中食評判

 このところちっとも書物のうわさを伺っておりませんが、十一月はたまたま休日に出る用事が多く、実際なかなか本が読めなかった。


 展覧会はふたつ。一つ目は国立国際美術館『アカデミア美術館蔵 ヴェネツィアルネサンスの巨匠たち』。ま、当方にとっては『舞踏会の手帖』的な意味合いの展覧会というわけ(あれからもう一年「も」経ってしまったのだ)。“神の如き”ティツィアーノの『』受胎告知』『アルベルティーニの聖母』やリチーニオ『女性の肖像』(こーゆー酒場女と放蕩したい)はじめなつかしの絵を見ては熱涙をぬぐい、すっかり贔屓になったカルパッチョの『マリアのエリザベト訪問』(これは初見)ですっかり喜んでしまい、という感じで充実した展覧会。ヒエロニムスなど、陰鬱な聖者像には相変わらず強烈な違和感をおぼえたが。キリスト教はつくづく“救いの無い”宗教だと思う(イエスの説教はひょっとしたら別なのかもしれない)。注文ひとつ。「ヴェネツィアの歴史」てな紹介ヴィデオを流すのはよろしいが、せめて絵を見て回る区域には音の流れないように工夫できまいものか(音声はヘッドフォンにするとかさ)。ティツィアーノの聖母の静かな哀しみを湛えるプロフィールに見入っていて、頓狂なアナウンスを聞かされるのは、ものすごく苦痛です。


 この日は新地の近くで昼食。唐揚げ定食をナイフフォークで食ってるバカがいた(洋食屋ではあったが・・・)。


 翌週は朝からまず東遊園地の「イートローカル神戸」へ。『いたぎ家』が茶粥で出ていたのである。茶粥は旨かった(やはり大量に炊いたほうがよい)。少し寒かったら尚更味が引き立っただろう。卵やハーブなど、買いたい品はあったものの、その足で神戸市立美術館の『松方コレクション展』に向かうつもりだったので、諦めることにする(ナマタマゴを持って美術展に入ろうとしたら、騒動になるんだろうなあ)。「イートローカル」の催しはずっとあるわけだし。さて松方コレクションは、大袈裟に聞こえるのを承知で言えば目の眩むようなヴォリューム。一点一点丁寧に付き合っていたら肩が凝って仕方ないから、はじめにざっと回って、気に入ったものだけを後からゆっくり見ることにした。シャルル=フランソワ・ドービニーというやたらと達者な画家の大気の質感と、ジュール・バスチアン=ルパージュという画家のくすんだ叙情がめっけもんだった。


 この日は久々に『天ぷら定食 まきの』で昼食。塩辛でビールを四杯呑んでるバカがいた(それはわたくしである)。


 それに桂吉弥さんの落語と『ひの』さんのお招きにあずかってございましょう。モウ忙しくって(このあたり圓生演ずるところのお婆さんの口調で)。まだこの上に国立文楽劇場の『錦秋文楽公演』があった。

 昼夜両方を一日で見た。これはある程度体力がないと出来ないことである(と思う)。始まる前に、近くのたばこ屋の角でコーヒーを啜っていると、吉田玉男さん吉田和生さん鶴澤寛太郎さんが地下鉄の出口から上がって目の前を通り過ぎていった。心中では「わーきゃー」と言っていた。

第一部。
 『花上野誉碑』。主人の遺児の唖が治るようにと、乳母が自害して金比羅権現に祈るところが見所。なのだが、主筋と乳母の自害とが密に絡んでこないから、お辻さんが気の毒でのんびり浄瑠璃と太棹を愉しむという気になれない。
 『恋娘昔八丈』。悪人がせいぜい下衆の番頭くらいなので、もひとつ盛り上がりに欠ける。
 『日高川入相花王』。いまだに幼稚なところがある鯨馬としては、大蛇と化した清姫が川を渡っていく時のケレン味一杯の演出に大よろこび。大体が、《逃げる男を追う女》というモチーフに妙に惹かれるのである。ま、逆に《逃げる女を追う男》では単なる痴漢になってしまいますがね。学部の演習で『雨月物語』を読んだ時、自分から「蛇性の婬」を志願したのを覚えている。だから岸辺で嘆く清姫の演出にもう一工夫欲しかったなあ。今のままでも結構凄みは伝わってくるのであるが。

