序文について


 zoomで事前許諾も不要と知り、神戸大学国語国文学会のシンポジウムに参加してみた。『近世俗文芸の作者の〝姿勢〟[ポーズ]―序文を手掛かりとして』という。参加といっても、休みではなかったからデータ整理の作業を行いつつ議論を拝聴しただけ。この一文にしたって、ぼやっと繰り広げた連想を辿り返しただけのこと。なにか有用な議論を提起しようというわけではございません。あしからず。

 序文を手がかりに、というのが興味深い。現代の本、しかもフィクションで序文が付くことは滅多にないだろう。著者の遺稿に他者が成り立ちを説明する、というような例外的な形態くらいなものではないか。逆に大概序文を持つ本もある。学術書ですね。これに関して、

 本を読むときのひとつのコツ。序文は読むな。絶対つまらないから。
 
と助言したのは丸谷才一(『思考のレッスン』だったかな)。大読書家(そして大書評家)のアドヴァイスは有益なのですが(無論序文がつまらぬからといって書物自体の価値がはかれる・・・わけでもない)、不思議なのは同じ学者先生の書いた本でもあとがきは面白く読める場合が多いこと。序文の位置が晴れがましすぎる、喩えるなら書院付きの座敷であるのに対して、あとがきはやはり茶の間的にintimateな空間なのだろうか。世評高い『宮崎市定全集』の「自跋集」にしたって、宮﨑の豪宕闊達を以てしても序文として書かれたならあれだけ文章が生き生きしていただろうか。疑問に思う。

 えー話がずれましたが(そもそも本題はあるのか)、今普通の、というのは学問の専家でない読者が手に取る本の多くは序文を持たないことになる。

 ところが今回のシンポジウムが取り上げた近世(江戸時代)の本だと、序文有りなのがむしろ当り前である。中に序文、それも他人のがいくつもいくつも並んで、そのあとにまだ自分のが続いて(と書いたがいま手元で確かめようがない。間違ってたらごめんなさい)本文に辿り着くまでにへとへと、なんてものさえある。というのは筆の綾で、学者ならぬ人間は序文などまず読まないのだけど。

 このうち他序は元々唐山の伝統を踏襲したものだろうから措くとして、自序、殊に戯作の類いはさっき言った現代の有りようと対蹠的だから目を引く。現代と近世とは違うねやさかい違うててなんのけったいなことがある、と考えてはそれまでなので、たとえばもう一つ、西欧という軸を置いてみると話はだいぶんむつかしくなる。これまた丸谷才一が『世界批評大系』の解説として書いた「序文から批評へ」という文章で、マニーの言を引いて、自然主義以降の小説が序文を持たなくなった、というのは作者が序文を書かなくなったと指摘している。実際十八・十九世紀小説を読むと著者の長広舌がまず立ちはだかってたじろぐことが少なくない。私見では、小説の内容を要約したような長ったらしい副題(『パミラ』とか『ロビンソン・クルーソー』とかの表紙を見よ)も序文の一形態なのですが、ともあれ洋の東西を問わず、ある時期まで散文による虚構には序文が付いていた。

 丸谷がまず掲げるバルザックによる『人間喜劇』総序は、作者が堂々と登場して自作の動機を陳べ意義を宣揚する。馬琴の『八犬伝』なんかはさしづめこのタイプ。面白いのは、シンポジウムの報告でいくつか見られた、虚構としての《作者》が自序を記すという書き方。なんだか贈り物である本文を幾重にも幾重にもいろんな布地やら紐やらでいろんな包み方・結び方で包装して差し出されているみたいである。この場合包装は剥き捨てて構わない単なる飾りではないというところが肝腎。水引の掛け方や種類が内容そのものの格式を規定するが如し。つまるところ、本文はそれ自体で完結せず序文という枠でくくられてはじめて一乾坤を成すという世界観が根底にある、と見ることは出来ないだろうか。ある意味読者が属する《現実》から文芸の別天地へ招き入れる回転扉、プレテクストとして考えられるのではないか。思い出すのが『薔薇の名前』。中世美学の権威として有名なエーコは、十四世紀の修道院を舞台にした小説をものするにあたって作者の影を消すのに随分苦心したのではないか。

 そう見ると、最初に述べた、あとがき空間のいかにも自由な有りようが納得される。あそこは祭りが終わったあとの打ち上げで、ヴォルテージを上げる必要に迫られず、襟元や帯の崩れを気にすることもなく、いってみればオフ会のようなノリで本文について好きなようにダベることが出来るのである。疑う者は『グイン・サーガ』(ただし文庫版)のあとがきにおける狂騒ぶりを見よ。

