うを・しる・もやしもん

 『海月』敬士郎さん夫妻のお誘いを受けて、鈴蘭台『ピエール』へ。途中「すずらん吉田」(酒店)に立ち寄る。ここにあったんですな。アヤシイ感じの立ち飲みコーナーが店の奥にある。こんど行ってみよう。


 『ピエール』さんのスープが旨かった。コンソメなのだが、具がふかひれと夏草(漢方で使う冬虫夏草ですな)で、そこに箱ごとどさっとテーブルに置かれた海胆をスプーンで入れて食べる、という仕立てなのである。なんとなくちまちま入れていると、シェフから「もっとどーんと入れていいのですよ」と託宣がくだる。こうなるともう、フレンチなんだか中華なんだかよう分からんのであるが、ま、敬史郎さんの料理だって中華?と疑うことも多いしな。かめへんかめへん。旨いもんを食って気分がいいから、鷹揚なものである。


 『海月』関連の話題をもうひとつ。敬史郎さん肝煎りによる企画「蜃景樓」。名前の通り、一夜限りの店で場所は元町にある「ヒトトバ」というハコを借りて行ったもの。敬史郎さんは洗い物などに回り、友人の料理人ふたりが腕をふるうという形だった。点心のひとつひとつがまことに美味く、他にも広東式脆皮鶏だの烏賊の紹興酒漬けだの、酒の肴にもってこいの料理もあって、ワインや清酒で堪能しました。次来たらもうこの店は見当たらない、というその風情もいいね。竜宮城か桃源郷で呑んでるみたいである。もっともなんだか次回の企画も立ってるみたいだが。


 シェアキッチン、というこのシステム、若手が挑んだり、中堅以上が実験したりするのにうってつけ。いっちょう儂もやってみるか。どんな店にするかって? 無論《干もの、汁もの、なしもののいっぱい飲み屋》に決まっている。注して言う、ナシモノとは塩辛など発酵系の酒肴のこと。まずは拙宅で「実験」してみます。ご関心のある向きはお問い合わせ下さい。


 家では小鍋の機会が増えた。ひとり者が献立を考えるのを無精してるには非ず。書いたように、汁ものは清酒のアテとして最高で、しかも出汁・具材・薬味の取り合わせで、種類は実際上無限というに均しい。


 となれば、具材は逆に豊富であってはならぬ。それはよくいえば「週末の家庭団欒料理」、はっきりいえば「不見転の貧乏料理」に過ぎなくなってしまう。池波正太郎の戒める如く、一種か二種にとどめておかねばならぬ。というより、その方が実際旨いと思う。


 従って、理想は湯豆腐となる。薬味は葱・おろし山葵・焼き海苔・胡麻・茗荷・擂り生姜・柚子胡椒・山椒佃煮・柚子・梅干・おぼろ昆布の小皿をずらっと並べる。味付けは生醤油の他、塩や胡麻油、練り味噌などで一口ごとに趣向を変える。豆腐は木綿。風雅のようだが、興にのったら二丁食べてしまうのであるから、あまり風雅でもありません。


 その他に気に入ってる仕立てとしては、

○豆腐と蛤・・・池波正太郎の本で覚えたのかな。我が家では剥き身ではなく殻ごと。出汁は昆布と酒。薬味は柚子か山椒。この時の豆腐は絹ごしが好き。
○豚と菠薐草・・・池波さんは「常夜鍋」として紹介してたはず。豚はロース。出汁は昆布。そこに大蒜と生姜を一かけずつ浮かせる。田辺聖子さんの本で、向田邦子発明と紹介して、絶賛していた。たしかにびっくりするくらい旨くなる。
○きのこ・・・きのこだけ。スーパーであるだけのきのこを買ってくる。出汁は鰹と昆布。吸い味薄めで調味。薬味は七味、山椒、柚子。
○鱈と白葱・・・鱈は霜降りして綺麗に掃除しておく。出汁は昆布。ポン酢醤油に紅葉下ろし、でしょうな、これはやっぱり。
○鳥モツと三ツ葉・・・鳥モツは茹でこぼししたあと、薄切りにして水にさらす。出汁は鰹・昆布。酒醤油で吸い味程度に味付け。薬味は山椒、時に胡椒なども面白い。鳥モツの代わりに焼き穴子でも。

