川のある町

昼過ぎに起床。一点の非の打ち所のない宿酔い。
こういう時、どうするか。
嘆息ひとつ、そのまままた眠り込むのが普通だろうし、またそれが一番有効な方法なのだろうが、シャワーを浴びて、歩いて半時くらいの東山市場まで買い物に出かけることにする。
石川淳がどこかで書いていたとおりで、宿酔いはまさに昨日の持ち越し。精神の健全のためにも、宿酔いは「無いもの」と見なすのである。
家を出て山のほうを見ると楠の芽立ちが息を呑むほど美しい。晴れ渡った空の下、遠くからだと楠の葉叢がまるで獣の輝く背中かビロードのようで、《目による触覚》の喜びを存分に味わえる。 しばらく山を眺めた後、天王川に沿って歩き出す。
神戸に来る前から(大阪のニュータウン出身)、坂があり、川が流れ、神社や寺があり、歩いていける距離に市場がある、そんな街に住みたいと願っていた。新居はその条件をすべて満たした所にあり(他に住むとしたら金沢か)、だから川を眺めて歩くのは快楽には違いないが、 町を流れる川の通例で、河床は深く掘り下げられコンクリートでくまなく覆われている。神戸のような、山からの傾斜がそのまま海に落ち込む地形の上に造られた町で、治水の重要性は言うまでもない。一昨年の都賀川の痛ましい水難事故を繰り返してはならない。
それを重々承知した上で言うのだが、この護岸工事はかえって川を扼殺している気がしてならない。宿酔いのしょぼつく目にさえ、コンクリートの岸は醜怪に映る。
だから水面のきらめきをたどるのは断念し、目を閉じて水音に聴き入って、草木が茂り河原が広がる景色を妄想する。せせらぎに身を浸して半日でも過ごしていたら、宿酔いなどさらさらと流れていきそうだな。
 日差しを浴びて歩くとやはりかなり疲れるもので、家に戻って夕方まで居眠り。
東山市場では油目とうすい豌豆、蕨をもとめた。油目は煮付けに。この時は清酒淡口醤油だけで甘味は入れない。木の芽をたっぷり散らして。うすいは塩茹でにしておく。その上に鰹だしで炊いた鳥の挽き肉を葛引きにしたものを掛ける。すり生姜を添える。蕨は二杯酢で(切り胡麻、鰹節)。懲りずにそば焼酎のお湯割りで晩飯。
今日の「合いの手」は盛り沢山。四天王寺で開催中の古本まつりに行ってきたのである。その後は大学の後輩が店長をしている天神橋筋の天牛書店とそのお隣の矢野書房にも立ち寄る。
三十冊ほど買った中の主な収穫は小林信彦「地獄の観光船」、加藤周一堀田善衛「ヨーロッパ・二つの窓」、キュルノンスキー「文学と美食の想い出」、マルタン=フュジェ「優雅な生活」等。小林氏の「地獄」三部作がようやくそろえられた。エンターテイメントの採点付き百科事典である。