噺家・墓・莫迦

 桂吉弥落語会於羽曳野。前座は桂弥っこさんで「子ほめ」(会場が保育園だからでしょう)。吉弥さんは「蛇含草」と「餅屋問答」。「蛇含草」の演出にひとつ新しいギャグが入っていた。「餅屋問答」(江戸落語だと「こんにゃく問答」)は初めてナマで聞いた。主人公のばくち打ちと寺男の権助との微妙な主従関係が面白い。


 会のあとは近くで牛肉のフォーを食べ、近鉄天王寺まで戻る。五時半に友人たちと天満で待ち合わせているので、二時間半ほど時間をつぶさねばならない。映画の『デスノート』を見ようかとアポロシネマをのぞいてみると、終了時刻が五時半を回っている。


 美術館や古本屋めぐりというのもなんだか億劫。だったら丁度天気も良いことだし、天王寺から天満まで歩いてみることにした。極度の方向音痴でも、目の前の谷町筋をひたすら北に向かっていけば絶対に目的地に着くのだから、暢気な散歩にはうってつけである。


 天王寺界隈は一度歩いて回ったことがある(「浪華掃苔」)。初代竹本義太夫・植村文楽軒・竹田出雲の墓を回ったのは前に同じ。天神坂を下るのは初めてだった。まことに閑雅な一角で、この辺りに隠宅をかまえるとして、どんな構えでどんな前栽が似合うだろうか、と妄想が広がる。そしてこの路地の奥には上野修三さんのお宅がある。大阪生まれで、かつ日本料理を好む人間にとっては神様みたいな存在であるからして、こそっと門口まで行き、柏手をうつのも変だし念仏を唱えるのも尚更おかしいし、仕方なく敬礼して帰った(もしご本人が出てきはったらぴやーっととんで逃げるつもりだった)。


 そこからしばらくは松屋町筋をたどる。やたらとバイク屋クルマ屋が多い。はてこの筋といえば人形屋のメッカであったはずだが・・・。ま、バイクもクルマも大人の玩具みたいなものかもしれないけど、こちらはちっとも興味がないので谷町筋にふたたび上る。


 谷町あたりになってくると、下寺町(浄土宗ばっかり)とは違って法華宗の寺が目立つというのもこの日の発見である。こういうことは歩いてみないと分かるものではない。


 空堀商店街で少し西に入って住宅地の中を歩く。家並みが低く、公園では子供たちが遊び、車の量が少ないという、典型的な・・・さあここでどういう言葉を使えばいいか。下町と形容するのが一見相応しいようだが、大阪には元々「山の手」の概念やそれに相当する地域がない以上、この語も単にある種の情調を喚起するだけであまり実質的な意味はないように思う。


 さしあたり、「堅実な生活の町」とでもしておこうか。こういう地域が荒らされずに残ることを望む。これに比べると大川沿いの利いた風のテラスなぞ論評の限りではない(ただし川沿いの樹木が大きく気持ちよく育っているのは目に快い)。


 天満橋を渡ってから、環状線天満駅までが意外と長いのには閉口。さすがに歩きくたびれてきたせいもあるし、オフィスのビルが増えて眺める愉しみが減ってきたせいもある。曾根崎通りを西に曲がって、天神橋筋商店街を歩くことにした。やっぱり入ってしまった天牛書店では、リチャード・ホームズという人のThe Age of Wonder: How the Romantic Generation Discovered the Beauty and Terror of Scienceという本を買う。でも矢野書房にもエンゼル書房にも入らなかったのは、ただただビールが呑みたかったからである。


 友人を待ちながら、一杯飲み屋でらっきょうやどて煮でビールと焼酎を呑む。頃合いを見て店を出ると、ちょうど友人たちが通りかかったところだった。


 題名の莫迦をした、というのは、『玉一』本店で、あわびの残酷焼やら焼肉やらをさんざん喰った挙げ句に、『サンボア』で二三杯引っかけたあと、性懲りもなく海鮮居酒屋で食べまくったことを言う。いやそれにしてもよく動いた日ではあった。

