書物月旦

倉橋由美子『最後の祝宴』(幻戯書房)は題名通りの単行本未収録エッセイを編んだ本。と書いたがこの頃はいくらでも「次」が出てくるからなあ。倉橋さんが吉田健一を高く評価していた、というより鍾愛していたことは読者なら誰でも知っているが、ここまで文体の影響を受けていたとは思わなかった(和歌を論じた一篇など)。ほとんどパスティーシュに近い、と書きかけて違和感をおぼえるのは、やはり倉橋由美子一流の滴るような悪意(むろん貶下的な意味はない)が文章の表情を生みだしているせいだろう。それにしても、『暗い旅』論争における、江藤淳への反駁文の猛烈なこと。江藤淳も自分の若書きの品下る文章を泉下で身をよじるばかりにして恥じているのではないか。

 その倉橋由美子の『夢の浮橋』に、主人公の父親で出版社を営む人物が出てくる。一流の読書人らしいその男性は、晩年の読書録で「読むべき本/読んでも読まなくてもよい本/読まなくてよい本」と分類(鑑定?)していたのだった。なんと無愛想な、と初読の際には感じたものの、本はつまるところ「読みたい本/読もうと思わない本」の二種類に収まるのだから、これは実用に徹した基準だと言える。

 ま、だからといってこのブログでそれをしようとは思いませんがね。当方ごときの読書量ではいかにも厚顔無恥ということもあるし、人様に見せる文章で何がいかんの何が気にくわないのということを売りものとするのもぞっとしない。それに、読み手(書評の書き手)の器量で本はいかようにも生かせるものだ、と感嘆したのは、

鹿島茂『大読書日記』(青土社)を読んだせい。自分の読書日記に堂々と「大」と冠するのは鹿島大人の坦として蕩々たるところか。しかしそれはそれとして、中身はまったくそれに恥じない充実ぶりである。いやしくも書評家をなのる人なら多読は当然の資格としても、雅俗・和洋・古今の幅広さといい、あくまで取り上げた本の長所に視線を集中させる爽やかな書きぶりといい、対象を同類の本の世界の中にきちんと位置付ける構えの大きさといい(それは本来教養と呼ぶべきもの)、呆れるくらいの力量です。すごい。鹿島茂といえばみんな、性風俗だとかマンガだとかへの目配りのよさに瞠目するけれど(もちろんそれだって面白いのだが)、ブログ子としては、「歴史屋「十九世紀屋」と自称する著者が、日本における最新のフランス文学講究の成果をじつに濃やかに紹介しているところに、何となく胸が熱くなる思いがした。書評の本にしては結構なお値段ですが、この一冊で数年分の「読むべき本」…いや鹿島茂はそんなせせこましい見方はしないな、「読みたくなるような本」が詰まっているのだから、買っておくにこしたことはありません。惜しいのは誤植が多いこと。上機嫌で飲み食いしているときに、鱗や(文字通りに)砂を噛むような索然たる気分に引き戻されるのは、ほとんど犯罪的である。重版されるなら綺麗にしていただきたい。

 そういえば、七月は新刊旧刊を問わず「本の本」をよく読んだ。べつに意識して追いかけたのではなく、集まるときにはこうして集まるものなのである。

◎アルベルト・マングェル『読書礼賛』(野中邦子訳、白水社)…博覧を絵に描いたような著者による読書随筆。本好きなら誰でもこういう本を一冊出したいと思うはず。
河合隼雄河合隼雄の読書人生 深層意識への道』(岩波現代文庫)…鹿島日記とは対照的に、つねに「現在」の自分の仕事に結びつけての読書的回想録。
◎鈴木俊幸編『書籍の宇宙 広がりと体系』・横田冬彦編『読書と読者』(ともに「本の文化史」シリーズ、平凡社)…草双紙論や藩版(の定義)論などが面白い。とくに眼を引いたのは、江戸の当時にあってすでに黄表紙などの作物が「研究」の対象となっていた、という指摘。「江戸が見た江戸」という遠近法はたしかに清新な視点。これは当節流行の「江戸に即して江戸を見る」ではなく、江戸の人が「江戸」という時代を固有の判明なとはつまり他から区別されるところの一かたまりとして見ていたかどうかを含んだ視点である。
◎徳永聡子編『出版文化史の東西 原本を読む楽しみ』…リンボウ先生の講演含む。ブツとしての古文書なり古書なりを扱う学問はどうも西洋のほうで速く始まったように思えるのは、日本に伝存する本があまりに多かったせいか、それとも和書というブツの特性によるものか。
国文学研究資料館編『和書のさまざま』(和泉書院)…DVD付き。書誌学ではヴィジュアルが(つまりブツとしての本の特性が)決定的に重要なのだから、こういう試みはもっともっとあっていい。

