令和四年は全面中止となったのだから、数年来の習慣というには当たらない。当たらないがしかし、昨年のえんぶりがじつに愉しかったため(拙ブログ「岡目の一目~えんぶり復活(3)」参照)、仕事の都合で行けなくなったのには(予算も休みも組んでいたのに!)、ほとんど呆然とした。いくら身過ぎ世過ぎのためとはいえ余りに没義道な仕打ちではないか。
と歯噛みしかけて、いやいや長者山新羅神社の祭礼であるえんぶり、怨み言は神への非礼と思い返す。参上叶わぬならば遠く神戸で神を称え豊饒を祈ぎ奉るに如かず。すなわち、YouTubeで早速公開された動画を大音量で流しつつ、一人居間にて摺り、歌う。まるで「蘭陵王」における内田百閒のごとく、ほたえにほたえぬく。
ベッドに入っても、まぼろしのお囃子の音をふせぐために、寝入るまで耳を押さえつけていなくてはならなかった。
○佐藤美津男『浮浪児の栄光 戦後無宿』(辺境社)
○セバスティアン・アビス『小麦の地政学』(児玉しおり訳、原書房)
○渡辺哲夫『〈精神病〉の発明 クレペリンの光と闇』(講談社選書メチエ)
○田中聡『身の維新』(亜紀書房)
○鈴木聖子『掬われる声、語られる芸 小沢昭一と『ドキュメント日本の放浪芸』』(春秋社)
○徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』(講談社選書メチエ)
○ジョン・トロイヤー『人はいつ「死体」になるのか』(藤沢町子訳、原書房)
○マーシャル・ブレイン『人類滅亡の科学』(竹内秀春訳、日経ナショナルジオグラフィック社)
○ホルヘ・ルイス・ボルヘス『シェイクスピアの記憶』(内田兆史・鼓直訳、岩波文庫)
○竹友藻風『詩学と修辞学』
○樋口勝彦『ローマ風俗考』(日吉論叢2)
○岸本千佳『もし京都が東京だったらマップ』(イースト・プレス)
○越前敏弥『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
○井奥陽子『近代美学入門』(ちくま新書)
○G.K.チェスタトン『聖トマス・アクィナス』(生地竹郎訳、ちくま学芸文庫)
○最相葉月『中井久夫 人と仕事』(みすず書房)……この順で読んだのはたまたまながら、中井久夫が晩年にカトリックの洗礼を受けていたことを(これは別の特集雑誌で)知って、改めて慊ないものを覚えた(加藤周一についても同じ事を感じた)。なぜカトリックかと訊かれた中井先生は筆者に「ヒュブリス(傲り)があるから」と答えたそうである。そこに嘘は無いとしてもチェスタトンの言うとおり、トマスの思想が「ありとある存在が存在することへの賛歌」だとすれば(チェスタトンを読む限り、その通りであると思う)、死を意識した時期に悔悟のあげく入信というのは、どうにも軽佻浮薄であるように思う。中井先生のお仕事に対する敬慕が少しでも減じるというのではないが、やはりそう思う。