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国策の提言

 こういうのは早い者勝ちだから、思いついた時点で書くことにする(ひょっとしたら山藤章二さんあたりが既に書いてるかもしれない)。トランプ氏とドゥテルテ氏を早急に対談させるのである。


 開始早々、「うるせえ、この垂直バーコード野郎」とか「黙れ土人め」とか不適切な発言の連続で、最後は髪の毟りあい、ひっ掻きあい、掴みあいとなる。負けた方が勝ったほうに領土をそっくり献上するというルールでいきましょう。ハムレット王とフォーティンブラス父王との一騎打ちみたいにね。も少し見ばのある映像にしようと思ったら、久生十蘭が『新西遊記』で紹介したチベットの刑罰方式でやってもいい。これは囚人二人を向かい合わせる格好で、泥田に下半身を埋めるのである。それぞれヤットコを一挺持たせ、アタマはつるつるに剃り上げておく。で、どうさせるかというと、互いに互いの歯をヤットコで抜かせるのである。しかも抜いた歯をヤットコの反対側で脳天に打ち込むという洒落た趣向。こうなると入れ歯乃至インプラントらしきトランプ氏が不利になるのかなあ。


 となれば、トランプさん、あのカミツキガメみたいなフィリピンのおっさんに潔く負けておいたほうが得策ですぞ。アメリカ全土にわたってフィリピン軍が進駐(この二字傍点)することにはなるが、経済援助は雨あられと降らせてくれるであろうし、何か不都合が出てくれば「あれは勝者の押しつけだ」と責任を転嫁してしまえるし。皇国、じゃなかった米国の興廃この一戦にあり。救国の英雄になる絶好の機会であります。


 てな冗談を絞り出して、この、「関節の外れてしまった世界」を誤魔化し誤魔化し生きていく。権現さま曰く、「人生は重き荷を背負ひて長き道を行くが如し」。それでもまだ心折れそうなあなたは、せめて南伸坊大人の『本人遺産』のトランプのページを見てゲラゲラ笑って、なんとか耐え抜こう。『本人伝説』の続刊である本書では、オボカタさん(瞳孔の開き具合がブキミ)や野々村県議などは言うまでもなく、高橋由伸ベッキーなど、全然似てないけどなにかこう似てるっ、と思わせる怪作がめじろ押しです。文藝春秋

本人遺産

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本人伝説

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巨星とスター

最相葉月星新一 1001話をつくった人』(新潮社)……を(今頃になって)読み、それをきっかけに星新一も何冊か読み返した。日本中津々浦々の小学生と同じようにこちらも熱狂的なファンの一人だった。勢いのあまりエッセイ集にも手を出した。『進化した猿たち』に至って、こういう発想がこういう乾いた文章で叙し得るということに驚愕した(無論当時はこんなことば遣いで考えてはいなかったわけですが)。「おーいでてこーい」や『声の網』が環境問題やネット社会を予見した、とひとはよく言うけれど、そしてそれに違いはないのだけれど、エッセイを読んでいるとはっとするようなアイデアがそこかしこに散らばっているのである。大判小判がざあくざく、なのである。普段から何かを見るにつけ聞くにつけ、それをきっかけにものを考え続けた人だからこそ警抜な視点を探し当てることが出来たのだろう。しかも読み進めてるうちに納得させられてしまう。思考が論理的だからである。で、肝腎の小説の方であるが、おそろしくてまだとても正面から取り組む気になれない。こんなのよく小学生の時に読んで感嘆してたもんだ。社会に出てから読むと、エッセイ以上に視点・発想・論理(つまり話の運び)に「あーっ」と叫び出したくなるようなものがいっぱいある。もちろん水準以下の話はある。しかしたとえば晩年の『つねならぬ話』なぞ、一篇を味わいつくすには読者の側にどれだけのエネルギーが必要か。筒井康隆さんが解説で指摘したとおり、まだまだ星新一の作品は技術批評的に細緻に読み解かれねばならないのだ。