 宣言通り、シンポジウムとは何ら関係のない空想となりました。

橋本治『人口島戦記 あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』(ホーム社)……連載を終えたあとも最後まで手を入れ続けていたという未完の大長篇小説。舞台となる架空都市・比良野市のおっそろしく詳密な地図(むろん作者自作)付き。登場人物の丁寧な一覧解説もあり。だからバルザック的にどっぷり「世界体験」・・・いやしかし、それよりもう二度と聞けないハシモト節を1400ページ(!)ぶん堪能するという使い方もありでしょう。橋本治は見えすぎるひとで、逆に小説となるとそれがずいぶん不器用というか荒っぽくなっちゃう傾きがあるから。『九十八歳になった私』(講談社)はその酔歩蹣跚ぶりが内容と絶妙に調和してよかったんだけど。
○エリアス・セレドン『コスタリカ伝説集』(山中和樹訳、国書刊行会
○ジュリアン・ジャクソン『シャルル・ドゴール伝』(北代美和子訳、白水社
○『川端茅舎全句集』(角川文庫)
○何敬堯『図説 台湾の妖怪伝説』(甄易言訳、原書房
地球の歩き方編集室『世界の中華料理図鑑』(地球の歩き方)……編者の名前をみてやや莫迦にしていたのですが(すいません!)、要領よく各地方の違いや名物などを紹介していて有益。手軽に調べがきくハンドブック。少なくともこれを片手にかの国を歩くより、そうした使い道が大きい、と思う。
○ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(合田正人訳、講談社
沓掛良彦大田南畝』(日本評伝選、ミネルヴァ書房)……ホメロスの『讃歌』やピエール・ルイスの訳者としての枯骨散人は尊敬してきたが、フォローする気力が失せてきた。沓掛先生、察するに、とうに《書きたいもの》《書かねばならないこと》が無くなってしまったのではないか。著者自身が面白いと思っていないような対象(本当に面白いかどうかはどうでもよい)について書かれた本、誰が読みたいと思うだろうか。南畝にしたって、文芸を遊びと心得ているからこその優雅と憂愁に惹かれたはずなのに、どうも「魂の叫び」的な文学観が鼻につく。それに従えば南畝の狂歌・狂詩はただただふざけちらしただけということになるのだ。
井上靖『歴史というもの』(中央公論新社
仲正昌樹『哲学JAM[白版]』(共和国)
ジョージ・オーウェル全体主義の誘惑』(照屋佳男訳、中央公論新社)……訳者の序文が愉快である。中国共産党やPCを批判してるのは大いに結構として、その口ぶり(レトリックというには芸が無い)がいかにもオーウェルが批難するところの反知性主義的な揚言に近づいている。
高田衛滝沢馬琴』(日本評伝選、ミネルヴァ書房)……前項で書いた、東洋文庫『羈旅漫録』に関連して。高田先生一流の力技(ワルクチに非ず)が、「家の業」としての戯作執筆という生き方を浮かび上がらせる。馬琴実はまともに読んでないんだよなあ。寝っ転がって読めるテキストが少なくてねえ。
パスカルキニャール『楽園のおもかげ』(パスカルキニャールコレクション 最後の王国4、水声社
川島昭夫『植物園の世紀 イギリス帝国の植物政策』(共和国)
○アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『初めて書籍を作った男 アルド・マヌーツィオの生涯』(清水由貴子訳、柏書房
○鈴木董編『帝国の崩壊 歴史上の超大国はなぜ滅びたのか』上下(山川出版社
○平山周吉『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社)……この著者には初見参。まさしく《グランドホテル》方式で、かの奇っ怪な人工国家にゆかりの人物たちを花やかに出し入れしてみせる。石原莞爾がもう少し天才肌ではなく(天才と言ってるのではない)、二枚腰で粘り強く国家の経営に取り組んでいたら、そして支那戦線を早く放棄していたら、と虚しい空想に一時ふけってしまった。
○シモン・マリン『隠れたがる自然 量子物理学と実在』(佐々木光俊訳、白楊社)
○クリストファー・デ・ハメル『中世の写本ができるまで』(加藤磨珠枝他訳、白水社
○『ホフマン小説集成』上下(石川道雄訳、国書刊行会)……『黄金寳壺』は岩波文庫のなかでも大事な一冊。この人の訳文がまとめて読めるのはまことに嬉しい。国書刊行会に敬礼っ。
津野海太郎『かれが最後に書いた本』(新潮社)……こういう飄逸ぶりならいいのだ。老年ならではの文章。
○英語教育研究会近畿大学ゾンビ研究所制作『極限状態から学ぶ!ゾンビ英単語   この英単語&英会話で生き残れ』(受験研究社)……ゾンビ関連の書籍をチェックしているなかで発見。非常によく考えられた構成で、単語集として秀逸なのでは。あ、ゾンビものならではの単語がちりばめられているので、単なるゾンビフリークも充分愉しめます。
鹿島茂『パンセ パスカル』(NHK「100de名著」ブックス、NHK出版)……『パンセ』を人生相談に仕立てるという鹿島茂にしか切り込めないパスカル案内。もちろん鹿島茂のことだから、下調べもしっかり。
○鈴木創士『もぐら草子 古今東西文学雑記』(現代思潮新社)……これが神戸新聞の連載だったのか。なかなか懐広いなあの地方紙。
ジーン・リース『あの人たちが本を焼いた日 ジーン・リース短篇集』(ブックスならんですわる、西崎憲訳、亜紀書房
○望月雅士『枢密院 近代日本の「奥の院」』(講談社現代新書)……枢密院=妖気濛濛と立ちこめる闇の組織というイメージがあった。ま、『エヴァ』のゼーレみたいに思ってたわけです。そのイメージが覆されることはなかったが、政党政治壊滅後は軍部に対する唯一の防波堤となりえたかもしれない、という指摘は昭和史を見直す上で有益。
○佃一輝『茶と日本人 二つの茶文化とこの国のかたち』(基礎から身につく大人の教養、世界文化社)……以下二冊は忘却散人ブログの記事によって知った。「国ぶり」のまねび、という視点からの体系的解読(と言いたい)が斬新。あれは洗練精緻を極めたごっこ遊びとも言えるのだな。
國學院大學日本文化研究所『歴史で読む国学』(ぺりかん社
○出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』(岩波新書
○カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(富永星訳、NHK出版)……じつにエレガント。もう少しこの著者の本、読んでみようと思う。

 

 

 

夏との和解

 あれだけ苦手だった暑さが多少許せるようになった。というより、冷房が堪える年齢になったのだ。あと一つ、高台の山際に引越したので、夏の盛りでも玄関と窓を開けていれば(雨さえ降っていなければ)、けっこうしのぎやすいという事情にもよる。えらく叙情的な題ですが、要は早くバルコニーにプール持ち出してひとりBBQしたいなあ、ということです。