 二種類以下、の中での龍虎と称すべきは鯛蕪、および鯨コロと水菜となりますが、両者とも下ごしらえに結構手間がかかるので、どうも「小鍋だて」という雰囲気にはそぐわない気がする。

 さて、最近読んだ本。
○クレイグ・クルナス『明代中国の庭園文化 みのりの場所/場所のみのり』(中野美代子中島健訳、青土社)・・・今回の秀逸。軸は二つあって、一つめは中国庭園論に歴史的視点を導入すること、次に美意識や哲学以外の、経済的視点を導入すること。「経済」とは、庭園で採れる果実・蔬菜等が莫大な収入をもたらした、ということである。ナルホド。今まで、唐山の詩人が何かと言えば「我が庭の畑を耕し水をそそぎ」とうたっているのがも一つぴんと来なかったのだが、あれはポーズ以前に実質的な意味があったんですね。たとえば、柳宗元。この代表的な山水詩人にしたって、「渓居」では

久為簪組束/幸此南夷謫
閒依農圃鄰/偶似山林客
曉耕翻露草/夜榜響溪石
來往不逢人/長歌楚天碧

と農作業にいそしんでいる。あちらの場合、詩人=知識人=官僚=地主であるわけだから、土地は確かに収益の最たる手段なんだな。『図像だらけの中国 明代のヴィジュアル・カルチャー』という新刊も面白そう。とほめた上で、クルナスがさんざん揶揄するところの、ステロタイプの中国庭園論、つまり元型たる桃源郷の地上的再現としての庭園、というイメージにはやっぱりうっとりしてしまう、と告白せざるを得ない。これをしもオリエンタリズムというべきか。
○『旅と日常と』(「フランス・ルネサンス文学集3」、宮下志朗他編訳、白水社)・・・東方トルコへの旅での見聞を綴った『異国風物誌』は晩酌しながら拾い読みするのに最適。でも『アンリ三世治下の日記』となるとそうはいかない。血みどろの話題が多いせいもあるけど、有為転変のおもしろさに、酒の方が疎かになってしまうから。このシリーズ、おすすめです。
石牟礼道子『完本春の城』(藤原書店)・・・石牟礼版「島原の乱戦記」。『椿の海の記』の愛読者としては、農民・漁民たちの幸福な生活があの本くらい書き込まれていたら、反乱に至る心情がもっと切実に迫ってくるのになあ、と思う。
○ウィリアム・マリガン『第一次世界大戦への道 破局は避けられなかったのか  1871〜1914』(赤木完爾・今野茂光訳、、慶應義塾大学出版会)・・・これも今回の秀逸。大戦直前までは誰もがこの平和はまだ続くだろうと思っていて、しかも開戦すると一斉に「やっぱり戦争になると思ってた」と言説が翻るのがおそろしい。心すべきことにこそ。
福田逸『父・福田恆存』(文藝春秋)・・・恆存にチェスタトンを教えたとは自分だ、という文章に一驚。また晩年の恆存の衰老の有様を冷静に描いていく一章もあり。それにしても福田恆存のようなカミソリ型の知性は、老耄すると余計に悲惨なものですな。
中村小山三『小山三ひとり語り』(小学館)・・・小山三丈の語り口は快く、へえという話も多いが、インタヴュアーはもう少し構成や質問に工夫したほうがよかった。
○デイヴィッド・ホワイトハウス『図書館は逃走中』(堀川志野舞訳、早川書房)・・・いじめられっ子。母の死。父からの虐待。友情と別離。障害を持つ女児。出奔。逃走。ヴァガボンドとの邂逅。家族ごっこ。北の古城。父との対決。炎上とハピーエンド。この道具立てについて論うことはしないが、せっかく移動図書館で逃走する男の子、という魅力的な主題なんだから、どういう本を読んでどう成長(ないし退歩)したか、もっとじっくり付き合わせてくれよ。途中挟み込まれる寓話仕立ての章も噴飯物の出来。
○フランシス・ギース『中世ヨーロッパの騎士』(椎野淳訳、講談社学術文庫
タイモン・スクリーチ『江戸の大普請 徳川都市計画の詩学』(森下正昭訳、講談社学術文庫
○マッシモ・モンタナーリ『イタリア料理のアイデンティティ』(正戸あゆみ訳、河出書房新社


