怪人の紅 皇帝の青

 老眼が進んで、しょっちゅう眼鏡をかけたり外したり。これがまことに煩わしいので遠近両用の眼鏡を作った。これでもう少しは本が読めるようになるかしらん。一週間後が愉しみである。


 三宮に出たついで、とスマートフォンの機種変更にも行ったところ、三時間もかかって疲労困憊。一日のうちにあれだけ自分の名前を書かされたのは生まれてはじめてである。県立美術館の『アドルフ・ヴェルフリ展』を見に行くつもりだったけど、とても開館時間内に行けそうにない。どこかに食べに行く気力も喪失し、よろよろと家に帰る。まあ、重大な情報を抱えた機械だから、手続きが多少煩瑣になるくらいは辛抱するとして、そもそも作業動線や職務分担・引き継ぎのあり方があまりに拙劣すぎるために、無駄な時間が出るんだと思いますよ、三宮のヤマダさん。


 ヴェルフリ展に行けなかった代わりという訳ではないけど、週末は美術館のはしごをした。大阪に出る機会もそう多くないので、出た日はどうしても欲張ってしまう。


 一館目?一展目?は中之島国立国際美術館。『クラーナハ展』である。これだけの規模でこの画家の展覧会が開かれるのは初めてらしい。


 元々さほど関心のある画家ではなかったものの、裸婦像のいくつかくらいは見覚えている。今回はじめて実物をとっくりと見て大分印象が変わった。やはり絵は直に見なきゃね。


 結論からいうと、「この画家、かなりヤバいやつちゃうやろか」。


 裸婦像の肌の真珠のようにつややかなマティエール、というイメージは間違っていなかったが、女たちの視線が悪魔的diabolicで、そのくせ妙に嗜虐欲をそそるような按配で、どうも落ち着いて観られないのですね。ええ、一番有名な『ホロフェルネスの首を切り落としたユディト』にしても、一見あれだけファム・ファタル的な図柄でありながら、サド侯爵的衝動を引き起こすような描き方なんです。これはわたしにそーゆー性癖があるのではなく、画家の視線が淫猥で執拗であることに由来するのだと思う。


 でなければ、ヴィーナスを描いてもユディトを描いてもマリアを描いても、いつもあの顔になってしまうはずがない。「あの顔」というのは剥き玉子のようなところに淡い眉が嫋々とたなびき(と形容したくなる)、うす色の瞳はかすかにアンバランスな細い目に象られ、ここだけやけに目立つ紅い唇(これも眉の如く細い)、という道具立てのことです。


 たしか『城の中の城』だったと思いますが、主人公の夫が手を付けた料理人の女性の風貌を述べるのに、「クラナッハ風」ということばが使われていました。これは賛辞ではありません。その正反対で、ひどく汚らしく不健全な雰囲気というニュアンスだったはず。その時は悪意の滴るような描写を、いかにも倉橋由美子らしいと面白がっただけでしたが、今回絵をまとめて見て、これはかなり正確な観察だったな、とへんなところで感心する。


 それでも大嫌いで二度と見たくないか、というと不思議にも図録を買ってしまったのである。鮒寿司やくさやの臭気がやみつきになるのと同じような精神の生理がはたらくのだ、と自分で分析してみる。だからこそあの好色なピカソクラーナハの絵を何度も何度も写しては自分流に描き直しているんでしょうね。


 ルターの、多分一等有名だと思う肖像画(右を向いて、黒く平たい帽子をかぶっている)を描いてたのもクラナーハだったんですな。知らなかった。一体にこの助平爺は、新教に心情的に好感を抱いていたらしく、このルターとか、ルターを神聖ローマ皇帝から匿ったザクセン選帝侯とかの肖像となると、diabolicな趣が急に影をひそめる気配である。


 これは鯨馬ひとりの感想ではなかったんじゃないか。たとえばルーベンスやモネの展覧会とは違って、周囲の見物客がどことなく「綺麗と言えば綺麗なのだが・・・」と戸惑っている按配だったのが可笑しかった。


 さて二つ目は東洋陶磁美術館。『台北 國立故宮博物院北宋汝窯青磁水仙盆』である。たまたまこの順番になったのだが、結果的にはこちらが《口直し》的な役目を果たしてくれて丁度良かった。元々贔屓のミュゼで、好きな理由のひとつが客の少なさにあった。それがこの日はたじろぐ程の大盛況。まあね、「人類史上最高のやきもの」なんて宣伝したらやはり集まるわな。もっとも「人類史上最高」かどうかはともかく、汝窯の磁器がこれだけ見られることもそうそうないだろう。それに今回の展示は水仙盆ばかりを集めているということで、釉薬の微妙な発色の違いをじっくり味わうことが出来る。混んでるっていっても、週末であんなものだったから、のんびり見て回る余裕は充分ありますよ。フェルメールやらルノワールやらの「泰西美術名品展」(懐かしいひびき)とは比べものにならない。


 というわけで時間をかけて見比べていた。青磁と聞いて浮かぶ、他人行儀な冷ややかさの感じられない所が名品たる所以か。ことに外側の面が薄くあぶら、それも獣脂ではなく魚、たとえばよく肥えた鯛の造り身の切り口に輝く虹色のあぶらのような、それを刷いた如くとろっと光を放っている。なで回したら絖のような触感なんちゃうかしら。


 だから「天青」の色とはいっても、やはり地中海地方の空の非人間的なまでの青さではなく、どうあっても驟雨一過した後の空の色でなくてはならないのである。つまり潤いがある。


 乾隆珍襲のこの傑作を玩賞しているうちに、悪癖が出た(万引きではない)。どんな料理を盛り付けたら映えるか、とかなり《真剣な空想》に耽ってしまうのです(だから料理の盛りようのない形の花器などには関心が無い)。河豚や虎魚の薄造りはちと陳腐か。干口子と木耳を使った白和えならどうか。いっそ雉や山鳩を炙ったのに赤ワインと八丁味噌でつくったソースを掛け回すくらいの思い切りが必要なのではないか・・・などとひとしきりはしゃいでおりました、


 熱くなったアタマを冷ますために、水仙盆の部屋を出て常設・特集展を回る。高麗・李朝青磁白磁を見るとなんとなく落ち着く。いくら柔らかい肌合いとはいえ、やはり朝鮮の器に比べると、汝窯はよく言えば端厳、悪く言えば気取りがきつすぎて、見ていて少なからずくたびれる。


 日本陶磁の室に入るといよいよその感は強まる。中国朝鮮日本を真行草の三態に喩えるのは、既に誰かがやっているだろうが、ごく自然な発想だろう。


 一つ例を挙げるなら織部の舟形向。なりといい緑釉の掛け方といい、斬新で放胆。織部を好む鯨馬のような人間にとってさえ、しかし、この行き方がしどけなさや野鄙とぎりぎりの所で遊んでいるような危うさを感じさせるのもまた事実なのである。


 日本文化が一般に非対称性や未完成の趣を好むとはよく指摘される。文化とは「昔からそういうもの」であって淵源を訊ねるのは無意味に似るのかもしれないが、この傾向が果たして真実どこまで「一般」なのか、仮にそうでないとしたらそれはどこからまた何故に、ということが気になる。ここ数年、折に触れてはそういうことを考える。でも性疎放懶惰にしてなかなか旨く説明出来るまで考え抜けていない。


 ま、取りあえず口子と木耳の白和えで一杯やるか(それがいかんのだ)。


 本の話はまた来月に。明日から三月なのだが。
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