 さて、生り月ということばはないけれど、そう言いたくなるくらい今回は豊作。

○鷲見洋一『編集者ディドロ 仲間と歩く『百科全書』の森』(平凡社)……895ページもあるが一度も難渋せずに読み了えた。自慢ではなくて、フランス十八世紀の事情に暗くても十二分に面白く読める快著です。『百科全書』に関する世界中の研究の蓄積が惜しげもなく披露されているのは、まあ学者なんだからふつうだとしても、綺麗に整理してしかも足取りがしっかりしている。文体は「です・ます」調だけど、充実しているから冗長に流れない。「ディドロの評伝ではない」と明言しているように、哲学者の一生を一本線で辿るのではなく、出版の経緯(報酬などカネ関係のデータがすごい)や『百科全書』の構成などの主題ごとに叙述されるから、『百科全書』を中心としたアンシャン・レジームの世界がまるごと差し出されるような按配。とりわけ感銘を受けたのは政府の出版統制システムについての説明。『百科全書』発禁⇒権力の不当な抑圧、と単純化出来ない様相が見えてきてじつに面白い。“宿敵”イエズス会の機関誌(?)が途中から沈黙を守ったのはなぜなのか?発禁にも関わらず予約がどんどん増えたのはなぜか?最近はディドロの翻訳や研究書も増えてきていて慶賀の至り。この勢いで『修道女たち』や『不謹慎な宝石』や『盲人書簡』などの新訳が出ることを切に望みます。
○武井和人『古典の本文はなぜ揺らぎうるのか』(新典社)……文献学の醍醐味が堪能できる一冊。志貴皇子の有名な歌がありますね、「岩ばしるたるみの上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも」。問題は「たるみ」で、伝本の中には「たるひ」となっているものがある。この違いが和歌の解釈にそう影響するのか、なぜ違いが生じるのか、また違うということ自体が何を意味するのかを熱く説き語る。実に一字の違いで250ページ!
○谷川多佳子『メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ』(講談社選書メチエ)……昔々デューラーの『メランコリアⅠ』になんと不思議な絵画かと驚いたことがある。イコノロジーなんて学問知らなかった頃ですからねえ。そりゃ意味不明だったろう。でも子どもながらに女天使(にしても筋肉すごくないか)の表情や、後景の星から放射状に伸びる光線になんともいえない悲壮な印象をもった。なんとなく「分かった」気になった。私事にわたりますが、ご幼少のみぎりから時折憂鬱の発作(それもかなり強烈なやつ)に襲われていた人間としては、このメランコリーというのがどうも気になって仕方がなかった。いや、芸術家気質や孤高を気取ってるのではなく自分でも病的な性分だなあと持て余していたのである。大学生になって(美術史専攻でもないのに)パノフスキー他の『土星とメランコリー 自然哲学、宗教、芸術の歴史における研究』(晶文社)を古本市で見つけたときは嬉しかった(高かった!)。ロバート・バートンの一大奇書『憂鬱の解剖』を面白がって読んだりしていたのも多分小さい頃のデューラー体験が尾を引いていたものとおぼしい。本の紹介から限りなく遠ざかっている按配だが、まあ、どうでもいいのです。本書は副題どおりに、古代から現代までメランコリーにまつわる言説・表象を丁寧にまとめてくれている。もう少し伝達度の高い日本語だと良かったんだけれどな。ともあれ、久々にメランコリー熱(とはなんぞや)再発の気味なので、《メランコリーの近代》《メランコリーという罪》(キリスト教七つの大罪のひとつ怠惰と結びつく)について文献渉猟してみましょう。恰好の銷夏の具となりそう。
○木越俊介校註『羇旅漫録』(平凡社東洋文庫)……銷夏の具といえば、風さわさわと吹き通る真夏の昼座敷に寝っ転がって(時々がくっと眠りに引きずり込まれたりもしながら)読むのにこれほどふさわしい一冊もそうそうない。大学の先輩が心血注いだ註釈を昼寝の友扱いするのは気が引けるけど(御恵投に添えた手紙に、こんなしんどい仕事はなかったとあった)、なにせ時代は江戸。ものするは戯作者曲亭馬琴。体裁は旅日記。とくればのんびり構えるより他に手はないというものである。まずは普通に旅日記として、というのは当時の各地の景物風俗が興味深く、次によく言えば克明、というよりは粘液質で万事「上から目線」の馬琴一流の上方の観察(つまりはワルクチ)が贅六たるこちらには面白く(江戸っ子ってほんま田舎くさいなあと思う)、さらに微密な註が「文学者の旅」の脳髄の拡がりというものをしたたかに味わわせてくれる。どの箇所にどの角度から、どういう文献を用いて註を付けるかをあれこれ考えて、久々に先輩と対話している気分になった。ふと思ったのだが、種村季弘大人存命なりせば、この本をさぞ面白がったことであろう。
○ピエール・カスー=ノゲス『ゲーデルの悪霊たち 論理学と狂気』(みすず書房)……クルト・ゲーデルイカれていたのは、数学界のエピソードとしてはかなり有名。その「狂気」の内実を、こちらとしては書き手のイカれ具合を疑うほど精細に検証していく。

 フィクションとしては新旧二冊。
○クラウディオ・マグリス『ミクロコスミ』(世界浪漫派、二宮大輔訳、共和国)
キアラン・カーソン琥珀捕り』(栩木伸明訳、東京創元社
 どちらも舐めてこそげるようにしてちびちび読み進めるのがふさわしい。

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 その他。
○リチャード・J・エヴァンズ『歴史学の擁護』(今関恒夫他訳、ちくま学芸文庫
○本丸諒『数学者図鑑』(かんき出版)
キャロル・エムシュウィラー『すべての終わりの始まり』(畔柳和代訳、国書刊行会
H.G.ウェルズ『盗まれた細菌 初めての飛行機』(南條竹則訳、光文社古典新訳文庫
○『完訳エリア随筆』正篇上下・続編上下(南條竹則訳・藤巻明註釈、国書刊行会
○鈴木創士『文楽徘徊』(現代思潮新社)
○栩木伸明編訳『世界文学の名作を「最短」で読む 日本語と英語で味わう50作』(筑摩選書)
○祝田保全『建築から世界史を読む方法』(KAWADE夢新書)
○藤澤房俊『フリードリヒ2世 シチリア王にして神聖ローマ皇帝』(平凡社
○沖田瑞穂『すごい神話 現代人のための神話学53講』(新潮選書)
○『泉屋博古館名品選99』(青幻舎)
○『悪魔を見た処女 吉良運平翻訳セレクション』(論創海外ミステリ)
スタニスワフ・レム『マゼラン雲』(スタニスワフ・レムコレクション8、後藤正子訳、国書刊行会
○『青森 1950ー1962 工藤正市写真集』(みすず書房
荒木浩『古典の中の地球儀 海外から見た日本文学』(人文知の復興4、NTT出版
○オフェル・フェルドマン『政治家のレトリック 言葉と表情が示す心理』(木下健訳、勁草書房
○ジェニファー・M・ソール『言葉はいかに人を欺くか 嘘、ミスリード、犬笛を読み解く』(小野純一訳、慶應義塾大学出版会)
○冨田昭次『船旅の文化誌』(青弓社
苅部直『日本思想史への道案内』(NTT出版
齋藤希史『漢文ノート 文学のありかを探る』(東京大学出版会
久世光彦『一九三四年冬―乱歩』(創元推理文庫
瀧本和成・深町博史『森志げ全作品集』(嵯峨野書院
○木村直司『詩人的科学者ゲーテの遺産』(南窓社)
○ピラール・キンタナ『雌犬』(村岡直子訳、国書刊行会
○志村真幸・渡辺洋子『絶滅したオオカミの物語 イギリス・アイルランド・日本』(三弥井書店) 