田辺聖子『おせいせんの落語』(ちくま文庫
○つかこうへい選『書くに値する毎日 日記名作選』(日本ペンクラブ編、集英社文庫
半村良選『幻覚のメロディ』(日本ペンクラブ編、集英社文庫
池内紀『二列目の人生 隠れた異才たち』(晶文社)……取り上げられたうち、魚谷常吉という料理人の書くものが面白そうだったので著作集を衝動買いしてしまった。これで戦前の日本料理の姿をさぐってみるつもり。グルメガイドやレシピは氾濫してるのに、日本料理の歴史的研究はほとんど手つかずの状態のままなのである。
○檀上寛『天下と天朝の中国史』(岩波新書
○三木亘『悪としての世界史』(文春学藝ライブラリー)
○神田千里『戦国と宗教』(岩波新書
○『森卓也のコラム・クロニクル 1979-2009』(トランスビュー)……イッセー尾形の舞台や上方落語の公演などを、継続的に見に行ってるから、こちらも通時的に追いかけていくと成長ぶりや芸風の変遷が見て取れて興味深い。描き続けた筆者はもちろん、これを1冊にまとめて出した編集者および出版社もえらい。
○アルベール・ド・バッソンピエール『ベルギー大使の見た戦前日本 バッソンピエール回想録』(磯見辰典訳、講談社学術文庫)……関東大震災から二・二六事件という時代に大使であった人にしては、個々の事件への論評・考察は訳者もいうように微温的常識的の域を出ないが、老練な外交官のソフィスティケーションかもと思いつつ読むとそれなりに面白い。戦前の日本人(むろん上流階級の一部)は教養が高かったんだなあ。あんな時代に戻りたいなんてちっとも思わないけど。それにしても本屋で背表紙の題名が視界の端に入った時にはびっくりした。関東大震災で大混乱の中、バッソンピエール「元帥」は可憐な風情の日本の少女と夢のような一夜を過ごす。だが後日にその宿を訪れてみると、そこは腸チフスが蔓延しつつある死の町なのであった・・・なんてストーリーかと早とちりしてしまった。
○森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』(勁草書房
八木雄二『哲学の始原 ソクラテスはほんとうは何を伝えたかったのか』(春秋社)……著者は「西洋哲学」を①徹底した対話、②二世界説に基づく真理の探究、③自然哲学=人生論の三タイプに分類する。そして最後のグループはヘーゲル莫迦にして以来なんとなく軽んじられているが、日本人にはなじみ深い発想なのだという。そいえばなんとなく「二流の人」が多いように思い込んでたよなー、と思って
○ジェイムズ・ロム『セネカ 哲学する政治家 ネロ帝宮廷の日々』(志内一興訳、白水社)……を手に取ったら、めっぽう面白かった。日本人的にしみじみしたというのではない。なんせカリグラ、クラウディウス、ネロの時代を生きた(最後には自殺を強要されるのですが)人ですから、そしてその人がネロの家庭教師で哲学者ってんですから、これは面白くならないわけがない。ま、哲学的な感興ではなく文学的な愉しさなのですがね。
○三田純市『遙かなり道頓堀』……芝居茶屋の息子である筆者の手になる二代目實川延若の評伝。「上味醂で煮上げたような」ある時期までの大阪の爛熟がむんむんと伝わってくる。読んでる内、もっと風俗の描き込みが欲しくなる。この渇望の感覚から蒐集・考証の好事家まではほんの一歩である。であるが、時間と金のない身はその一歩をよう越えずに今まで来ている。
○マルト・ロベール『エディプスからモーゼへ フロイトユダヤ人意識』(人文書院


 毎日書評欄の特集で知ったが、今年はシェイクスピア没後四百年なのだそうな。こちらも祝宴の末席に連なることとする。すなわち松岡和子訳によるちくま文庫版『シェイクスピア全集』の通読。参考書としてロザリー・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』(白水社高山宏セレクション「異貌の人文学」の内)を横におく。どれだけ時間がかかるか全く予測できないが、心弾む企てなり。


