菊黄蟹肥

 『雨月』の上田秋成は多くの別号がある(江戸の作者はみなそうなのだけど)。余斎・鶉居・無腸・和訳太郎・剪枝畸人など。このうち無腸という号は特に愛着が深かったと見えて、追謚(おくり名)は「三余斎無腸居士」。

 「無腸(無腸公子)」とは蟹のこと。晩年の傑作エッセー『胆大小心録』異本には「蟹石翁ナル者有リ。形醜ナル已(のみ)ナラズ、心モマタ醜ナリ。横行ヲ以テ直ト爲シ、眼ハ高ク腹ハ大ナリト雖モ、性ハ躁ニシテ」云々と、世の中を横さまに見る性を自ら戯れて蟹になぞらえている一文がある。『胆大小心録』の別の条では、五歳の時天然痘に罹り、右の中指と左の人差し指が短くなってしまったとも書いていて、それも蟹の鋏を連想させる一因だったには違いない。

 違いないのだが、この人、大坂は堂島の産である。自ら「気概任侠他郷にこへたり」と誇る切れ離れのよい土地柄。中村幸彦先生いうところの「折花攀柳の巷にも出入した」「風流青年」は、宴席の膳にならべられた魚介とはおなじみであったはずである。

 ここで少し脱線する。大阪大学飯倉洋一先生が、近世の京坂を「上方」と一括りに見てはいけない、たとえば西鶴の『一代男』にしたって、あれは京の視点で書かれた作品なのだ、とブログで書いておられる。たしかに江戸時代、江戸・大坂・京は、「三箇の津」と呼ばれ、いわば三都制のようなものだったのだから、従来のように江戸対京坂とくくるより、京・大坂のこちらなりのことばで言えば「肌合い」の違いを味わいわけることが必要だろう。たとえば秋成のこととして、『胆大小心録』で一六年住んでみて京は「不義国の貧国」だと思う、と書き付けているのはたいへん納得がいく。といっても、京という土地の風が実際にしみったれているとか道義にもとるとか考えているわけではなくて(前項ではさんざん悪口も書いたけど)、秋成という大坂人が京なる「文化都市」を見る視線は確かにさもあろう、と思われるのである。

 杉本秀太郎さん(いうまでもなく代表的な京都の人)が『文学演技』において、京に遊学して祇園祭を実見した経験が、本居宣長の王朝文化賛美の基盤をなしたという警抜な推理を行っている。これもやはり「土地の肌合い」から見た国学観ということになるだろう(宣長の、いわば京コンプレックスは興味ある話題である)。

 脱線が過ぎた。秋成とカニの話である。江戸中期の大坂で蟹を食う習慣があったかどうか、考証はめんどうそうなので、ま、秋成が喰ったこともある、としておいて、しかしそれにしても「無腸」とはひどいなあ、と昨晩、(元)教え子の「まる。」と上海蟹を食べながら、しみじみ江戸の文人のことを思い出しておったのです。

 場所は元町の『新愛園』。コースの内容何々ぞ。フカヒレの刺身(葱油で)・酔蟹(紹興酒に生きたまま漬けておく)・ミル貝の白髪葱の葱油和え(すっかりポピュラーになった)・蒸し蟹・蟹ミソ入りフカヒレスープ・海鮮野菜炒め(揚げた麺の籠に入っている)・あこうの中華風蒸しもの・カラスミ炒飯・スープ・杏仁豆腐。

 右を見ても左を見ても蟹、という食膳であった。上海蟹は握り拳くらいの大きさしかないので、もちろん身よりもミソが主眼となる。紹興酒は結局二人で2本空けたけど、それでもしばしば酒を忘れてしまうくらい熱中してミソをせせり卵をほじりしていた。昼間は御令妹の結婚式だったという「まる。」も「いやー旨いわー」と言いながらチュウチュウしていた。

 もう当分蟹はいい。こう書いてても、蟹のあぶらがじわーとにじみ出てくる気味合いである。

 「まる。」は仕事の都合で、フィリピン・セブ島で暮らすことが多い。セブは意外にも海産物をよく食べるのだそうな。「蟹も海老もあります。海胆は瓶に詰まったのを、やつら(現地の人)はガーッと流し込んでます(!)」のであるらしい。

 「でもやっぱり日本の食べ方の洗練はどこを探してもありません」とも。安くは無い食事ではあったが、最愛かつは出藍の弟子であってみれば是非もなし。

 それに出藍である以上、いつかは零落した(しているであろう)老いたる師匠に豪儀にごちそうしてくれる日が来るでありましょうし(できれば生の海胆をガーッというやつをお願いしたい)。

 ともあれ食事も酒も会話も堪能した、いい夜であった。


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