 

 

 

 

衰亡記

 トシとってだいぶアタマ悪くなったせいだろう、ここ一、二年で本を読む速度が著しく落ちた。久々の更新でこれだけしか高が上がらないことに慄然とする。また新書・選書の類が多いことにも我ながら辟易する。あれは「手っ取り早く情報を」という安手な感じがイヤ、だった。けれど「手っ取り早くカロリーを」という牛丼やの類がまあまあ食べられるようになってきているのと同じように、新書でも読んでコクのあるものが多くなってきているように思う。逆に単行本の味わいがしゃぶしゃぶしてきている。なら安い新書の方を買うわな。

橋本治『草薙の剣』(新潮社)
米澤穂信『米澤屋書店』(文藝春秋
○アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のパスカル「パンセ」入門』(広田昌義訳、白水社)……生涯・思想の簡明な素描。このシリーズ他にも出てるみたいだから、寝る前五分の読書用にしてみるか。
エドワード・ケアリー『堆塵館』(アイアマンガー三部作1、古屋美登里訳、東京創元社
エドワード・ケアリー『穢れの町』(アイアマンガー三部作2、古屋美登里訳、東京創元社)……著者によるイラストのせいという訳でもなく、シュヴァンクマイエルの世界を連想させる。つまりグロテスクにてインティメイト。そして続けて読むとしんどい。
○浅野楢英『論証のレトリック』(ちくま学芸文庫
ジャック・アタリ『時間の歴史』(蔵持不三也訳、ちくま学芸文庫
○ニコラス・マネー『酵母 文明を発酵させる菌の話』(田沢恭子訳、草思社
○『図説中世ヨーロッパの商人』(ふくろうの本、河出書房)
レオ・ペルッツ『テュルリュパン ある運命の話』(垂野創一郎訳、ちくま文庫)……近代説話と評したくなる。なんだかんだでペルッツ読んできてるなあ。プヒプヒ様、ありがとうございます。
○川北稔『イギリス近代史講義』(講談社現代新書
五来重『先祖供養と墓』(角川ソフィア文庫)……住吉踊や法隆寺救世観音像、また庶民層における念仏の捉え方と親鸞の境地との乖離(これはたしか司馬遼太郎も『街道をゆく』の芸備篇で語っていたはず)などなるほどという解釈がずらりと。ただし、民俗学の本にありがちなのだが、論証がせっかち(というか手抜き)で分かりづらい。五来重のような碩学だとその欠点は余計目立つ。あとは銘々で考えなさいということか。
○勝又基『親孝行の日本史』(中公新書
○和泉悠『悪い言語哲学入門』(ちくま新書)……「悪口」の言語哲学的探究。行き着くところ「下に見るランク付け」だからというのは、差別してるから差別語というトートロジーぽいが、途中のトピックはいい刺戟となる。
○『私のエッセイズム 古井由吉エッセイ選』(河出書房新社)……言葉で現実に相渉るいかがわしさと、でも他にどうしようもない切なさとをじつに執拗に考え続ける。これは編集の妙。
桐竹勘十郎・吉田玉女『文楽へようこそ』(小学館
岡野弘彦『伊勢の国魂を求めて旅した人々』(人間社)……あの絶唱「わが背子を大和に遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし」は伊勢の国魂に強く感応する霊力の持ち主が詠んだゆえに深みがすごい、という指摘にうなる。
○ジョウゼフ・コンラッド『放浪者 あるいは海賊ペロル』(山本薫訳、ルリユール叢書、幻戯書房)……コンラッドにこんなのあったのね!フランス革命=おまつり後のけだるい地中海風景と主人公の骨太な造型との取り合わせが、いい。ルリユール万歳!
ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』(倉方健作訳、ルリユール叢書、幻戯書房)……小説だけでなく、詩や詩論・批評にも目配りがいい(シリル・コナリーはよ出んかな)!ルリユール万歳!
森まゆみ『昭和・東京 食べある記』(朝日新聞出版)……この著者にして食べある記か・・・と思ったけど、きっちり自分史の骨格が通っていて品がある。店の風儀や料理を見るとやっぱり東京らしいなあと感じる。
赤羽正春『熊神伝説』(国書刊行会
エドワード・ブルック・ヒッチング『愛書狂の本棚』(高作自子訳、日経ナショナルジオグラフィック社)
○ディーノ・ブッツァーティー『動物奇譚集』(長野徹訳、東宣出版)
○Dancygier, Barbara他『「比喩」とは何か 認知言語学からのアプローチ』(野村益寛他訳、開拓社)
○リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(松本裕訳、河出書房新社)……1800年代初頭のアフリカでは、ヨーロッパの連中はまだ細々と沿岸貿易してるに過ぎなかった。奴隷を含むアフリカの交易システムに参入したにとどまっていた、という見方が新鮮。19世紀=帝国主義の世紀は、文字通り「帝国」、つまりグローバリゼーションをある意味達成していたともとれるな。
○小田部胤久『美学』(東京大学出版会)……カントの精緻な読解と、美学史上の位置づけ及び現代的なテーマへの接続とじつに有用な一冊。大学で一度講義に出たことがある。訳語へのこだわりが印象に残っているが、本書でもそれは見て取れるのが何となく嬉しい。

 

 

サバトからワルプルギスへ

 大好きな町に三泊四日なんて瞬きの間のようなもの。新店開拓は今度二週間くらい滞在するときに回して(それでも足りるかしら)、ひたすら馴染みの店で食べる。よってこの日の夜は楢館向かいの『鮨 瑞穂』。