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プロの秋 アマの秋

 松本行史さんの弁当箱を買った。胡桃材、拭漆の三段重ね。少しく贅沢な買い物ながら、丁寧に使えばいくらでももつとのこと。丁寧に使うこととする。中年の弁当としてはやや大ぶりだが、行事ごとやお客をした時のお重に使えそうである。木目の華麗な欅とは異なり、材そのもののマッスが迫ってくる感じ。

某日 リハーサル代わりに、秋の酒肴を盛って浅酌。リハーサルであるからもちろん客は無し。
 盛りたるものは何々ぞ。
○白和え(柿、ひじき)・・・柿は賽の目に切ったあと、ジンに短時間浸けておく。戻したひじきは下煮する。柿から水が出るので、豆腐はよくしぼって使う。
○煮物(栗、かしわのもも)・・・酒をたっぷり使って下煮の後、醤油の香りを立たせて。味醂・砂糖の類は用いない。仕上げに片栗でしっかりめにとろみをつける。菠薐草を湯がいて下地に浸したのを添える。
○さんまともあえ・・・おろした身は砂糖・塩、酢で〆る。わたは叩いたのち、生姜のしぼり汁と醤油でのばす。身を細く切って、同じく刻んだ大葉と和え、最後にわた醤油をからめる。
○黒豆・・・柔らかく湯がいた後、莢に魚醤を塗って軽く炙る。
○柚釜・・・茸(残念ながらマッタケに非ず)と細く刻んだコノコを入れて火に掛ける。
○寄せ揚げ(ごぼう、海老)・・・ごぼうは薄く薄く細く細くこしらえる。水にはさらさない。

 なにせ一人前ずつだから、品数の割に手間のかかること。それでも丹念に盛り付けて燗酒をふくめばそこに楽園が出現する。胡桃はわっさりした質感なので、京料理ふうの繊細な品はしっくりこない気がする(ま、作ろうたって作れやしないのだが)。今日くらいの料理で丁度よろしい。という按配を分かってくれるような人が、お客になってくれたらなあ。


某日 「アードベッグハイボールバー」へ。二週間熟成の山鶉がこの日から提供できると聞いて、前回行った時に早速予約しておいたのだ。
 この日はコースで出してもらった。

アミューズ三種 金柑のコンフィチュールを鴨ロースで包んで・秋刀魚のマリネを黒オリーヴで和えて・猪肉のパテのキッシュ仕立て
○前菜 鮭と牛蒡・・・ちゅう書き方ではフレンチやら粕汁やら分からんわな。鮭はもろみ味噌で軽くマリネしたあと、瞬間スモークでふわっと燻し香をのせる。牛蒡はブイヨンで煮たのと、笹がき風のスライスをぱりっとローストしたのと、ピュレにしたのとの三態。これらをオリーヴオイルを粒々にしたのとヨーグルト、二種のソースで。生鮭が苦手な人間が目を見張った出来だった。この技法は応用できそうですな。
○魚 鱧のパイ包み焼にトランペット(というフランスの茸)を添えて。鱧と茸から採ったソースがよろしい。

 奥さん(バーテン担当)に小声で「繊細な料理ですね」とささやくと、笑って「見た目によらず、と皆さんおっしゃいます」。たしかにシェフ、ドラゴンゲートの試合に出そうな体格だもんなあ。腕なんかそのままオーソブッコになりそうな感じ。

 「あのガタイだから、ものすごいマッチョな方ですよねと人から言われるたびに可笑しくって」。とは如何なる訳で。

 「・・・字は小さいし、お腹は弱いし」。椅子からずっこけそうになってしまった。島田紳助かっ! ともあれ、目をきらきらさせながら飽くことなく食材の魅力を語り続ける前田さんが、わたしは大好きだ。

