聖地巡礼〜湖北旅行(1)〜

 近江は坂本に行って蕎麦を食った話は以前書いた。湖西の、都雅と鄙びが一体となっている風情をいいなと思っているところに、『播州地酒ひの』さんのブログに、「琵琶湖の北、余呉湖のほとりに発酵の聖地あり」とあったのを見て、矢も盾もたまらず、その《聖地》なる店に電話を入れた。『徳山鮓』という。

 電車の便を調べていると、晩の食事が済んでから神戸に戻るのは不可能ではないにしろ、かなり困難そうである。困難というのは酒をはやめに切り上げなければならないということだが、なにも余呉まで行かなくったって、こちらは三宮で呑んでる時でさえこの「困難」を無事切り抜けたことがないのは充分自覚している。なので一泊することにした(ここは宿もやっている)。

 三ノ宮駅午後二時発の新快速敦賀行きに乗車。湖西に入るまでは景色を見ても面白くないだろうからと思って鞄に入れてきた森澄雄の句集とクリストファー・プリーストの『夢幻諸島から』をぱらぱらと読む。後者は一応長篇小説なのだが、いわば掌編の連作集という体裁をとっているのでどこからでも読めるのである。時折面白いエピソードが出て来るものの、同様の体裁で書かれたカルヴィーノの名作『見えない都市』をどうしても思い出してしまうので、もひとつ乗り切れず。勢い森澄雄句集(朝日文庫『現代俳句の世界』のうち。飯田龍太とで一冊)の頁をくることが多くなる。

 森澄雄が近江の風土を愛してやまなかったのは周知のとおり。句でもさすがにいいのが多い。「田を植ゑて空も近江の水ぐもり」とか「水のんで湖国の寒さひろがりぬ」とか、じつに素晴らしい。とひとり昂奮しているうちに、山科を過ぎて湖西線に入った。列車左手の田園風景がうつくしい。

 近江塩津から一駅もどって余呉駅に着いたのが四時過ぎ。もう夕闇が濃くなり始めていた。『徳山鮓』の奥さんが車で迎えに来て下さる。湖の正面に広がるのが賤ヶ岳だと教えてくれた。『清洲会議』がヒットしたらこの辺りも俗化しちゃうのかなあ、と早速心配性が出てしまったのは、それくらい幽邃な余呉湖のたたずまい(と形容したくなる)に圧倒されたからである。

 宿では早速「望鏡亭」(小泉武夫教授の命名にかかる)なる露天風呂に入る。温泉ではないけれど、まさしく目路の限り湖面が広がり、右手にやさしく賤ヶ岳が山容をのぞかせる絶景である。露天風呂の扉には「小鳥やカエルが入ってくるのできちんと閉めて下さい」とあった。

 部屋に戻り、グールドのモーツァルトを聴いているうちに眠っていた。昨晩は『いたぎ家』で呑んで(それからバーでもしこたま呑んで)たからな。

 食事は六時半から。献立は以下の如し。何度も言いますが、当ブログは某グルメサイト(このおぞましい語感)ではないので、写真は載せない(というか撮っていない)。ホント言うと当方のコメントも要らぬことだが、自分の心覚えにもなるし、ま、あまり愛想がないのもどうかと思ったので付けております。

○鹿肉胡麻味噌和え…上に白髪葱と針海苔。海苔の香りが素晴らしい。それが引き立つということは、鹿肉はやはり山の香りが濃いのだ。なにせほんのちょっぴりだけなので細かくは確かめられなかったが。
○鰻落とし…鰻はもちろん天然、余呉湖の産。これはもひとつ。こちらが「おとし」なる調理をあまり好かないせいもあるかもしれない。
○鰻蒲焼き…でーんと豪儀に一匹、湖の形を模した皿に載って出てくる。「丸くないんですね」ときくと、奥さんがさも口惜しそうに「琵琶湖が大きすぎるので、すぐ傍の余呉湖は地図の類だとどうしてもちっちゃな丸で描かれてしまう」と答えた。味はこちらは結構でした。皮目のあぶらがたまらない。また上に載せた実山椒にえぐみがなくて爽やか。「山のものと里のものとの違い」だそうな。アタマも付いて出た。大阪人としてはこれと焼き豆腐を炊いてオカズにしたいところである。
○鯖なれ鮓…これこれ。やっぱり「聖地」である上は、熟れ鮓が出なくっちゃ話が出来ない。乳酸発酵だけで分解しきった蛋白質の豊潤さ。トマトソースとチーズが添えてあったが、もちろんこれは余計なことである。しかしチーズで連想したのだが、今どきの日本人よりフランス人のほうがこの妙味をしっかり評価するのではないか。

