バナナ尽くし

 久々の更新でございます。

 忘却散人飯倉洋一氏のブログに教えられて、伊丹・柿衞文庫に芭蕉展を見に行く。二日酔い気味で出かけるのは大儀だったけれど、新出作品を中心にかなり気合いの入った展覧になっているらしい(開館三十周年と芭蕉生誕三百七十年記念の年との由)と飯倉先生が紹介してらしたので、食指が動いたのである。

 一度書いたことだが、江戸期の文学・思想を勉強していた学生時分、研究会のためにこの文庫に通っていたことがある。その頃は実は芭蕉にはさほど興味を持っておらず、研究の道を途絶した後、連句を作り始めたことからかえって芭蕉さんの文事に親しみ始めたのも思えば我ながら鈍なことであった。

 さて平日の昼過ぎとあって館内はいい具合に空いている。おかげで一階と二階に分かれた展示室を好きなように見て回ることが出来た。

 「俳聖」ともなれば文字通りの断簡零墨までが熱心な収集の対象となり、しかもその書風の微細にいたるまでが研究され尽くしている・・・のかどうか無学の身には判定しかねるけれど、当文庫の創始者である岡田利兵衛は芭蕉の筆跡学的研究そのものを開始した人である。当然ひとつひとつの出品に厳密な鑑定がなされている。

 たとえば、例の「古池や蛙飛びこむ水の音」を書いた短冊。蕉風開眼の句として有名だけに、やたらと贋物も多い中で(だろうね、落語(『金明竹』)のネタにもなってるくらいだし)、これはまさしく折り紙付きの真跡とのこと。当方の鑑賞眼なぞ信用してもらっては困りますが、素人にもこの字はすこぶる鑑賞に堪えるものと映った。気合いが充実してるくせに、水のようにさらさらとしている。これを眺めながらぬる燗で一杯やりたくなる感じ。

 芭蕉の神髄は連句(当時の用語で言うと俳諧)。そう信じ込んでいる人間には、俳諧の句稿が少ないのがちと残念だったものの、荷兮の独吟歌仙に芭蕉が批点・評語を加えた一幅には興奮を禁じ得なかった(大仰な)。荷兮というむやみに癖の強い俳人には以前から関心があったので、芭蕉宗匠がどう手を入れているのか、一応仲間との連句興行では(ヘボ)宗匠役をつとめる身としては見逃せないところ。といっても、薄暗い部屋でこれだけをずっと解読しているのはエライ(まだ二日酔いは治ってないのだ)。文庫では書跡だけを眺めることにして、内容については図録を買ってじっくり考えてみよう。

 色々出されている手紙は、やはり内容が面白い。見所ある弟子を絶讃する一方、かなり辛辣な語調もうかがえる。生前翁に会った人が、二代目団十郎(この組み合わせがすごい)に「年齢よりもずいぶん老けて見え、徳が高くて親しみにくい感じ」と語っているそうな。まあ、それぐらい気むずかしくなくては「俳聖」にはなれない。

 狩野派に学んだという門人・許六について、絵も精進していたらしい。有名な「枯れ枝にからすのとまりけり秋の暮れ」に添えたカラスが、俳趣に富む、というより今風の言い方ではヘタウマの味があってなかなかよろしい。文学史上の偉人がこんな子どもっぽい(!)絵を描いていたと思うと、急に親しい隣人のように感じられてくる。

 自句の雰囲気に合う謡曲の一節を詞書きのように記した書幅(たとえば、「花の雲鐘は上野か浅草か」に『西行桜』を配する)も洒落た趣向で楽しい・・・とこんな調子で書いていったらきりがないな。ともかく実に見応えのある展示で堪能しました。前期後期で展示替えがあるそうだから、もう一度行かなきゃ、という気にさせられる。

 もっとも堪能という表現は陰翳を付けて用いた所、無しとしない。というのは別の部屋でやっていた「諷刺画に見る子ども」というのを帰りしなにのぞいてみたところ、ドーミエの作品を中心にずらっと並べてあって、むろんこれはこれで面白かったのだけれど、彼の風雅(ないしいじましさ)に対するに是の豊饒(ないしは猥雑)、まるでジュンサイの吸い物のすぐあとにこってり煮込んだオックステールを口にしたみたいで、なんだか混乱してしまったのである。

 あたかもよし、世は「ひやおろし」が出回る時季。これはひとつ口直しせずばなるまい。というすこぶる強引な理屈で、伊丹からの帰り際、市場によって酒肴を仕入れてきた。

 酒は『竹泉』の四年もの。これをぬる燗にする。肴は甘鯛の松笠焼きと、芋豆腐(昆布出汁で煮た木綿豆腐にすりおろしたつくね芋をかけ、山葵と海苔を添える)、水茄子の鰹もみ。翁が好物のこんにゃくは買わなかったけど。

 今夜はじっくり呑みながら、一句ひねるとしましょう。

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