 とか話してるうちに、真打ちというか大名題というか、本日の秀逸っ。である山鶉が登場。生のポルチーニとフリカッセになった姿はただただ美味そうにしか見えないけど、この店は羽毛付きのまま熟成させているのである。さすがに毛をむしるのは開店までに済ませているけれど、裸にひん剥かれたところから、解体ショーを経て(途中前田シェフの解説が入る。内臓はかなり柔らかくなっているが、心臓と砂肝は原形を留めていた。全身に血と内臓が行き渡って、惚れ惚れするようなボルドーいろになっている)(むろん見たくなければ見なくてよろしいのです)、こうして立派に一皿の料理となって出てくると、なにかこう、歌舞伎の名門に長く仕えた古参の弟子(中村屋の小山三丈とか)が、「坊ちゃん」が子役で初舞台を踏んで以後どんどん腕を上げ、やがては大看板と成ったのを見守ってきたようで、感涙ひとしおというところ、「七草屋っ!」と声を掛けたくなる感じだった。

 うーん、縦から見ても横から見てもこの比喩、ヘンだな。

 血の味がしっかり回った結果、快い苦みと芳しい香りののった肉は、ちょっと真似手のない濃艶な芸風で(まだやっている)、これにくらべれば普通の鶏や鴨なんぞは小便たれの小娘にすぎないと思わせる魅力がある。

 むろん小娘には小娘なりの好さがあるのかもしれませんが・・・鯨馬は熟熟の方を採る。すなわち来月は雷鳥を食べに行く。これは一ヶ月をかけて熟成させるらしく、シェフ曰く「ぼくでも口にした瞬間、『うっ』となるような匂いと苦み」であるらしい。八十越えた名女方に口説かれるようなものか。
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収奪祭と収穫祭

 友人の誕生日祝いで大阪へ向かう途中、スマートフォンの警報が鳴り出す。宇治川商店街の端にある公営住宅の前を歩いている時だった。無論鳥取地震に係るもの。商店街とおっつかっつの年代物のビルなので、みしみしと音を立てて揺れ出すのに総毛立つ思い。二十年以上経っても、やはり阪神大震災の時の感覚は瞬時に戻ってくるのだ。幸福の感覚の方はどうだろうか。結構流れ去りやすいような気がする。ボケてから一気に若い頃の幸福な思い出が甦ってくるのかもしれない。まさしく恍惚老人である。

 大阪駅前ビルの地下で下地を入れてから、焼き肉店の前で張龍を待つ。空腹のところに、久々の日本酒をきゅっきゅっとやってしまったけど大丈夫かな。何せ張龍と大阪で呑むとなれば、朝まで引き回しとなるに決まってるのだから。

 「官能小説」で一度取り上げたが、ここの肉は変わらず綺麗でヴォリュームがあって、たいへん結構でした。このタンならビールでなくて、酒やワインでも充分いけるのではないか。肉の持ち帰りも出来るようだから、今度買って試してみるべし。



 (ここの所、十時間分省略)



 で、朝方。二人してタクシーで三宮にたどり着きましたが、馴染みの店はみな看板。この時間だとまだ開いてるはずのところも、ドアを叩いても、前で歌ってみても(巡礼に御報謝〜♪)鍵は開かない。仕方なく『サイゼリヤ』なぞに繰り込み、生ビールで仕上げてようやく解散と相成った次第でした(後日聞けば、ノックの音がした瞬間、ママはカラオケの電源を素早く落としてカウンターの奥で息を殺していたそうな。その気分、よーく分かります)。

 「収奪」といっても別に張龍にひん剥かれたわけではない。その逆で、安い食事をご馳走しただけで(安もんの店ではなくて、肉が安いのだ)、「はいっ、次」「はいっ、次」と案の定連れ回されたバー、スナックの勘定はいつの間にやら済んでいるのである。これひとつの不思議。もっとも「ここは出すから」と言うと蹴りを入れられ、せめて割り勘でと重ねると魔王の如き形相で威嚇してくるのに疲れて、途中からへえへえと従っていたせいもある。海老で鯛、ではなく、文字通りの三寸(厚さ)の舌先でシャンパンを釣り上げた按配であった。誕生日祝いにかこつけて、「あのオッサン、最近ガソリン切れ気味やから、一発注入してやれぃ」と張龍が計画していたように思う。

