最後の授業

 次のブログ記事のタイトルは「最後の授業」でしょう、とある人に言われた。癪に障るが、他にいいものも思いつかないので、これで行きます。

 指導教官ではないが、長くお世話になった先生が大学を定年で退官されるのである。土曜日に最終講義があった。講義題目は「明治文学の可能性」。

 いやあ面白かった。面白い理由は、まずはむろん講義自体の内容にある。はじめは単なる書誌情報の追跡(といってもここでの博捜ぶりも興味深いものだった)と思えなかったものが、段々と文学史の書き換えへとつながっていく、その構えの大きさと、「小説」の力に対する信頼の深さとが、びんびんとこちらに伝わってきて感動したのである。

 またそれと同程度に、「教わる」ということの有難さも実感させられた二時間でもあった。この年になって、自分が心から尊敬できる人間に物を教えられる機会などめったにない。ちょっぴり後輩の院生たちが羨ましく思える。自分が同じ立場だったときにはずいぶん暢気にかまえていたものだが。

 それにしても、学問も結局のところ人柄に行き着くんだなあ。学問の積み重ねがその人柄を生むのか、始めにある人間的核が学問を大成させる駆動力となるのかは分からない。荘子が蝶を夢見たのか蝶が荘子を夢見たのか、みたいな話。

 逆もまた真なり、とも言える。

 講義後のパーティーでは、ほんとうに懐かしい人達(なかには一〇年ぶりという方もいる)と会えた。やはり一時期を学問と文学への夢を持って過ごした経験を共有した人間ばかりだから、数年や十年ていどの間隙など、一言話をするだけでふっとんでしまう。

 充実した一日だった。あまりの楽しさに、朝まで呑んでしまった(もっともみなさんは終電前にお帰り)。

 翌日は、パーティーではほとんど食べていなかったせいもあって、朝から猛烈な空腹。菜の花がむやみに食べたい。で、市場に買い出しに出かけ、のんびり料理を作って、本を読みながらゆっくりと食事をした。延々五時間(!)も食べてた(アルコールを含む)のでこの日は一食のみ。献立を以下に記す。


*蒸し寿司:具は菜の花(さっと塩茹でして、細かく刻む)・ちりめんじゃこ(上乾)・切り胡麻(白でも黒でも金色でも)・炒り卵(酒・塩・味醂で薄めに味付け)・干し椎茸(戻して酒・砂糖・醤油で煮含めたものを常備している)。

*椀盛(吸い物にしては具が盛りだくさんなので):鮑(大根で突いたあと、ふっくら蒸し上げて切符ほどの大きさにへいだもの)・卵豆腐(これは出来合い)・生椎茸・三度豆・三つ葉。吸い地には薄く葛を引いて、食べしなに露生姜を二三滴おとす。

*韮とわかめとあさり(酒蒸しのあと剥き身にしたもの)の辛子酢味噌和え:浅蜊の蒸し汁も入れます。

*牡蠣の磯辺揚げ:天ぷらの衣に少しだけマヨネーズを入れる。

*水菜漬け物:これは当日では間に合わない。塩で下漬けしてから、昆布・鷹の爪を加えて3〜4日押しをかける。この時期だとベランダに出しておくと発酵の進み具合がちょうどよくなる。

*鶏手羽元と蓮根のトマト煮込み:これも作り置き。蓮根は鴨の脂で焼いてカボスの汁で喰うのがいちばん旨いが(Ó嵐山光三郎)、バタ臭い調理法もよく合います。

*大根とこんにゃくのおでん:作り置き。鰹・昆布・鶏ガラで濃く引いた出汁で、煮込むのではなく、沸騰間際まで加熱しては、すぐに火を止め、漬け込むようにする(冷める時に味が入るのだそうな)。塩・醤油は加えない。その代わり食べる時に、八丁味噌を酒・味醂・醤油で練り上げたものをぽつんと上にたらす。関東煮と田楽の中間みたいな感じ。


《読んだ本》※この日一日だけでなく、ここ最近、ということ。

*フロリアン・ヴェルナー『牛の文化史』:富山太佳夫さんが推していたが(信頼するに足る数少ない書評家)、これはやや薄味。
*渡部泰明『和歌とは何か』:えー今ごろ詠んでんのーと言われそうだが、今頃読んだのじゃ。レトリックは元来対人関係を意識することにおいて発達した言語形態だから、著者が強調する「演技」概念の重要さは、充分に説得的。
末木文美士『哲学の現場 日本で考えるということ』:前半では(おそらく梅原猛あたりを念頭に置いた)安易な西洋・東洋の対立図式を批判していながら、後半では明らかに粗大な図式的説明に陥っている。『日本仏教史』や『仏教vs倫理』は楽しめた著者だけに残念。
*ジャン・ピエール・ヴェルナン『ギリシア人の神話と思想』:「歴史心理学的研究」という副題で少し警戒感を抱いていたのだが、これは面白かった。心理学というより思考形式の歴史的考察だな。特に第五章「「分身」からイメージへ」が示唆的。すぐにこういう叙述は日本文化・日本思想史に「応用」(「適用」に非ず)出来ないかと考えてしまう。安易かしら。
橋本治小林秀雄の恵み』:センター試験以来、やっぱりなんとなく小林秀雄のことが気になっていたので手に取ったら、面白くてやめられなくなった。「和歌を詠む人」としての宣長という面を無視したために、「教祖」の『本居宣』は破綻してしまった、という説明は、おそらく正解であろう。橋本治、すごい人だなあ。もっとも小林信彦さんはつとに橋本治は天才だと書いていたが。

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