 鯨頬肉(豪壮)や時知らずの粕漬け(しっとり)などで呑む。しかしやっぱりこの季節だとホヤである。もちろん新物を無論目の前で剥いてもらい、言うまでもなく酢もレモンも添えずに食べる。口の中に大海があるようで、ある意味鯨と堂々張り合うだけの強さがある。鮨は槍烏賊・海胆(面白いことを聞いた。当然八戸産なのだが、漁師によって、並べ方が全く違うのだそう。実際、二つを見せてもらうと素人玄人みたいに丁寧さの差が明らか)・まぐろ(鮨や食うとまぐろは旨いなあと思う)・小鰭・北寄貝(尤物)・のどぐろ・鰺・蒸し穴子・煮蛤。「二軒目三軒目といらっしゃるでしょうから」と若主人が控えめにしてくれた。

 その通り、当方やる気充分だったのですけど、実際には三軒目に到達出来ず。酔い潰れた訳ではない。みろく横丁の『おでん いし井』でいつも通りハイボールをがぶがぶやっていたところ、この日でめでたく二十才になるという女性があらわれ、なんだかわからないうちに誕生日パーティーが始まった。軽佻浮薄を絵に画いたような人間も一緒になってポンパドールなどを開けていると、三宮のクラブで呑んでんだか八戸の横丁なんだか・・・・・・。

 大暴れしてもいつも通り五時に起きてしまう。ホテルの朝食をゆーっくり食べながら昼飯に何を食おうかと思案。

*「ランチ」は何かと慌ただしい。
*八戸の勤め人の席を占拠するのも気が差す。
*浜の方は昨日行った。

 という条件で八食センター。週末だったが早い時間だったので混雑はない。まず市場をぐるぐる回って買う物と順番をおおまかに考える。これが大事で、座りのよくない平皿に汁気のモノを入れたのなんか持ち歩くと食べるころには悲惨な事態になっている。

 という風に、かなり使い勝手を体得してきた。以下、八戸の八食に初見参という方のために心覚えを記しておきます。

*七厘村は避ける……大人数ならいいかもしれない。なにせ鯖にしても鰈にしてもブツがでかいので大概は食い余す。貝をちょぴっと焼くだけに入るのは莫迦莫迦しい。肉を焼くなら他所でも出来る!
*外に席を取る……極寒の時期や大雨の日を除けば、風は気持ちいいし人通り少ないし、余程気分良く飲み食い出来ます。
*こまめに買い物する……外の席でも、貴重品さえ身につけておけば箸や皿はそのままで大丈夫。今回の鯨馬は「ひとりコース仕立て」で、アルコールの缶・瓶をひとつ空けながらひと品を平らげてはまた中に物色しにいくを繰り返していました。
*食材以外は百均などで買っておく……八食の向かいにもあります。ウェットティシューだとか爪楊枝だとか椀だとかは、魚介をせせるにはかなり役立ちます。無いと逆にブツを存分に愉しめない。
*刺身は意外と旨くない……こともないんだけど、盛り合わせとなるとどうしてもありきたりの種類になるし、生モノはお腹がはるのでひと品ごとに買ってもそうようけは食べられぬ。季節ごとに「今回はともかくこれっ」というのを狙っていくのがよろしい。
*空き缶は捨てずに置いておく……何度も何度も何度も何度も何度も何度も酒を買いに行く。周囲には缶ビール缶チューハイハイボールカップ酒の残骸が立ち並ぶ。こうすると時分どきでもあら不思議、自分の席周辺にはヒトが寄りつかないのですねえ。これは食べ物でも重要です。鯖の焼いたのや、帆立のフライはいけません。刺身もまだあまい。烏賊のシオカラとか、赤カブ漬とか、子持ちシャコとかをじっくりつつき回していると、これまたヒトは近づかないものであります。禿鷹も三舎を避ける勢いである。禿鷹は当方なのだが。

 イエズス会士の如く厳格無比の戒律に則りつつ・・・存分に呑み食らいしました。帰りのバス(日がさんさんと当たる)の眠いこと眠いこと。あと三時間もすれば中心街の飲み屋は始動する時刻である。銭湯に浸かって少しでも気合を入れ直しておかねばならぬ。

 『南部もぐり』はたまた陸奥湊の『いろは』はたまた『鬼門』はたまた『ぎんが』はたまた『点』、いやいっそ『SAUDE』か等と銭湯で散々煩悶していたのはすべて(楽しく)無駄になってしまった。夕景四時から開いていると分かってみろく横丁の某店に入ったのが(幸いにも)運の尽き。横のオッサンと盛り上がって、次に移動する頃には計画はどこへやら。弘前から来たという、美男美女(でおまけにやたらと酒が強い)カップルと津軽・南部の自慢合戦となり(鯨馬は南部掩護の外人傭兵部隊)、ハゲシク熱燗を干しておりましたが、まだまだこれで終わらない。我が八戸の師匠かつ案内人である写真家(その他いろいろ)のmamoさんからメールが入り、「三軒先で呑んでるのでいらっしゃい」。どーも、おこんつわ、じつにまあ結構なお日よりでと伺いますってえと、mamoさんの向こうに怪気炎を上げてる御仁あり。これなんmamoさんの同業にしてつい先日まで八戸美術館で一緒に展覧会をしていたフォトレツさん。なんだ神戸だと。洒落神戸だな。おいお洒落さん、さあ呑め呑め。五十前の目の充血したひげ面のオッサン掴まえてオシャレとはまた洒落が過ぎたり。これは洒落で答えねばお座が湿ると再びハイボールがぶがぶ。横の若者グループも参戦してわあわあ。

 オレ酒つええんだなあと実感しながら、店主(ここはみろくで初めての店)及び若者どもに丁重に挨拶してさらに次の店へ。mamo・レツ御両名の後援者の方々も交え、今度は幾分品良く、しかし賑やかに飲み直す。足下を風が吹き抜けるなか呷る燗酒がなんだかやたらと旨い。あ、コーベのニーサン!と声をかけて通ったのは昨晩の女の子か。酒徳必ず「しも」孤ならず。