 その翌々日は、飲み屋のオカンの実家(篠山)へ黒大豆枝豆の収穫に行った。常連客の、かの字兄が車を出してくれ、同じく常連の田車子と当方、それにオカンと従業員のガラッ八を拾って篠山に向かう。途中、『諏訪園』に寄る。オカンの実家への手土産を買ったのだが、ショーケースの中から選んでいるうち、コーフンしてきて自宅用にあれこれ買ってしまう。ここの栗の菓子、好きなんだよね、わし。

 家は町中からは十キロ以上離れたところで、川沿いに延々と黒豆の畑が連なる。欲しいだけ刈っていけい 。とは持ち主であるオカンの叔父さん(『仁義なき戦い』に出てきそうな風貌)のお言葉。昔取った杵柄のオカンは別にしても、軟弱なる都会育ちの残り四人はへろへろ腰で黒豆の株を刈り、葉をむしっては虫どもに狼狽し、よたよたしながら豆を運んだのだった。

 家ではオカンの御母堂心づくしの昼食がふるまわれる。ひじきも筑前煮もじつに旨い。味付けはむろんのことながら、入ってる野菜全部目の前から採ってきたものなんだからな。なかんづく素晴らしいのは小芋。丹波の土は性がええなあと感嘆久しうする。さんま鮨(強めに塩したのをしめて、大葉と生姜で挟んで海苔巻きに)もぜひマネしたいなあ。おはぎ(栗・つぶあん・きなこの三種)も品のいい甘味。ビールを呑みながら、みなでわいわいと頂く。あとは八のピアノを聴いたり、けったいなお客の話で抱腹絶倒したりしてのんびり。なにせ縁側のある家はむやみに落ち着いてしまうものなのである。この幸福感、何十年後かに甦るならばそれこそ天上的に甘美なことであろう(おぉ、プルースト)。

 帰り際になって、御母堂が「ちらし寿司を持って帰るべし」、叔父上が「野菜を持って帰るべし」、オカンの姉上が「柿と蜜柑も持って帰るべし」。枝豆だけでも段ボール箱いっぱい(一人宛ですぞ)の上にこのご厚情。持ちきれないほどの袋を抱えて帰ることとなった(鯨馬は、感嘆のあまりひじきと筑前煮もパックに詰めて帰ったのだった)。竜宮城は山里にありとかや。

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月は照れども

 豆名月、を口実に呑む。口実などなくても呑むけど、やっぱり風雅の看板を立てておいたほうがゆったりした気分で呑める。

 アテはもちろん枝豆。はしりの時分に比べると、莢などはだいぶ枯れてみすぼらしい感じになってきている。でもこれくらいのほうが豆の香りは高くて旨い。カリカリに仕上げてはどうしようもないので、十五分ほどもかけて柔らかく茹で上げてゆく。ここまで茹でると、外側の皮も食べられる(中の半透明の莢はダメ)。甘く、山の匂いがほのかにたって、洒落たもの。もっとも洒落こむなら、二つ三つほどを摘まむ程度に止めておかないといけないのだが、花林糖・えびせん・フライドポテトなどと同じで、どうしたって止められるものではない。 はっと気付いたときには鉢の上にはマメのサヤがうずたかく盛り上がっている。ひどく野蛮な人間になった気がしてうろたえるのも束の間のこと、このくらいになると少々酒が入ってきているので、すぐに「も少し肴が要りますな」と台所に入ることになる。