 いつになったら岩波文庫新訳の『荒涼館』に取りかかれるのやら・・・。

 

 

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この世の外なら何処へでも

 旧師が講演をするというので、大学へ。先生の語り口は二十年前のままだった。主題は源氏物語「野分」巻の「あくがるる心」をめぐって。「あくがる」(現代語形だと「あこがれる」)、今は「理想的な対象に心惹かれる」という形而下的な使い方が主流となってしまったが、本来はこの語、「魂が自分の身から離れてさまよう」という意味だった。「野分」巻における「あくがる」の用法を精細に観賞していくという流れの講演で、冒頭にドイツロマン派を持ってくるところもF先生らしい。浪漫的な気質、殊に「あくがる」という側面に鋭くひびいていくご自分を、凝っと見つめているという趣であった。
 旧師に引き比べるのはおほけなきことながら、離魂の癖(へき)、鯨馬にも少なしとせず。先生の口調はユーモアを交えたものだったが、所々胸を抉られるような思いがした。
 講演後はせっかく六甲に来たのであるから、『彦六鮓』で呑む。学校へ行く前に、近くの「フクギドウ」で開催中のやちむん展に寄り、登川均さん作の酒器と、鉢を買っていた。『彦六』で無理を言って、その酒器で燗酒を出してもらう。ぐい呑みに注ぐ時の音が魂に滴るようでありました。
 二軒目は先生方と合流して三宮。文学の話をこれだけ語ったのは久々という気がする。

石牟礼道子『花びら供養』(平凡社)・・・渡辺京二編。
河出書房新社編集部編『池澤夏樹、文学全集を編む』(河出書房新社)・・・講演の前日に手に取った本。偶々だが、『源氏』訳を続けている角田光代さんが、先生(解題を書いている)について触れていた文章に出会って何となく嬉しかった。
○内田洋子『十二章のイタリア』(東京創元社)・・・エーコ追悼と本での村おこしを描いた最後の二章が面白い。ヴェネツィアで出版業が盛んだったのは知識として持っていたが(代表的な出版人であるアルド・マヌツィオの伝記を読んだおぼえがある)、リアルト橋のたもとから聖マルコまで書籍の店が続いていたとは知らなんだ。それにしても、ヴェネツィアのことを書いているだけで、「あくがるゝ」心地になるのはなぜでしょうね。
○スティーブン・バックマン『考える花  進化・園芸・生殖戦略』『感じる花 薬効・芸術・ダーウィンの庭』(片岡夏美訳、築地書館)・・・味が薄い。思えばエーコ教授のような超弩級のエンサイクロペディスト(かつ魅惑的な語り手)はほんとに見当たらなくなった。
○マリオ・インフェリーゼ『禁書 グーテンベルクから百科全書まで』(湯上良訳、法政大学出版局
○クラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデ『写本の文化誌 ヨーロッパ中世の文学とメディア』(一條麻美子白水社)・・・中世のインクって茨から作ってたんですな。
○マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話 その形と本質』(小澤俊夫訳、岩波文庫
池上永一『黙示録』(KADOKAWA)・・・『テンペスト』があまりに面白かったもんだから、「それを越える傑作」とか言われるとかえって不安で避けていた。でも読んでみるとやっぱり凄い。与那城王子という、『テンペスト』の聞得大君みたいな怪物的キャラクターが登場して、「俟ってました!」という感じ。主筋にはあまり絡んでこないのだが、小説家が出したくて仕方ない、という感じがよく伝わってくる。
○藤田正勝『日本文化を読む 五つのキーワード』(岩波新書)・・・西行の「心」・親鸞の「悪」・兼好と鴨長明の「無常」・世阿弥の「花」・芭蕉の「風雅」だそうである。へへえ、恐れ入りました、という感じである。
○浅野秀剛『浮世絵細見』(講談社選書メチエ
○松本郁代『天皇の即位儀礼と神仏』(吉川弘文館
○ブアレム・サンサル『2084世界の終わり』(中村佳子訳、河出書房新社)・・・「2084」は「1984」から一〇〇年後。お分かりのようにオーウェルの『1984年』を先蹤と仰ぐディストピア小説である。破滅的な世界戦争のあと、「徹底的かつ決定的な勝利」(どっかの独裁国家のニューステロップみたいやな」)を収めたある宗教が治めるアビスタンという単一国家が世界を覆い尽くしている(とアビスタンは主張している)。崇拝されるのはヨラー(!)なる神とその「代理人」たるアビ。巧妙かつ容赦ない宗教=政治の監視システムの中で人々の思考は完全に停止。辺境のサナトリウムから帰還したある青年が、世界の真実と自由とを求めて聖なる都へと侵入する―――とまあ、鯨馬はこのオビの紹介に惹かれて読んだのですが、どうもいけない。ディストピア小説は大概退屈なものだけど、この新作も喜ばしき例外とはなれなかった按配である。世界のシステムを説明しよう説明しようとするあまりに、小説としての動きが無くなってしまうのがこのジャンルの欠点で、『2084』もなんだかWikipediaで新作RPGの梗概を読んでるような味気なさが残った。第二に、これははじめの疵とも結びつくのだが、主人公が行動しない。一つだけやってのけるのだが、その後はまるで某朝の連続テレビ紙芝居、じゃなかった、連続テレビ小説のナレーションを聞いてるがごとき進行で、とはつまり、結局は紙芝居なのである。そして第三にこれだけ枚数を使って世界の解説をしてる割には、それが生々しく迫ってこない。むしろ、徹底した寓話、ないしは神話的な方向性を狙うべきではなかったか(ブッツァーティや『シルトの岸辺』のジュリアン・グラック)。作者はアルジェリア政府の厳しい監視下にあって創作活動を続けているそう。その勇気には敬服の他ないけれど、『服従』を嗣ぐ作品とは到底申しかねます(ウエルベックがオビでそう推薦しているのだが)。しかし、今や《世界》を描くには宗教はやっぱり不可欠の主題なんだなあ、とそれだけが妙にリアルに実感できた。いっちょオレが書くか。

