沈黙の絵

 たとえば「彼の寓意画の最高傑作」(とキャプションにはある)《運命の車輪》を取り上げてもいい。

 人の背丈ほどの高さの縦長のキャンバスいっぱいに描かれた運命の輪の左にたたずむ運命の女神は左手を軽く車輪の輻に添えたまま、左に向けた顔も軽く俯けて、そして眼は閉じられている。車輪に括り付けられた三人の人物(上から順に奴隷・王・詩人)の視線をたどると、奴隷は左下に苦悶にゆがめた顔をねじまげ、その奴隷の右足に踏まえられた王は血管を浮かせた首筋を左上にのばしている。画面の一番下、肩先までしか描かれていない詩人は女神のくるぶしに惹かれたかのように、右に首を振り向けている。四つの視線のうち一つは閉ざされ、三つは銘々に異なる方向をさまようのみ。

 兵庫県立美術館のバーン=ジョーンズ展覧会場はじつに静かだった。観客の私語がふだんより低く抑えられ、そしてそれ以上に各々の画面が放射する沈黙の霊気が空間の音を優しくとがめるように吸い取ってしまったような按配。入ったことはないが、無音室というのはこういう感じなのではないかと思った。

 彼の絵の人物は誰も互いの視線を受け止め、まさぐろうとはしない。レンブラントやベラスケスのような視線の対決が構成するドラマはきびしく排除されている。レンブラントといえば、彼の自画像を見た人ならば、必ずそのまなざしにとらえられて、ついその底知れぬ淵を探りたくなった経験を持っていると思うが、バーン=ジョーンズの絵にはそういう呼びかけが無い。

 《牧神の庭》という油彩では、右端の崖に坐ったパーンがこころもち躰を左にひねって、顔は正面に向けているものの、その視線は語らない。人間的なことばを持たない自然それ自体の凝視というものがあればそうであるかのように、それは蠱惑的でもあり、また同じ程度不気味でもある。

 口ほどに、口以上に物を言う眼にしてすでに然り。どの人物の口許を見ても、そこに発せられることばの響きは感じられない。ギリシャ語の「プネウマ」(生命の気)は元来「いぶき(気息)」の意だった。彼/彼女たちの口は呼気をもらさない。ペルセウスメデューサ退治を描いた大作にさえ、妹の死に猛り立つゴルゴンたちの翼は風を起こさない。画家が終生慈しんだ主題にクピドとプシュケー(眠るクピドの顔をプシュケーがのぞきみる)や、物言わぬ大理石の彫像相手に煩悶するピグマリオンや、眠り姫といった物語が含まれるのは当然すぎる話だ。

 そして色。世紀末芸術をおおった象徴主義に、画家の精神も深く浸されていたから、モーヴや銀灰色、枯草や蜂蜜の色、褪めた紅が基調となるのは自然なことである。

 絵の世界は完成している。しかしそれは充足という形をとらず、永久に不充足であることにおいて完結している。だからこそそれは見る者に、もどかしい想いを、一歩進めて言えば何かに対する憧憬を、さらに探っていくなら、エロスとしか一語では形容の仕様がない感覚=精神のあり方にたどりつく。その消息については、拙い表現を連ねるよりも杉本秀太郎氏が『ペレアスとメリザンド』(いうまでもなく代表的な世紀末の文芸)をめぐって記した、見事なパッセージを引いておきたい。


  ペレアスとメリザンドは、作者によって破れることから慎重に守られたその夢のなかで、まさに同じ作者が詩集『温室』で歌いつつあばき出した温室内の植物のように、可能な限りの接近をこころみる。かれらがついに合一をとげ得ないのは、充足が夢の本性に悖るからである。そしてラファエル前派の画面がしばしば示すことがあるように、ついに合一をとげ得ぬ星のもとに生まれている愛人たちは、互いに相手の夢のうちで思うさま繁殖をとげる。だが、夢の被膜は最後まで破られない。そして被膜の内側には、ペレアス、メリザンドという植物的な両性具有の存在を個別に潤すに足る水が、いつでも充分にととのえられている。水のおかげで、かれらがどれほど勢いづいて枝を伸ばし、茎の先で突き上げても、夢のこの温室のガラスは破りきれない。


 すなわち知る、不能と不毛にもっとも奥深いエロスの秘密が隠されていることを。《フラマ・ウェスタリス》というエッチングはぜひご覧になっていただきたい。

 一見すれば装飾的で甘口な画面が、人をどこまでも夢想に誘い込む淫靡さを秘めている。絵画の《毒》はおそるるに足る。

 美術館から出ると、深海から浮上したような気がして、大きくあくびをした後、倦怠の毒気を払うために、一路モツ焼きの立ち飲み屋へと向かったことでありました。

※ランキングに参加しています。下記バナーのクリックをよろしくお願いします!
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村