 結局この日はオクラの擂り流し(ゆがいたオクラと鰹だしを合わせてミキサーにかける)と鶏皮の和え物(きつめに塩をした鶏皮を焼いて刻む。茗荷の細打ちと貝割れ大根と大根下ろしを和えて、酢橘をしぼる)で呑み続けた。風雅の看板はどこへやら、月の方は、いちどベランダに出て「あ、あの辺りに照ってはんねんな」と《確認》しただけ(薄雲がかかっていたのである)。

  有り合ひのアテを趣向に後の月 碧村

とお茶を濁しておく。

豆の後は本。
○中川大地『現代ゲーム史 文明の遊戯史観から』(早川書房)…あくまで「現代ゲーム」であって、トランプや双六は入らない。で、その現代のゲームは原爆とともに始まった。つまり、「コンピューターゲームの誕生自体が、ナチスドイツに迫害されたユダヤ人たちが大きな役割を果たした、原子力爆弾の開発から派生した出来事であったからだ」。鬼子が鬼子を生んだというところか。面白いのは、世界に冠たるゲーム大国である日本でもまた、「現代ゲーム」の始発にはユダヤ人が深く絡んでいたこと。ナチスの迫害を逃れて満州にやってきた(満州には「河豚計画」という、ユダヤ人の移住計画があった!)コーガンなるユダヤ人が立ち上げた輸入商会、太東貿易がすなわちタイトー。しかもこのコーガン、一時期は米川正夫のところに身を寄せて、ロシア文学翻訳の手伝いをしていたという。そうした興味津々の情報が満載。レファランスとしているのが、カイヨワの遊戯論(!)というのがかなり古めかしいが、どの道こうした事象の社会学的な分析では、数字の実証以外は「言ったもん勝ち」とこちらは思射込んでいるから、ま、それはよろしい。日本型のRPGにおける視点の自在さ(というかいい加減さというか)が浮世絵的な空間認識に結びつくもので、それに対してアメリカ型の徹底した一人称画面のシューティングゲームが、近代的遠近法の世界観の表れだと説かれると、なるほどそんなもんかいな、と思う。こちらの乏しい経験からしても、たとえばThe Elder Scrollsシリーズ、特に第五作のSkyrimでの、むくつけき(というか重厚と称すべきか)徹底ぶりにいささか辟易したことが頭に残っているからだ。NPCがしゃべる、その会話が量でも質でも「濃い」のですな、とにかく。こういう主題の本は初めてだったから最後まで面白く読めた。むろんパンデモニウムの如きゲーム世界を網羅できるはずはないので、日本のゲームシーンなら『桃鉄』シリーズを外しては語れんでしょう、とか、どうもRPGに力がかかってシミュレーションの扱いがおざなりだ(『信長の野望』はちらりと出てくるだけ、Civilizationシリーズに至っては名前すら出てこない)、とか、それは銘々で補うべきなのかもしれない。むしろかなり不満だったのは文章の質である。実物を引き写していると気が滅入りそうだから止めておくけど、かなり趣味が悪い。方向音痴のオッサン(これは当方のこと)3Dのとびきり複雑なダンジョンに放り込まれたときのような眩暈をおぼえたこと少なしとせず。そりゃ、カイヨワおじさんもイリンクスとは言ってますがね、この眩暈の感じはちと違う気がする。編集者しっかりしなさいよ。

サイモン・シン『数学者たちの楽園 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち』(青木薫訳、新潮社)…たまたまだったが、『現代ゲーム史』の後に読んだので、ある種の感銘が深まった。あの薄気味悪い/悪趣味なアニメには、数学がらみの小ネタ、しかもかなり高度なものがやたら多く出てくるらしい。なぜかというに、脚本家にはハーバードなどの名門校出の数学のエリートが多いからだそうだ。ではなぜそうした秀才が『シンプソンズ』に関わっていくのかというと、アニメの世界は劇やドラマと違って、まるで数学のように細部に至るまで完璧に作り手側がコントロール出来るというところが魅力なのであるらしい。ゲームも同じなんだろうな、多分。《あの》サイモン・シン青木薫のタッグであるから、これは親を質に置いても読まねばならぬ、と意気込んだが、題材が題材だけに、『フェルマーの最終定理』や『ビッグ・バン』のような手に汗握るストーリーはささすがに見られない。ま、『シンプソンズ』をターゲットにしたサイモン・シン版『磯野家の謎』というところか。酒の対手としては申し分ないのですが。『シンプソンズ』DVDセット買っちゃおうかしらん。