 

2084 世界の終わり

2084 世界の終わり

 

 

 

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肉名月

 名月の夜、大学の後輩で連句の連衆でもある里女さんの誘いで焼肉へ。風雅にシマチョウを炙り、優美にハラミを噛みしめたりする。酒の途中で店の外に出て空を仰ぐと、主役は真っ白に照り映えておりました。ビルの合間の明月(と書きたい)には独特の風情があって、これはこれでいいもんですね。


 名月や腥(なまぐさ)き話の出る気配   碧村


 新聞書評欄の下に、『丸山健二全集』の広告が出ていた。全100巻というのも尋常ではないが、「全巻書き下ろし」とあるのに目を剥いた。旧作全てに手を入れるということだろうか。小説家として健全な情熱かどうかは分からないが、とんでもないことが始まった、という気がする。

 なんだか、今回は新聞書評で取り上げられた本が多い。以前は大新聞なぞより小回りがきくこちらこそが先手を打ってやる、と意気込んでいたものだが(しかし何の「先手」だというのだ)、今やそうした衒気(覇気)も無し。坦々と記す。

○玉置標本『捕まえて、食べる』(新潮社)・・・巫山戯てんだか真面目なんだか。ま、ともあれホンオフェ(発酵させたエイの刺身)まで作るのはすごい。
○アンジェラ・アッカーマン、ベッカ・パグリッシ『場面設定類語辞典』(滝本杏奈訳、フィルムアート社)・・・これも初めはシニカルなジョークだろうと思っていたところ、どうもそうでもないようなので、気味悪くなる。ま、読む方は冗談と思って読み飛ばせばいいのですけど。アメリカの風俗研究としての価値の方が高いのではないか。
○槇佐知子『「医心方」事始 日本最古の医学全書』(藤原書店)・・・言うまでもない、『医心方』全訳(これぞ偉業!)を成し遂げた著者による入門編。
○ステーィヴン・キング『死の舞踏 恐怖についての10章』(安野玲訳、ちくま文庫)・・・単行本は出た時に読んだ。文庫版には長大な序文が付き、さらに翻訳・映画・ヴィデオの「書誌」情報も充実している。キングはこういう時、実に健全に思考をすすめる(先輩同僚の作家たちに手紙を出して、直接疑問点を質したりしている)。それがまたキング一流の無愛想な文体で書かれるのだから、なにかこう、嬉しくなってしまうんですな。「よ、百鬼屋!」と声を掛けたくなる。
野口冨士男『感触的昭和文壇史』(講談社文芸文庫)・・・素人にとっては面白い読み物であるが、これもキング著同様、一行辺りの、というか行間の情報量がすごいんだろうな。風呂でちびちび読み進めている。
小笠原豊樹訳『プレヴェール詩集』(岩波文庫)・・・解説を谷川俊太郎が書いている。ナルホド。
小林信彦『わがクラシック・スターたち』(文藝春秋)・・・「本音を申せば」シリーズ最新刊。いやあ、文章枯れたなあ。それでいてひとり合点なとこは全然消えてないのが偉い。言うまでもなくこれは褒めているのです。
古井由吉楽天の日々』(キノブックス)・・・古井さんの文体も老来益々古井節。どことなく不気味なユーモアが随所で噴出する。
