卵をめぐる祖父の戦争をめぐる

  小説は消閑の具。身も蓋もない言い方をすれば、自分にとっての小説の位置付けは要するにそのようなことになる。

  しかしこれは小説を必ずしも低く見ているというわけではないので、いわゆる娯楽作品のみを好んで読んでいるわけではない。ヘンリー・ジェイムズであっても大西巨人であっても、立派に消閑の相手として愉しんで付き合ってもらっているという意味である。

  この相手が詩、または詩的散文(カフカやリヒテンベルクのアフォリズムとか、ベンヤミンのある種の文章とか)や、歴史や批評となると愉悦を味わうのは小説と事情は変わらないものの(でなければ誰が書物を手に取るだろう)、どこか入れあげてしまうきらいがある。小説だと、いってみれば別れたあとも「いい友人」という恰好で付き合いが続くところが、これらのジャンルだと、いつまでもひきずって傷痕(いうまでもなく積極的な意味も含む)が残る、そういう間柄だということである。

  詩的(または批評的)人間であることを言い立てたいのではなく、おそらく自分という人間が、およそ小説家的資質というものを欠いている証左にすぎないのだろう、と思っている。

  だから休みの日に「さあ読むぞ」といきり立っても、そのまま小説本に手が伸びることは少ない。ある程度カラダと気分がノってこないと小説世界に入りづらいのである。

  そういう性分ですから、この前の休みに読んだ本がほとんど小説、それも未読の作ばっかりだったのは、やはり四連休という時間に恵まれて、いわばコンディションがよかったせいなのだろう。

  結論からいえば、ジーン・ウルフ(『新しい太陽の書』五部作、『ケルベロス第五の首』、『デス博士の島その他の物語』)、R.A.ラファティ(『地球礁』)、ジョン・バンヴィル(『バーチウッド』)、ゾラ(『ボヌールダム百貨店』)てな組み合わせは非常にカラダに悪い。どれもおそろしく目の詰んだ小説で―といっても文体、構成など、denseな部分は作によって違う―、たとえていえばカロリーメイトを次から次へ口一杯に頬張っている感じだった。

  このうちウルフとラファティは、当ブログで前に触れた若島正さんの『乱視読者のSF講義』に刺戟されたもの。今頃ウルフやラファティ読んでるくらいだから、こちらのSF読書量など無論雀の涙にもならない。ウルフの『新しい太陽の書』については項を改めて書きたい。

  さすがにぐったりしたので、色んな意味で読みやすそうだと直観した小説で《クールダウン》する。旧作ではグレアム・スウィフト『ウォーターランド』(買ったばかりで書棚に放り込んでいた)、比較的新しいところではデイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』。前者の、白痴の兄が水に飛び込むラストシーンは水泳に打ち込んでいるせいか(冗談です)、いまだに忘れがたい。

  しかしここで少し語りたいのは『卵をめぐる祖父の戦争』のほうである。このベニオフの冒険小説は、世評に違わず素晴らしいものだった。コーリャという、主人公と行動を共にするソヴィエトの脱走兵の人物像がじつに魅力的である。

  どんな苦境にあってもへらず口をたたくのをやめない(やめられない)所などは、主人公の少年と綺麗に陰画・陽画の一対を形作っている。つまりユダヤ系でありかついかにもユダヤ系らしく自意識過剰な少年に対するに、女たらしで楽天的(本当に?)でしかも腕っぷしのつよいコサック人。両者はしかし、戦争にある角度・ある距離をもって対しているという意味では双生児のようにも見える。


  もちろん逮捕、監禁、カニバリズム、売春、拷問、処刑、そして延々とつづく餓えに寒さ(冬将軍!)…と悲惨な場面に二人は次々出会うわけだけれど、それにも関わらず戦争という愚行に対する熱狂を(そして付け加えれば、反戦という形での熱狂も)一片も持ち合わせていないという意味で二人は奇妙に似ているのだ。動かしがたい状況を前に、即物的に反応する(しかしそれは決して虚無的でも無感動なのでもない)その精神の《構え》は、リアルと呼ぶべきなのだろうか。もちろん戦争体験のないこちらがいうのだから、外的状況をどこまで正確に捉えているのか、という意味ではない。やがて主人公と結ばれることになるパルチザンの女性がこのコンビを指して「ホモみたい」と評するのはだから、じつに正確な批評なのである。  

   **おまけ ジャンルを超えたわがベスト10小説**
  小説マニアでは決してない自分にとっては、ではどんな小説が肌に合うのか、ちょっと確認したくなったまでのことです。小林信彦さんのいうとおり、ベスト○○という試みは下品には違いないが、プロの文筆業者ではないから何をどう書こうと影響はないだろうし。

ロレンス・ダレルアレクサンドリア四重奏』=バージェスやスタイナーが非難するそのいかがわしさが蠱惑的。いやこれは同語反復か。
マルグリット・ユルスナールハドリアヌス帝の回想』=一人称で古代が描けるとは。多田智満子さんの訳文でなかったらここまでのめりこめたかどうか。
スタンダールパルムの僧院』=ぼくの趣味などどうでもいいようなものだが、一作というならこれ。筋・文章・人物どれも間然するところがない。『赤と黒』は採らない。
マルセル・プルースト失われた時を求めて』=ただし『スワン家のほうへ』『ソドムとゴモラ』『ゲルマントのほう』『見いだされた時』だけでよい。つまり主人公の、アルベルチーヌをめぐる嫉妬の諸相はどうでもよい。
イーヴリン・ウォー『黒いいたづら』=訳者である吉田健一が解説に記した「みやび」という一言がようやく分かってきた。
グレアム・グリーンヒューマン・ファクター』=これも小林信彦さんの評言を借りれば、エンターテインメントにして文学。
石川淳『至福千年』=「肉付きの面」となった《江戸》を通して、『狂風記』よりも濃厚に作者の魂の色調がうかがえる、と思う。
泉鏡花『山海評判記』=読み直すたびに新しいディテールを発見する。
吉行淳之介『暗室』=こちらは読み直すたびに新しい認識を得る。
※いわゆる古典文学と短篇はのぞく。
  …あれ一作余っちゃった。澁澤龍彦エーコボルヘスカルヴィーノヴォネガット中里介山も、あと一歩落ち着かないんだよな。

  お粗末さまで。

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