 オレカラダ弱いねんとひとりごりながら、翌朝、仙台駅まえの立ち飲み屋の横で胃薬ぐいっと飲み干したのでした。

朝飯天国

 太平楽極楽とんぼが身上の本ブログ、旅日記もそろりそろりと参ります。御見物様にはお茶煙草鮨弁当などお使いになってゆるーっと御覧下さい。口上左様っ。

 初日Casa del Ciboの後はゆりの木通りの『酒BARつなぐ』へ。当方が愛読する八戸ブロガーさん達のことや、無論日本酒の話などを肴に呑む。鰺ヶ沢の尾崎酒造『安東水軍』が良かった。品評会金賞なのだが、熟成させて品格が出ている。山田錦吟醸香のあのタイプはもういいんではないかな。と個人的には思うけど、アテに合わせるんではなくこうしたバーで飲むならまだ需要はあるのかもしれない。

 浅酌で店を出たにも関わらず、平日のせいか中心街は人通り少なし。鯨馬もさっさと宿に戻って寝る。この柄にもない行儀の良さは朝飯のため。

 今回はなんと、六時半から漁港すぐ側の『だし拉麺きんざん』に足を向け(てしまっ)た。日本人の国民宗教と言いたくなるラーメン熱はいまだに理解出来ないのだが、八戸贔屓としては御当地の「朝ラー文化」を体験しておかねばなりますまい。

 青森のラーメンなれば、注文は無論かつおでもこんぶでもなく煮干し。無論淡麗ではなく濃厚(青森なのですから)。まずはスープをひと口。うっ、となる。マズい訳ではまったくない。いい味なのだと思うけど、たとえて言うなら、宝塚の舞台を初めて見たときの衝撃に近いのではないか。見たことないけど。

 ヴェジタリアンの文化人類学者がフィールドワークで狩猟のまつりに参加したような感慨を抱きながら店を出る。重ねて言いますが、この店の批判ではありません。店員さんは親切で感じが良かったし、ビールのアテに良かったし、それに鯨馬にしたって夜っぴて呑んだあとここに来たなら、もっと(「淡麗」の「こんぶ」をば)賞味できるはずである。「朝ラー」を含めた《朝飯の街》で売り出すのもひとつの手ではないか。なにせここは名だたる銭湯=朝風呂王国、それに何より陸奥湊朝市や館鼻岸壁朝市、『みなと食堂』といった資源をもってるのだから。

 と八戸の観光振興策について思案しつつ『みなと食堂』で平目漬丼をかっこむ。中年の酒飲みにはやはりこちらの方が有難い。いつも以上に混んでたから酒はよしてビール二本だけで出たけれど。

 とはいえ、(1)朝食としてべらぼうなカロリーである。(2)昼飯も美味しく食べたい。(3)することが無い。という状況に鑑み、陸奥湊駅で折良く発車する下り列車に飛び乗った。高校生ですし詰めという光景に一瞬呆然とする。平日の朝なのだと思うと、じわーっと多幸感に包まれる。酔ってはない・・・おそらく。

 オイフォリー乃至アルコールの勢いを駆って、種差海岸からともかくも歩いてみることにした。散歩のひともほとんど見かけない。観光客は言うに及ばず。時季が半端で花の咲き乱れる景色は見られなかったけど、澄んだ日差しに風そよそよ、タオルをしぼる湧き水は清冽。上按配と呟きながら芝生や松並木のなかをのんびり進む。

 難儀したのは白浜海水浴場から大須賀にかけての砂浜。波が一直線の浜を噛んで白く崩れる様の、どこまでも(二キロ弱?)続くのは実に爽快な眺めにしても、踏み固められていない砂地をスニーカーで歩むのはえらく力を要するもので、葦毛崎の展望台にたどり着くとともかく地面がしっかりしているのにまずはほっとする。これまで観光バスでちらっと見て過ぎるだけだったので、正面・左右に広がる太平洋を存分に愉しむ。ここの擁壁に胡座かいてビール呑んだら堪えられんだろうなあ。

 この先、車道の傍を歩きながら右手の岸壁を見下ろすと、何艘もの船が出てどうやら海女が潜っている様子。この季節なら狙いは海胆に決まっている。今晩俺が召し上がるべき海胆もああやって採られてるんだろうなあと何となく嬉しくなってくる。

 最後は蕪島ウミネコの繁殖時期にここに来るのは初めてか。付近の海岸から島の崖から参道から境内からともかく気が遠くなるほどのウミネコである。静かに歩いていくと、巣を守っている鳥も別段つついてきたりはしない。長く地元の人が大切に扱ってきたからに違いない。

 ここが最後というのは、鮫駅から陸奥湊駅まで行く途中で根負けしてバスに乗ってしまったのである。ドラクエウォークの歩数計でももうチーズハンバーグプレート(だったかしら)相当のカロリーは消費したことになっている。これで疚しさなしに昼酒が出来る。

 と、銭湯で朝を流して『鶴よし』へ。蕎麦のぬか漬けが無かったのを唯一の憾みとする。あとは焼き海苔・だし巻き・板わさ・山菜天ぷらを、はじめはビール、すぐに酒に切り替えてのんびり呑む。ここは蕎麦以外もホントに旨いなあ。それにしてもまたもやカロリー摂り過ぎで、夜までに腹を空かせねばならず、特に見物するところもない。また歩かねばなあ。(つづく)

北の河豚 果樹園の野菜

 十三日町でバスを降りると、ニュースで見たとおり三春屋にシャッターが降りていて、「長年のご愛顧」云々の貼り紙が。当方、長年ではないけれど、八戸に来るたびに買い物を愉しんでいた。まあ、鯖ずし・ジュノハート・糠塚胡瓜・南部味噌などいわゆるデパチカにしか用はなかったのだが(『らーめんふぁくとりー のすけ』にも用があったな)。おっとりした雰囲気がなつかしい。

 チーノという向かいの商業ビルの閉鎖・取り壊しも決まっている。三春屋も合わせて、この騒動がとどめを刺したのは確かにしても、八戸の町(中心街)を再生させてゆくか、という潜在的な課題が予想より幾分はやく露呈したわけだろう。