数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

数学者たちの楽園: 「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち

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久々の味

 明日は休みというのに三宮へ出御あそばしませず、スーパーで買い出しを済ませていそいそと家に帰る。別に恋女房が待ってるわけではない。週末にあった四天王寺と天神さんの古本まつりでの買い物が段ボールで届くのである。多少重たくても気張って持って帰るつもりだったけど、久々の市でやはり浮かれ気分であったらしい。結果的には持って帰れないほどの量を買い込んでしまった。

 この二つの古本市は、場所も良いので特に心がはずむ。二〇一六年の大阪にあっても一等歩き甲斐のあるのはこの、四天王寺から谷町筋を北に上がるコースではないか。もっとも当方は両手にいっぱいの本を提げながら二つの古書市を掛け持ちという状況だったから、天王寺のぐるりで、家隆の塚と愛染さんを巡っただけで後は地下鉄に乗った。ちょっといけそうな食べものやと飲みやをまだ見つけられていないのを遺憾とする。ま、神戸から天王寺はなんといっても遠いですからね、頻繁に歩き回って馴染みの店をつくるという訳にはいかない。いや、三宮に出なければなんとかなるかしら。

 天神さんを出たのが四時前。この日夕飯を誘っていた友人が来られなくなったため、東西線に乗ってとりあえず福島に出る。なぜこんな半端な場所で降りたかというと、友人と「も少し福島を発掘しよう」と言い合っていたからである。ではあるが、午前からずっと古本の山を見て回るのはひどく疲れるもので、駅から出ると新規開拓の気も失せて鮨の『あま野』に電話をかけてみる。ま、予想したことながら、予約でいっぱい。こうなると余計にくたびれがのしかかり、折しも吹き始めた夕風の冷たさにくにゃくにゃとくずおれるようにして、福島天満宮側の『花くじら』なるおでんやに入った。じつはここも友人に以前聞いていた店だったが、「おでんで熱燗」の殺し文句が頭に浮かんだ瞬間、どうにもたまらなくなったのですな。

 えらい繁盛店らしく、四時半を過ぎたところというのに、店は客であふれんばかり。しかも前にはずらっと列が出来ている。
 おでんそのものは格別の味というほどではないけど、なにせ安い。今時コロが六百円で食べられるのは(しかもおおぶりのやつが串に二切れ付いている)、大袈裟にいうと奇跡にちかい。これでさっと入れるなら言うことないんだけどな。行列に並んでまでものを食うというのはどうもぞっとしない。

 古本市の本が届くという話でした。晩酌に燗酒を酌みつつ(こういう、急に寒くなってきた時候の晩には黒松剣菱の人肌燗がことのほかおいしい)、一冊ずつ収穫を確かめていくのは何よりの気分。恋女房よりいいものかもしれない。こんなこと言ってるからダメなのですが。

 この日はモガニと鱧。モガニとはモクヅガニのことで、つまりは上海蟹と同じことですから、ま、あれほどあぶらしたたる美味とは言わずとも、塩蒸ししたメスの腹のミソはじつに旨い。菊膾があればなおのことよろしかっただろうな。鱧は付け焼きと吸い物(大分で買ってきたクロモという香ばしい海草としめじと青柚)で。ゆっくり呑みながらだとすぐ腹が一杯になるので、それぞれ半分は明日の朝飯とする。野菜はまだ高直が続いてるが、料理するのがいっそう愉しみな時季になってきた。

 本の方は消化した分からまたご披露していきます。新刊で買った本や図書館の本のあるからなかなか進まない気はするけど。

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