 とひとりはしゃぎつつ(表面はむっつりと)、酒をちびちびとやる。銘柄は『七本槍』(やはり)。もちろん食堂(湖に向かって開けた大きなバルコニーに続く)の外はすっかり暗く、時折走る電車の灯りくらいしか見えない。

○鰻肝ジュレ仕立…今年の鰻はもう終わりだそうな。間に合って良かった。
○琵琶鱒飯鮓ソース…正直いって鮭鱒の類を生で食べるのは苦手だったが、これは美味。固有種のビワマスももちろん旨いのだが、やはり飯鮓の飯の部分をベースにしたソースの力が大きい。
○鮎…揚げたのとあんかけにしたのと二種。誤解を恐れずに形容すれば男性的・女性的味わいの対比の妙。
○鮒鮓と飯天ぷら…ここで主役登場。鮒鮓がクサイなんぞとおっしゃる御仁の感覚がわからぬ。いや、しかし鮒の朱色の卵をちびちびつついては盃を運ぶときに相好をくずす、くずすというより崩れてる具合は、多分犬がミミズの腐った液に狂気して体をこすりつける類からあまり遠くないような気もする。
○すっぽん鍋…これももちろん天然。汁が酒のみにはぴったりの淡味に整えられているのが嬉しい。ふだんいわゆる「〆」なるものは食べませんが、最後にまる雑炊も悪くないと思っていると、「汁は全部のんでもらって結構です」とのこと。続いて出たのが
○熊雑炊…であった。熊は当方初の手合わせ。鯨のベーコンの極上(というものがあるとして)から塩気をとって、あのしつこさを抜いたらこうなるかな、という味。真冬になると刺身でも出るんだろうなあ。
デザートは飯鮓の飯を使ったジェラート。チーズのジェラートが旨いのと同じ理屈で旨い。しかしあれよりもっと味が軽い。

 総じて器の趣味がよいので、余計に嬉しい。それにしても鯖鮓と鮒鮓をもっと食べたかった。

 三百ミリ二本と四合壜を空けてすっかり良い加減。顔を洗ってそのまま布団にもぐりこんでしまう。といってもここは専家の宿ではない。部屋にテレビなぞ置いてないから、本を読まないのなら寝るしかないのである。

 翌朝は意外や少しも二日酔いの気配無し。あれだけ食べたし。それに発酵モノが効いているのであろ。理屈は良く分からんが。と朝風呂に向かう。驚いたことに外は一面の霧。湖面や賤ヶ岳はむろんのこと、『徳山鮓』と湖の間の木立さえ全く見えないほどの霧。天地晦冥というと黒くなってしまうが、「白い闇」というものがあればきっとこれがそうだ、と思わせる濃さである。時折水鳥の声が霧の奥底から聞こえてくると、これはもう幽邃というのを越して、神話的とさえ言いたくなる雰囲気。

 朝食も良かった。大体いい宿かどうかは朝食の気合いの込め方で分かるのだ。で、煩を厭わず献立を記す。

○すっぽん茶碗蒸し…濃厚で、でも典雅な味。
○氷魚小鍋仕立…好みでポン酢を付ける。こちらはビールを呑んでいたので、淡味の汁だけで愉しむ。
○味噌汁…人形茸・あみ茸という茸が身をよじりたくなるほど旨い。食感も柔媚を過ぎて猥褻すれすれという感じである。これと猪肉と芹・大根で鍋をしたら悶絶してしまうんだろうなあ。
○小鮎塩焼き…コアユはたしか琵琶湖の固有種(回遊しないらしい)。小さいくせに精気を体じゅうにみなぎらせている感じで、殊にアタマの部分をばりばりかじっていると(小さいから丸ごと食べられます)、ビールが一層旨くなる。
飯は実山椒(青いのと醤油で炊いたのと)、梅干し、雑魚佃煮とぬか漬けでいただく。この漬け物も、日本の発酵食品の代表である以上当然だが、素晴らしい。沢庵の古漬(細く細く刻んでいる)など、ほんのひと箸ほどしかないのに、その香気の凛烈なこと。これこそ「みやび」と「ひなび」とのうるわしき協奏である、と力み返りたくなるくらいに、よかった。

 九時半に辞して、帰りは車を断って駅まで歩いて行くことにする。落ち着いた家並み、とくに瓦がしっとりと霧に濡れているのに朝日が当たって輝いているのが快い。水鳥の声の他はほとんど何も聞こえないのがまた喧噪になれた都会住まいにはとりわけ嬉しい。

 水鳥の声……そうそうここまで来て鴨とは対面せずじまい、どうせ湖北までのしてるなら、長浜に寄って鴨鍋で一杯やるべいか。(続く)


《駄句いくつか》

・ぬる燗や湖国の果てのうすもみぢ
・鳥どもの声に暮れぬる秋の水
・霧深し神のいづこに生(あ)れたまふ
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