鸚鵡の叫び

 大好物である割には、蝦蛄の旬がいつなのかはっきり意識したことがない。春のような気もするし、秋のようでもあるし。

 スーパーでそれほど大きくはないが、パック一杯に入ったのが298円。旬かどうかはわからないが、ま、安いには違いない。今夜はこれで一杯呑むべし、と3パック(!)も買ってきた。

 酒と醤油と生姜で煮付けようかしら、とも思ったけれど、どうせ夜は飯を食うわけでもないしな、と思い直して曲もなく塩茹でにする。でっかい目玉を虹色に輝かせて、いったい何対あるやらわからない脚をもしゃもしゃさせているのをみると、とても食欲が湧かない・・・なんて思うはずはないのが、大好物たるゆえんであります。うっしっしと凶悪な笑みをもらしつつ、煮えたぎった塩湯のなかに古代の妖魔のごとき蝦蛄どもを次々と落としていく。

 ここまではなにほどの手間もとらないのですが、茹で上がってからが厄介。ハサミでアタマと尾を切り落とし、左右も落としてから、蟹用のスプーンで薄い身を剥ぎとっていく。胴体だけだとせいぜい中指ほどの大きさしかないので、何十尾もこの作業を繰り返しているとほとほと眼がつかれ、肩が凝り、指先は棘にさされてうずく。

 伊勢エビほどある蝦蛄がいたらなあ、とため息をつき、そういえば「最近は蝦蛄の大きなヤツは滅多に入りません」と鮨屋の大将が言ってたな、と思い出ししているうちに、塵も積もればなんとやらで、いつのまにか皿には小高く蝦蛄の身の山が出来つつある。

 半分は山葵醤油、半分は生姜酢で食べる。極細の朱筆で引いた程度ながら、卵巣(たしか俗称はカツブシ)が入ってて濃厚かつぐしゃぐしゃの身に対して、木の実のようなぽくぽくした触感とあぶらっぽい旨味で興を添える。ウマイ!

 あとのアテはずいきの胡麻酢あえと、牛三角バラのスジ、というよく分からぬ名称の部位(安くて味が深い)の味噌煮、つまり土手焼き。酒は『春鹿』。

 本の相手には・・・

池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』=正真正銘の天才語学者(というより、言語学者って、けっして秀才ではなく天才、人格円満な社交人より、ヘンクツな畸人が多いような気がする)の評伝。関口が体系化しようとした言語の「意味形態論」なるもの、正体がつかめないながら、完成していたらさぞかし特異な偉容をほこっていただろう、と思われる。こうした埋もれた人々を語る著者の筆はあいかわらず瀟洒
*加藤郁乎『俳人荷風』=晩酌向きの本。つくづく荷風は小説家としては二流半、詩人としては二流、そして批評家としては一流半、で、文学者としては一流のヒトだったと感じる。加藤郁乎の文体も佳い。佳かった(合掌)。
増尾弘美『プルースト 世紀末を越えて』=すぐに投げ出す。かいなでの知識の羅列。文章の質も低い。ウィキペディアもある今時、こういう「研究書」は大学生でも書けるのではないか。まったくひどい本である。

 で、晩酌のあと、片付けを終えてから取りかかったのが、

*『宝島』。そうあのスティーヴンソンの名作です。片足の海賊とか、フリント船長という名の鸚鵡とかが出てくるという記憶はあるが、どうやって主人公が冒険に引き込まれていったのか、とか結局海賊の財宝は無事手に入ったのかどうか、など物語の肝腎なところははなはだ曖昧なまま。今、個人的に《名のみことごとしうして、実はあんまり覚えていない近代小説揺籃期の名作読み直し》(長い)という企画(?)を続けていて、前回読んだのがたまたま『ロビンソン・クルーソー』(この作品についてもあらためて語りたい)だったため、「孤島」つながりで『宝島』の名が脳裡に浮かんできた、というわけ。
 で、古めかしい調子の訳文(とくに海賊の話ことば。なんだか落語に出てくる在方の親父みたいなんだなあ)に悩まされつつも實に愉快に読めました。やっぱりジョン・シルヴァーの狡猾・傲岸・大胆・快活な個性が圧倒的な魅力を放っている。加えて、流暢な語りと、テンポ良い話の展開。18世紀だな、という感じがする。つまりヴォルテールのコントのような味わい。


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