 それ以外の本も。
◎サキ『レジナルド』(井伊順彦他訳、風濤社)…「レジナルド」なるトリックスター的な貴族の若者を主人公にした連作。つまりサキ・ファンにはおなじみのクローヴィス物の先駆けとなる短篇集。ということで期待して読み始めたのだが、悪辣無双のクローヴィスに比べると(言うまでもないが賛辞である)、レジナルドくん、ややウブい感じで、要するに食い足りない。それもあるが、なんだか翻訳がヘンなんだよなあ。無茶苦茶な語法が時折出てくるし、訳注の内容ももひとつ納得がいかない。しかしそれを言えば、従来の翻訳(ちくま文庫新潮文庫)の質が高かったというわけでも決してないし。ま、白水社のuブックスでも新しいい翻訳が出たみたいだから、三十年近くにわたる愛読者としては(こっそり言うと、サキみたいな小説家になれたらなあ、と思っていた時期があったのだ)、たくさん本が出て盛り上がるのは喜ばしいことではある。ちなみにこの本、挿画がすばらしい。
イーデン・フィルポッツ『だれがコマドリを殺したのか?』(武藤崇恵訳、創元推理文庫)…珍しくミステリの新刊。といっても、あの『赤毛のレドメイン』のフィルポッツですからね、たんに新訳が出たというので、作者のもうひとつの代表作であるらしい本書を読んでみた。トリックはたぶん誰でも見抜けると思う。昔の作品だから、それを古いといっても仕方ないとしても、途中の描写というか運びはやっぱりアンフェアなんちゃうやろか。新作だったらずいぶん叩かれていたに違いない。
◎湯浅邦弘『軍国日本と「孫子」』(ちくま新書)…中国古代の軍事思想の専家が、『孫子』の読解(曲解というべきか)と近代日本の軍事思想の関わりを探る。新書の枠ではこうならざるを得ないのかもしれないが、んーなんだかかいなでの叙述だなあ。明治〜昭和の軍人や思想家のチープな言説に当の専門家が振り回されているみたい。

 うーむ。なんだか結局「読まなくてよい本」ばかり上げているみたいだ。さいごは「いよっ、待ってました!」という企画を何点か紹介しておきましょう。

◎『エラスムス=トマス・モア往復書簡』(沓掛良彦・高田康成訳、岩波文庫)…沓掛先生の原典訳『痴愚神礼賛』および評伝が出された後だから、これは時宜を得た出版。エラスムスという一筋縄ではいかない学者=ジャーナリストの実像を探るには必須の一冊となるはず。
◎『マルセル・シュウォッブ全集』(国書刊行会)…少し前にヴァーノン・リーの幻想小説集を出した時もよーやる、と舌を巻いたおおぼえがあるが、国書刊行会、元気ですな。澁澤龍彦種村季弘の「遺産」をこういう形でしっかり継承してくれてるのは頼もしい限り。一万円は決して高くない。
八木雄二『聖母の博士と神の秩序 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界』(春秋社)…名著『天使はなぜ堕落するか』の著者が専門とするドゥンス・スコトゥスの主著を丁寧に分かりやすく解説。信仰と理性とを明確に分けた上で、それぞれが成り立ちうる基盤をまさしく天使的な精妙さで論理をつめながら追求していく。どこかヒュームを連想させるのは牢固たるイギリスの経験論的伝統のゆえか。

 その他には、
佐藤貴史『ドイツ・ユダヤ思想の光芒』(岩波現代全書)
◎関口義人『ユダヤリテラシーの視界 アブラハムはディズニーの夢を見たか』(現代書館
◎岡田章雄『キリシタン大名』(吉川弘文館
◎下定雅弘『白居易と柳宗元 混迷の世に生の讃歌を』(岩波現代全書)
森洋子ブリューゲル探訪 民衆文化のエネルギー』(未來社)

など。ほんとに小説を読まなくなったと実感する。

大読書日記

大読書日記

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村