冨田恭彦『カント哲学の奇妙な歪み 『純粋理性批判』を読む』(岩波現代全書)・・・『純粋理性批判』を読む必要が出来した。カッコよく「十年ぶりに読み返す必要が・・・」と書きたい所だが、字義通りの「積んどく」。で、竹田青嗣さんの『超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』』(講談社現代新書、こちらは再読。おっそろしく明快に全篇を「解読」しています)を地図代わりに、それに新しい副読本として選んだのがこの本。「物自体」のアイデアがどこから来たのか?など、がっちがちに見えるカント哲学の中の「遊び」を衝いていく。重箱の隅をつついてるんではなく、そこに新たな問題を発掘し、提示してくれている。
福田和也『鏡花、水上、万太郎』(キノブックス)・・・久々の文芸批評なのだそうな。ふうん。
合田正人『入門ユダヤ思想』(ちくま新書)・・・ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という読後感。ちぎられているのは主題。
○栗山善四郎『江戸料理大全   将軍も愛した当代一の老舗料亭300年受け継がれる八百善の献立、調理技術から歴史まで』(誠文堂新光社)・・・何度も書いているが、屈指の政治都市だった以上、京都より大坂よりも江戸のほうが正餐に当たる料理は進化していたはずである。それと、後発都市ならではの野鄙な部分(「いき」とはそれへの居直り以外の何物と言えるか)との奇妙な混合が、おそらく「江戸料理」固有の魅力である。この本で改めてそれを実感した。素材・調理法・盛り付け・器の趣味、全部を引っくるめて「京料理」でも「茶懐石」でもない江戸料理らしさがある。刺戟された向きは、臨川書店から翻刻で出ている『料理通』(江戸時代の八百善主人が執筆した献立&レシピ集)に就いて見られるべし。鯨馬も一度拙宅にて「素人包丁・江戸料理の会」をしようと真剣に考えている。

 大物二点は「見逃し」。アンガス・フレッチャーの『アレゴリー』(白水社)と西田耕三『啓蒙の江戸』(ぺりかん社)である。飲み歩いてるバヤイではありません。

 

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奇襲のキッシュ

 まだまだ中華フィーヴァーが止まらない。先週木曜日には、海月夫妻と住吉『自然派中華クイジン』さんへ。

 敬士郎さんの覚え書きを拝借して、献立を記す。
・鯨の椒麻ソース、秋鮭雲呑のみぞれソース、よだれ鶏、シャコの香味醤油、叉焼肉、牡蠣のベーコン巻金砂粉、海老と枝豆の紹興酒漬け
・子持ち鮎の揚げ物ハイビスカスソース
・秋刀魚のトウチ蒸し
・豚足と冬瓜の白湯煮込み
・牛すじ入り麻婆豆腐
・ライチをお肉で巻き込んだ黒酢酢豚
・鱧と湯葉と松茸のあんかけ炒飯
・南瓜と金木犀の焼きアイス〜ココナッツアイスのせ、ピオーネとクリームチーズのゴマ団子、杏仁豆腐梨のソース、無花果のアイス

 敬士郎さんの「解説」を聞きつつ、芝田シェフの料理を愉しむ(一体に野菜の使いかたが上手で感心した)。イチローの解説付きでメジャーリーグの試合を観戦するようなものか。または中村元さんのガイドで水族館を見て回るようなものか。友人と話しながらの食事はいいもんである。