 第二部。
 『増補忠臣蔵』。前に座っていた二人組のおばはんが、幕間に「ぜんぜん筋がわからへん」と文句を言っていた。ちゃんとパンフレットのあらすじなと読んどきなはれ!・・・いや、しかしこの浄瑠璃は『仮名手本忠臣蔵』を、それも通しで一回は観ておかないと面白くもなんともないのかもしれない。東京で『忠臣蔵』通しをするお詫びという意味で入れたのだろうか。
 『艶容女舞衣』。結局これが一等面白かった。切の鶴澤寛治さんの三味線も良かったし、中の文字久太夫さんの克明な語りも良かった。最後の愁嘆場で、店の外に《つい居て》中の会話に耳を澄ます紫の頭巾の三勝(簑助さん)の姿も哀切だった。だからこそ「思はず乳房を握り締め」という義太夫の詞章が余計にずきっと突き刺さってくる。当方はこの作、舞台では初めて。それまでは豊竹山城小掾のディスクで聴いていた。半七の手紙を残された家族で順繰りに回していくところ、聴くだけだと不自然ではないのに(というよりレーゼ・ドラマとしてはむしろ自然というか必然)、舞台だと少し間延びして見える。浄瑠璃がいいところだけにどうにも演出を変えようがないのかもしれないけど。
 『勧進帳』。弁慶の飛び六方による引っ込み(花道を使う演出は久々とのこと)はたしかに見応えがあった(弁慶は吉田玉男さん)。正直に申せば、しかし、全体としては退屈でした。これは何と言っても富樫弁慶の対決にドラマの勘所があるのだから、せめて『妹背山婦女庭訓』のように、太夫が両側に分かれて張り合うくらいの演出をし、二人の男の個性の違いを際立たせねば意味がないのではないか。能の儀式性とも歌舞伎の緊迫(海老蔵の富樫の、覚悟を決めた表情が忘れ難い)とも、どちらとも付かぬところに終わってしまったのが残念。

 全体に戯曲の選択と演出の再検討をしないと、今なんとなく客の入りが増えてる中、折角の文楽興隆の好機をみすみす逃してしまうことになりかねないと存じます。新春文楽公演(『廿四孝』「狐火」が出るのだ!)に期待してますよ。


 この日の昼食は作っていった。鯛の昆布締めと鯖・鰺のきずしを押し寿司にしたのと、古漬け胡瓜のかくやと生姜を具にした巻き寿司と卵焼き。これでカップ酒をきゅきゅっと呑む(ちびちびする程の時間の余裕はない)。隣でコンビニサンドイッチを頬張っていた着物のおばはんが羨ましそうにこちらの手許を見ていた。ぬははバカめ(バカというほうがバカなのよ!)。


 それで、仕上げが結婚式である。もちろん当方のことに非ず(こうあっちこっちふらふら出来る自由を手放してたまるものかい)。父方の従妹が高知出身の彼氏と結婚することになり、高知まで招待してくれた。

 老父と二人小旅行するのはかなり気ぶっせいだったが、思いの外愉しめた。これはやはり飯が旨かったせいだろうな。

 初日の昼は桂浜をぶらぶら歩く。親父と一緒に水族館見物をすることがあろうとは思わなんだ。昼食は鰻。こちらは白焼きとうざくで酒を呑む。鰻重も白焼きも同じく一匹使うのに、白焼きには肝吸いが付かないのが不思議でならない。帯屋町の商店街で入った古本屋で、由良君美『みみずく偏書記』(ちくま文庫)と佐藤春夫上田秋成』(桃源社)を買う。後者に収める文章のいくつかは先ほど書いた、「蛇性の婬」の発表で議論のきっかけとして使ったように思う。

 夜は『黒尊』なる魚料理の店。アニーが親切に紹介してくれた店が予約できず、こちらになった。店主が喧しい(文字通りの意味でね)のとペースが早いのはこちらの好みに合わないが、味はさすがによろしい。石鯛と鰤(ニンニクの葉を酢味噌に擂り込んだのをまぶして食う)、就中鯨の煮込みがすばらしい。父親も「旨い旨い」と連発していた。老人と酒呑みの二人連れのこととで、じつはコース(?)の半分くらいにしか到達せずに出たのが遺憾であった。焼き魚や煮魚もきっと旨いんだろうな。

 あとは自由行動。こちらはもちろん飲み歩く。土佐酒専門のバーも、そこで紹介してもらったオーセンティックバーもみなよろしかった(二軒とも二日つづけて行った)。ことに日本酒の安いこと安いこと。そうそう、女の子がうつくしいことも特筆しておかねばならぬ。この日本酒バーにいた、首が長く少しあひる口でハスキーな声の女の子。ふだんの好みとはズレてるにも関わらずくにゃくにゃになるほど可愛かったなあ。鯨馬がこの町に住んだら、あっという間に病気になってしまいそうな気がする。

 次の日の蕎麦屋(今年初の新蕎麦だった)も、最終日に食ったうどん(牡蠣と青海苔)もみなよろしい(むろんどこでも呑んでいた)。結婚式の印象については、従ってあまり書くことがないのである。おめでたくてにぎやかで感動して、というお定まりであることが一等重要なのがこうした儀式の本質なのだし。今回もしかし、まあよく呑んだな、我ながら。


 十二月入ってすぐの連休は、蟄居閉門の上、読書にいそしむことにしよう。
【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村