芭蕉追跡〜山中温泉独吟の旅(その一)〜

  今回は長いですよ。ご用とお急ぎのない方はどうぞ。

  目下連句に夢中になっていることは、このブログでも何度か書いたが、ついに芭蕉の跡をたずねて山中温泉まで行ってしまった。

  というのは半分だけ真実で、残り半分は以前から心惹かれていた宿に泊まりたかった、という理由である。宿の名前は『かよう亭』。ご存じの方も多いと思うが、高度経済成長からバブルへという時代にあって、客室わずか十室だけ、広告宣伝は一切しないというポリシーで粘り抜いた旅館である。こちらは『かよう亭の料理 もてなしは破調にあり』という本を読んで(柴田書店)、その素晴らしい料理に瞠目(というのも大げさだが、実感をことばにするとこうなる)させられていたから、芭蕉をダシに山中行きを決めたというわけ。

  もっともこう書いても真相はまだ半分なので、というのはこの宿を興行の場として巻かれた連句があり、その本を以前から面白がっていたという事情もある(大岡信丸谷才一井上ひさし・高橋治の『とくとく歌仙』)。食い意地とミーハー気分の綯い交ぜというのが実情に近い。

  午前中に加賀温泉に到着。そこから三十分ほどバスに乗って山中温泉へ。まず宿に荷物を預けて、鶴仙渓を散策する。『奥の細道』紀行中だった芭蕉もここを歩いている。そのとっぱずれにあるのが東山神社。祭神が惟喬親王と知って、参拝することにした。親王木地師の神として有名。最晩年の澁澤龍彦が関心を寄せていたのではないか。残雪の山道をよちよち登っていくと、山の上の神域には人っ子一人いない(社務所のようなものも見あたらない)。何より肝心の本殿前に当方の胸くらいまでの高さに雪が積もっている。ここまで来た以上意地でもお参りせねば。と意気込んで、かろうじて見える靴跡をたどるように雪の小山にかじりつく。結局雪がブーツの中に入り込んでびしょ濡れにはなったが、すこぶる感じの良い社だった。

   雪しろに木地師の神の隠れ坐(ま)す   碧村

  さて、鶴仙渓に戻って川沿いを歩く。谷川のちょろちょろ水を予想していたのだが、これは大外れ。翡翠色のぶあつい水の層が、ほとんど奔流というに近い迅さで流れている。そっか、雪解けの季節なのだ。実際に遊歩道(崖と川に挟まれている)のあちこちで、所によっては歩くのに難渋するほど、雪解け水が崖から瀧をなして川に流れ込んでいた。とにかく水が好き、という性分なので愉快な気分である。しぶきに光る苔がじつに美しい。ついでにいえば、この散策中もわずか一組の観光客としか出会わず。これもすこぶるよろしかった。

  こおろぎ橋まで行って、今度は上の道にあがる。ゆげ街道という、この観光用の通りに並ぶ土産物屋やカフェの類は、まあどこの温泉地でもあるようなものばかりだったが、この道には電柱が無い。歩いていて気がせいせいする。手近な店に入って蕎麦で昼食を済ませたあと(旨くも、不味くもなし)、街道の終点にある総湯・菊湯に入る。

  建物の周囲はいかにもそれらしく整備されているが、風呂の構えは銭湯そのもの。つまり町の住人が気軽に入りにくるという恰好。昼下がり時分の湯船には、そこらのジイサンやオッサンがのんびりと近所の噂ばなしをしながらつかっている。こちらもジイサンオッサンに混じって体を温める。翁(これは近所のジイサンではなく芭蕉のことです)も「山中や菊はたをらじ湯のにほひ」と詠んでいるが、この句は単なる土地への挨拶ではない、少なくともそれだけではないだろう。すごい湯量である。これは観光客とおぼしき大学生くらいのにいちゃんは、湯の熱さに「うっひゃー」と顔をしかめていた。

  風呂を出た宗匠は(当方のことです)菊湯の向かいにあるケーキ屋に入り、カシスのムースと珈琲を召し上がった。

  ここで長考。じつはこの旅では、独吟歌仙を巻くという心づもりがあった。その発句を考えていたわけである。先ほどの鶴仙渓の水を詠もうとするのだが、なかなか形にならない。珈琲をおかわりして粘ってもやはりまとまらない。うーんどうもヘボ筋にはまったようですな、と自己分析してあっさりあきらめ、宿に着いてもう一度想を練ることにする。

  烏の行水、どころかハチドリの水浴びのごとく風呂から飛び出ていった大学生をせせら笑いながら(こういうところがオッサンなんやね)ゆっくり浸かっていたせいで、ケーキ屋を出てぶらぶらしていても、軽く汗をかくほどであった。さ、そろそろ宿に向かいますか。

  『かよう亭』は看板の類を一切掲げていない。まことに閑雅な造り。回廊式の廊下(畳敷き)のあちこちには、なるほど古九谷の皿が飾られている。仲居さんに案内された部屋は、意外にも渓谷に面したしつらえ。予約の時はこちらでお願いしてなかったはずですが。たまたま部屋が空いていたので、せっかくのお泊まりですからご用意いたしました、とのこと。こりゃ嬉しい。何しろ、窓の外に広がる山、それに谷川全部がこの宿の地所なのである。眼福眼福。現金なもので、この景色を見るとすぐに発句が出た。

   残雪を馳走の庭や翁の湯

  『とくとく歌仙』を読んでここの名前を知った、というと気さくにも、歌仙を巻いた部屋をご覧に入れましょう、と言う。大広間(次の間には囲炉裏がしつらえてある)の片側の壁によせて、連衆が自句を書いた短冊を貼った屏風が広げている。句自体はむろん知っているものばかりだが、肉筆で見るとまた趣が違う。とくに、井上ひさしさんの有名な丸っこい筆跡は俳諧の滑稽によくうつる。眺めているうちにこちらの詩心も勃然とわき起こる。あとは少々のガソリンを入れるだけである。
                        (この項目つづく) 

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