 二軒目、敬士郎さんが連れて行ってくれたバーも良かった。神戸駅近くなのでまた行けるね、ここは。


 土曜は呑み友だちの誕生日ディナーを『海月』さんで。

・前菜盛り合わせ(海鮮ユッケが旨かった。卵黄を紹興酒に漬けるというのが面白い)
・バターナッツかぼちゃと干し貝柱のスープ
・揚げ物(松茸と鱧の春巻、オクラの花で麻婆茄子を巻いたもの)
・足赤海老のチリソース
・アコウの姿蒸し
・秋刀魚の燻製のアクアパッツァ
・鴨とクレソンの炒め物
・キッシュ

 このキッシュが一種の傑作であって、というのもオッサンふたりでもあり、「デザートは抜き、それでどこかに誕生日祝いの要素を」と敬士郎さんに注文していたのだが、正直どうなるんだろうと思っていたところに、このキッシュが出てきたのである。中身は上海蟹の身のほぐしたもの。吊り橋型(?)にメッセージをぶら下げた蝋燭を灯して登場。風伊氏も「これ、面白いわー」と大満足だった。洒落た趣向である。


 偶然の機会に恵まれ、この日、敬士郎さん夫妻との次回のお出かけ予定も決まる。


 という感じですこぶる気持ちよく食事と酒を堪能したのでしたが、食中一度風伊氏と言い合いになった。○○、とこちらの名をあげて、「影響で、少しは意識高い系になれた気がする」。


 ファシストとか破廉恥漢とか言われるならともかく(幸いどちらでも無い、と思う)、「意識高い系」とは当方の人としての体面に関わる、前言撤回ありたし、と反論したのである。


 「エコ」だの「ビオ」だの「オーガニック」だの「手づくり」だのということば(咒文?)を見ると、何かひどく禍々しい、邪悪なものを目にしたように、えづきたくなる(そう言えば、『エコエコアザラク』てマンガがありました)人間に「意識高い系」とは手ひどい侮辱ではないか。


 一体に虚弱体質の方であって、「反戦」「護憲」と聞くと頭痛目眩に襲われ、「市場原理」「スキルアップ」と聞くと蕁麻疹が出て、「愛国」「保守」と耳にすれば途端に腹を下してしまうのである。カラダ弱いネン。


 では如何なるものならアレルギー反応出でざるや、との風伊氏の問にしばし黙考して曰く、「『濡れ手で粟』。」なりとぞ。

 

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大楠公と大阿利襪

 「第四三回東西落語名人選」(神戸文化ホール)。


柳家三三「もと犬」
○笑福亭仁智「老女A」
柳家さん喬「棒鱈」
桂福團治悋気の独楽
 中入り
月亭八方「高津の富」
柳家小三治粗忽長屋
という番組。


 さん喬師=歌がうまい。福團治師=御(ご)寮(りよ)人(ん)さんが丁稚を問い詰めるところ、「嘘ついたら、血ィ吐いて死ぬし」のせりふ。「死ぬし」が可笑しい。落語はやっぱり、ことばだなあ。八方師=鳥取在の親爺の小ずるいところが良く出ている。噺家の像と重なってるんだろう。小三治師=志ん生ならシュールな味わいになるところ、江戸ことばのやり取りが妙にリアルで可笑しい。ともあれ小三治さんがお元気そうで何より。


 小三治さんが、噺の前に「もう四三回ですか・・・」と、阪神大震災直後の手弁当での公演(文化ホールは壁に損傷があって公演不可だった由)や、春團治の生前の思い出をしっとりと語っていた。


 こちらも、志ん朝の「へっつい幽霊」が素敵に面白かったなあ、と思い出す。


 公演の後はすぐ南の湊川神社で開催中の「KOBE OLIVE NEXT150」なるイベントをのぞいてみる。明治の初め頃、北野にオリーヴ園があったのは知っていたが、園中の一本とおぼしき樹が楠公さんの境内に移植されていたとは初耳。あまり詣でることが無いお宮だからなあ。


 さて、何よりもまずオリーヴを見る。ビルの二階を越しそうな高さに驚く。オリーヴの老樹は佶屈として横に匍うように伸びるものとばかり思い込んでいた。実もびっしり生っていたけれど、現在ゾウムシの被害にあって治療中とのこと。樹勢が戻ったらまた見に行きたい。いいものを教えてくれた。


