至前後)に熱狂するくだり、えんぶり(これは二月中旬)に心うばわれてる身にはげにもと頷かれる。
内田樹釈徹宗『日本宗教のクセ』(ミシマ社)
今野真二『江戸の知を読む』(河出書房新社
○エリー・ウィリアムズ『嘘つきのための辞書』(三辺律子訳、河出書房新社
○『星新一ショートショート1001』1(新潮社)……これも「中年からの」キャンペーン(?)のうち。星新一のオソロシサについては当ブログで何度か触れているが、『気まぐれ博物誌』を再読してこれはやっぱりショートショートを精読せねば、と思い立った。エッセイ、ショートショートを問わず、「気まぐれ」が頻繁に冠されるが、これは(ある種の「エッセイ」に見られるような)どうでもいいような感想、自堕落な(と評したくなる)思いつきではなく、たとえば十七・八世紀の英文学に見られるようなdigressionに等しいのでは、という予感がある。
姜尚中他『文化の爛熟と武人の台頭』(アジア人物史第4巻、集英社
○吉田元『酒』(ものと人間の文化史172、法政大学出版局
旅の文化研究所『落語にみる江戸の酒文化』(河出書房新社
○農口尚彦『魂の酒』(ポプラ社)……この三冊は神戸市中央図書館(三階)の「テーマ展示」から。時宜を得た企画もあり、誰がそんなん借りるねんとツッコミたくなる選択もあり、引っくるめて鯨馬はけっこう贔屓にしております。