 うーむ、半年ぶりの八戸旅行でのっけからヒョーロンカ的に深刻ぶるのはいかがなものであろうか(ヒョーロンカ的口調)。当ブログとしてはなにはとなくとも御酒一献と参らねばならぬ。向かった先は鷹匠小路の『素材礼讃 丹念』。八戸ふぐのシーズンを迎え、いくつかの店で均一料金のコースを出していると知り、当日朝に予約していた。

 この時季にふぐというのがまず面妖。料理長田中さんの説明によれば、産卵のためにこの辺りまで北上するのがちょうど今頃に当たるとのこと。そういえば蘇東坡にも桃咲く頃が河豚の旬、てな詩があったな(滅茶滅茶な要約ですよ)。天然の虎河豚で二キロを超えるものが入るという。大きいけれど大味ではまったくないという。

 それだけの美味がなぜ最近まで八戸で根付かなかったのか。これまた田中さんの明快な説明では「そもそも東北にぽん酢文化が無かったからですね」とのこと。思えば四年前、青森の料理や『菜の花』ご主人から東北人は柑橘の酸味を苦手にしている、と伺ったことを思い出す。

 さて今回の「お手軽」コースの内容は、先付で海胆の茶碗蒸し。てっさ、てっちりと来て、唐揚げのあとに雑炊というもの。てっちり(無論小鍋立てであります)の身がたっぷりしていて旨い。昼酒(「八仙いさり火」「八仙裏男山」「亀吉」「南部美人」)の合いの手にまことによろしい。料理長が出してくれた蕨と海胆が酒に合うのはいうまでもない。

 河豚の鍋はぽん酢ではなく、極淡味の出汁仕立ての方が持ち味を活かせるのではないか、とふと思った。ぽん酢はなるほど微妙な香味をおおってしまうようである。

 むかし付き合ってたコに好物をたずねたら「ぽん酢。」と答えられたことを思い出す。そういや味オンチなやつではあったが、しかし可愛かった。

 一食めから酔ってしまったようですな。長者山新羅神社にこのままお詣りは無礼であろう、といつも通りニュー朝日湯で酒を抜く。ここの水風呂の絶妙なぬるさ加減を(皮肉に非ず)知るのは神戸で吾人ただ一人。

 他に誰もいない長者山でふたたび八戸に来られたことを長々と感謝申し上げ(まだ酔ってるのか)、町なかを少し歩く。ブックセンターで『津軽先輩の青森めじゃ飯!』第四巻(最終巻!)を探したら、無い。「当店では在庫が」との返答はいけませんよ。ここで置かずしてどうします。ひょっとしたら「津軽」の名前にアレルギー反応あるのかしら。八戸もほぼ一巻を尽くして紹介されてるんだから(店の絵でどこに取材したかすぐ分かるのだ)、いくら市が運営するっつってももっと商品の研究してくれなきゃねえ。
※結局『めじゃ飯!』は仙台の本屋で買い、帰りの飛行機で読んだ。

 夜の『Casa del Cibo』には八日町の停留所からバスに乗っていく。訪問四度ともなれば慣れたものである。暦は初夏とはいえまだ春残る東北の五月、今回の献立は以下の如し。

青森県産銀の鴨のレバームース パヴェ仕立て……パヴェ(パルフェ)仕立てとはつまり、チョコのあいだにふわりと掻き立てたレバームース。見た目は生チョコそっくりなのが楽しい。血の味はもとよりチョコに合うもの。チョコと泡(フランチャコルタ)は合う。故にこれは瀟洒かつ気合充溢の前菜となる。
◎八戸産ヒラメの椎茸〆と十和田ウルイのマリネ……ねっとりした平目とウルイの爽やかさとの対照を愉しむひと皿。そしてまた、鴨の肝臓&チョコとの対照を愉しむひと皿。
青森県産馬肉のタルターラ……柔媚な馬肉の食感が、ニンニクのぴしっときいたソースにまみれると、なんだかものすごく嗜虐的で堪らぬ。ワインがヴァルポリチェッラでこれまたコケティッシュだからなおのこと堪らぬ。
◎八戸産キンキとタラの芽フリット 木の芽のペスト トラパネーゼ……シチリアではアーモンド・ニンニク・バジルなどをすりつぶして作るソースの、バジルを木の芽に換えている。脂っこいようで清雅なようで、つまり瞬く間に平らげてしまった。ずるい手だなあ。
◎冷製サフランタリオリーニ 八戸産生ウニとフルーツトマト……一体に池見シェフの冷製パスタはよろしいのであるが、これは殊の外旨い。海胆の芳醇とサフランの気迫とががっぷり四つという趣。岩手産に比べると八戸の海胆は「甘みと香りが強くて断然上」とのこと。そうでしょうそうでしょう。そうでなくてもそうなのでしょう。うんうん。
◎トロッコリ 八戸産トゲ栗蟹のトマトソース……たださえ濃厚なトゲクリの旨味が極太パスタにしゅんでいるのです。外面はすこぶる端正に、でも内心では一口ごとに『たのしい給食』の甘利田幸男よろしくのけぞっていたのでした。
パッパルデッレ 奥津軽いのしし牧場さんの猪のラグー……あのタリオリーニとあのトロッコリのあとだとラグーが軽い味に思えるのは奇妙ではなくて理の当然なのです。
◎八戸産蝦夷鮑とタケノコのグラティナート……そう、ラグーでいったん舌を落ち着かせてたからこそ、鮑・筍(両者とも鮑肝をこってり塗っている)をしづかに賞味できるというもの。周囲の緑のソースはフクダチとかいうこちらの野菜を使っている。これが「春から夏やでっ」(関西弁ですが)という風味で、よい。
◎フランス産鴨と岩館リンゴ園さんアスパラのフリカッセア……「リンゴ園さんアスパラ」は誤記に非ず。広大な敷地の豊かな土ににょきにょき生えているのを採ってきたそうで、これぞ語義通りのアスペルジュ・ソヴァージュである。鴨のあぶらをまとったアスパラのジュースのなんと豊潤なことよ。
◎八戸産苺紅ほっぺのソルベット ライムのグラニ
◎ティラミス ノッチョーラ
 
 献立からわかるように、徹底して八戸(青森)の食材を使い抜いている。今回でまずは春夏秋冬一度ずつは訪問したことになるが、こういう店であるからは、八戸に来るたびに行かなくてはいけない、というのは義務ではなく、他に手はないものだという意味で、行かねばならぬ店なのである。