 主役たる橄欖翁の周囲にはしかし、ほとんど見物客はいない。みな白やら赤やらワインの入ったグラスを手に、屋台を回っている。こちらも昼酒すべいか、と歩いていくと、「海月」の岩元夫妻に声を掛けられた。ランチ営業の後来たのだそうな。二、三時間後には店を開けるというのに元気ですなあ。


 スブラキとギリシャの白、鶏肝のコンフィとスペインの白などでちびちびやりながら、敬士郎さん夫妻としばし談笑。木曜日には夫妻と遊ぶ予定なので、その打ち合わせもする。


 夕景、「海月食堂」でマッタケと鱧の春巻やら秋刀魚燻製と茄子の和えそばを堪能したことは申すまでもございません。

小野佐和子六義園の庭暮らし  柳沢信鴻『宴遊日記』の世界』(平凡社
○高津孝『江戸の博物学 島津重豪と南西諸島の本草学』(ブックレット「書物をひらく」、平凡社
○平野惠『園芸の達人 本草学者・岩崎灌園』(ブックレット「書物をひらく」、平凡社
○近藤三雄・平野正裕『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化 : 秘蔵資料で明かされる、現代園芸・緑化のルーツ』(誠文堂新光社
○菅野博貢著・写真『世界の庭園墓地図鑑 歴史と景観』・・・何かというと「世界一○○」という形容が出てくるのが耳障りという欠点はあるにしても、常に現代日本での葬儀・埋葬事情に還元して現実的な提案をしているのは、良い。鯨馬はオークか胡桃か(オリーヴ)の下に埋めてほしいなあ。
○山田雅重編『日英ことわざ文化事典』(丸善出版
ジェシーベーリング『なぜペニスはそんな形なのか ヒトについての不謹慎で真面目な科学』(鈴木光太郎訳、化学同人)・・・訳者が言うとおり、「生煮え」の論考多し。自分がゲイ、という言及も多過ぎ。ゲイだろうがヘテロだろうyが、自分の性的嗜好をしつこく言いつのるのは如何なものか。
○ジョン・コーンウェル『ヒトラーの科学者たち』(松宮克昌訳、作品社
★保苅瑞穂『モンテーニュの書斎 『エセー』を読む』(講談社
○桃井治郎『海賊の世界史 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで』(中公新書
宮田昇『昭和の翻訳出版事件簿』(創元社
ジーン・ウルフ『書架の探偵』(酒井昭伸訳、早川書房

★・・・今回のイチ押し。

 

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人に告ぐべき鰯雲

 九月に入った途端、近年の長い長い残暑に慣れた感覚からすれば嘘のように清爽な気候に切り替わった。おまけに義理堅くも鰯雲さえ浮かんでいて、こんなに順調に秋になってもいいものかしらん、と思っていると、案の定翌週には蒸し暑い空気が戻ってきたのになんとなくほっとする。こういうのは悲観主義というのでしょうか。貧乏性? それも変か。


 ペシミストだろうがニヒリストだろうが、乾いた風の快くなかろうはずはないので、友人のまると二人、夕景から深夜まで飲み歩いていた。日本には度々来てるようだが、こちらが会うのは久しぶり。久闊を叙し、ドラクエの進捗状況を確認し合い、最近出会ったいける本・食い物の月旦に及ぶ。池内恵氏がいい仕事をしている、とは二人の一致した感想だった。


 この日は(も)海月食堂で敬士郎シェフお任せのコース。「最近ハマってる店に連れてけ」というリクエストだったら、まあ、そうなるわな。

○前菜・・・ザーサイ、フカヒレ軟骨とラディッシュのマリネ、しめ鯖(鯖のマリネというべきだろうか)、ゴーヤとミニトマトのピクルス、よだれ鶏、牡丹海老の紹興酒漬け、神戸ポークの塩チャーシューとクリスピー焼き、すだれ貝と秋刀魚の燻製
○揚げ物・・・帆立と蟹のすり身(バジルソース)、松茸の太刀魚巻
○スープ・・・干し海鼠と雲南ハムの酸辣湯
○海鮮・・・淡路産鮑の塩炒め
○焼き物・・・神戸ビーフのステーキ
○蒸し物・・・冬瓜で巻いた海鮮二種(蟹と、鱧・松茸)
○食事・・・フカヒレあんかけご飯