 

土地の精霊

 文楽四月公演第二部は『摂州合邦辻』。無論見せ場は合邦庵室なのだが、その前の万代池の段も良かった。「仏法最初」四天王寺という聖俗綯い交ぜの霊場の雰囲気、具体的には合邦の説法の猥雑さと零落の貴公子の嘆きとが一場のなかに自然と共存できる不可思議さがこの浄瑠璃にはどうしても必要なのだ(一時期あの辺りに住んでたことがあり、あの雰囲気は実感としてもよく分かる)。

 民衆の混沌たる信心も生の悲惨も何もかも受け止めてくれる場があればこそ、玉手御前の死も浄化されて見られるものとなる。だから、この段の最後が「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡をとゞめけり」と閻魔堂の縁起を説いて締めくくられるのは、説経節の常套を引くものとはいえ、じつに巧い。というよりこうでなくてはならない。

 吉田和生さんの玉手がまたうつくしいのなんのって。父親の怒声を聞いているときの少しねじれた首の角度やまばたきのリアルさは震えるくらい。勘壽さんの合邦女房も克明でよかった。清治さんの三味線も痛切で良かった。玉手の出のところがよかった(ちっとも分析的に記述できず恥ずかしい)。切の太夫さんは、こういう芸風なのかもしれないけど、台詞がさらさら流れすぎてなんだか朗読のように思えた箇所がちらほら。

 公演は堪能しましたが、劇場の運営は相変わらず官僚的で苛々する。警備員が偉そうで陰惨な感じで芝居を見る楽しみが帳消しである。技芸の質は言うまでもないとして、都会生活に華をそえるような存在でないと、ホントに博物館入りしてしまいますよ。

レーモン・クノー『聖グラングラン祭』(レーモン・クノーコレクション、渡辺一民訳、水声社
○M.R.ケアリー『パンドラの少女』(茂木健訳、東京創元社)……映画を先に見た。ヒロインの過去語りや同行者とのロマンスは通俗だが、やはり結末のひねりは面白かった。ゾンビ物でもこういう路線は少ないんちゃうかしら。
エドワード・ケアリー『おちび』(古屋美登里訳、東京創元社)……ドイツ生まれの「おちび」がかのマダム・タッソーとなるまで。フランス革命前の宮廷での王女との出会い、繁華にして野卑猥雑なるパリ、そして革命の狂騒とぐいぐい読ませる。ヒロインの、敵役との和解もお涙頂戴に陥っていない。『タブロー・ド・パリ』の著者の肖像が印象的。
○アニー・ディラード『本を書く』(柳沢由美子訳、田畑書店)……「書く」行為を具体的なトポスとの結びつきにおいて語る。
アイザイア・バーリンマキアヴェッリの独創性 他三篇』(川出佳枝訳、岩波文庫
田島正樹『文学部という冒険』(NTT出版
○ジョン・ランガン『フィッシャーマン 漁り人の伝説』(植草昌美訳、新紀元社)……クトゥルフ神話のスケールに近接する場面もありつつ、全体の語りのトーンがおっとりと古風なのがよろしい。『ペット・セメタリー』は誰しも連想するところだろうが、街(共同体)の崩壊とそこからの治癒/浄化過程という点で『呪われた町』にも通じる気がする。
○長谷部恭男『神と自然と憲法と』(勁草書房)……読書ノート。アウグスブルク和議で取り決められた宗派選択について、「どうでもいいこと」であるが故に寛容でないといけないという論理が紹介されていて、これが興味深い。「かのやうに」みたいなものか。
ジョルジョ・アガンベン『王国と楽園』(岡田温司訳、平凡社)……エデンの園の精神史。アウグスティヌスによる原罪の「捏造」を精細に衝く。地上の楽園にこそ人間の幸福があるというダンテ読解にあっと驚く。
○『ジンメル宗教論集』(深澤英隆訳、岩波文庫
西谷修『”ニューノーマル”な世界の哲学講義』(アルタープレス)
○R.A.ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』(井上央編訳、新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)……原・神話性を指向する作品が多くて梯子を外された感はあったが、これまたラファティじいさん一流のホラ噺と愉しめばよいのかもしれない。
○栩木伸明『ダブリンからダブリンへ』(みすず書房
佐々木マキ『ノー・シューズ』(亜紀書房)……文章ははじめてだが、マンガの線同様、もにょもにょ伸びていつの間にか世界が立ち上がる按配。つまり上手い。長田区出身とはしらなんだ。大倉山裏で同棲していたともしらなんだ。昔の長田の盛り場の描写に刺戟されて、次の本も読んだ。
加藤政洋『神戸の花街・盛り場考』(神戸新聞総合出版センター)
○谷川渥『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』(月曜社
○パラグ・カンナ『移動力と接続性 文明3.0の地政学』上下(尼丁千津子訳、原書房
○高井ゆと里『ハイデガー 世界内存在を生きる』(大澤真幸熊野純彦編「極限の思想」、講談社選書メチエ
○城戸淳『ニーチェ 道徳批判の哲学』(大澤真幸熊野純彦編「極限の思想」、講談社選書メチエ)……『道徳の系譜学』のまことに暢達明晰な読み解き。「ルサンチマン」とか「遠近法」とかの用語の教科書的解説ではなく、書物の立つスタンスや論理構成の細密な解析が読ませどころ。当方、電車通勤にかわって一年、「発車します」とか「到着します」とか「お気を付けください」とかのアナウンスにほとほとくたびれているのですが、あれは結局無いと文句をつける輩に対抗する手段なんでしょうな。まことにニーチェ的な状況である。ニーチェさんよ、キリスト教の伝統が皆目存在しない国でもあなたの洞察の当たれることかくの如し。
○轡田隆史『空腹のハムレット』(左右社)
○スティーヴンソン『カトリアナ』(佐復秀樹訳、平凡社ライブラリー
村上陽一郎『エリートと教養』(中公新書ラクレ
○岡部勉『プラトン『国家』を読み解く 人間・正義・哲学とは何か』(勁草書房
川合康三編『曹操曹丕曹植詩文選』(岩波文庫