 まる氏は一週間ほどかけて広州と香港を回ったそうな。羨ましい。長期休暇は中華食べ歩きとするか。


 季節は実は関係ないのだけれど、涼しくなると読書が捗るような気がする。


○ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』(不二淑子訳、太田出版)・・・自分に小説の才があれば是非書きたいな、と思っていた材料のひとつ。研究書としては、ま、ポスコロの模範的解答というとこでしょうか。
林望『役に立たない読書』(集英社新書)・・・翻訳や現代語訳は自分は読まない、と切り捨てながら林望訳『平家物語』の訳文を堂々と引いているのは冗談なんだろうか。毎日の書評で褒めてたけど、リンボウ先生の本として推したくなるものではないと思うよ。
○『世界自然環境大百科 ステップ・プレイリー・タイガ』(朝倉書店)・・・ステップの途方もない肥沃さ。地味(ちみ)が文明のあり方を決める、とさえ考えたくなる。
大澤真幸『世界史の哲学 近世篇』(講談社)・・・相変わらずキラキラした文章。
○ローズ・トレメイン『音楽と沈黙 上下』(渡辺佐智江訳、国書刊行会)・・・前作『王と道化』の玲瓏たる趣はない。音楽がもたらす霊的な陶酔を描き抜けなかったところに問題があるか。思えば『ラモーの甥』はそこらへんを巧く処理していたのだ。
○フィリップ・フォレスト『シュレーディンガーの猫を追って』(沢田直・小黒昌文訳、河出書房新社
○ルイス・ハラ『日系料理 和食の新しいスタイル』(大城光子訳、エクスナレッジ)・・・案の定、というか韓国系も(日本で言うところの)エスニックもごちゃ混ぜになっている。アジア的混沌というところか。
板坂則子『江戸時代恋愛事情 若衆の恋 町娘の恋』(朝日選書)
○『橋本治歌舞伎画文集 かぶきのよう分からん』(潮出版社)・・・絵がうつくしい。河内屋の三代目とか、気に入ったのを額装したくなる。
服部幸雄編『歌舞伎をつくる』(青土社)・・・大道具や小道具などから見た歌舞伎演出論。
○小谷喜久江『女性漢詩人原采蘋詩と生涯 孝と自我の狭間で』(笠間書院
川本三郎老い荷風』(白水社
○マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか 250万年の愛と妄想のはてに』(小野木明江訳、インターシフト、合同出版発売)・・・ベジタリアンについてはしつこいぐらい言及するのに、魚食についてほとんど触れることがないのはどう考えても片手落ちでしょう。多種多様な角度からどんどん仮説を立てては投げ捨ててゆくというスタイル(当然結論は出ない)。ま、神戸ビーフのステーキ食べた後からすれば、結論は明白で、「それは旨いからである」。
○ルース・グッドマン『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで 上下』(小林由果訳、原書房)・・・紹介された話からひとつ。当時共稼ぎが多かった中流下層の家庭では、家に置いていく(預けたり子守を雇う余裕は無い)乳児をおとなしく寝かしつけるのに、アヘンチンキ入り(!)のシロップを飲ませていたらしい。大学で専攻した人間としては、自然と同時代たる我が江戸文化と比較したくなるのだが、どうも江戸に軍配が上がるような気がする。江戸人のほうが合理的だったというわけではない。同じように迷妄に囚われていても、それを「文明の進歩」「下等民族の解放」などというイデオロギーと結びつける傲慢があるかないか、という点である。
ウンベルト・エーコウンベルト・エーコの小説講座 若き作家の告白』(和田忠彦他訳、筑摩書房)・・・書名通り、じつに若々しい講義(全篇にあふれる、「もひとつ」なユーモアもまた好もしい)。『薔薇の名前』一冊でも充分に明瞭だが、やっぱりエーコさん、「列挙」が好きで仕方なかったんですね。
安藤礼二・若松栄輔責任編集『増補新版 井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』(河出書房新社)・・・当方の井筒体験のはじめは中公文庫『イスラーム思想史』。高校世界史の授業でイスラームに興味を持って買ったが、読み始めてすぐに鎧袖一触で撃沈。「こりゃいかんわ」と講談社学術文庫マホメット』に。それでファンとなり、次いで書名に惹かれて買った『神秘哲学』は意外にもするすると読めて(無論内容が軽いわけではない)、そこからエリアーデやエルウィン・ローデなどにも手を伸ばしていったのだった。つまり、こちらにとっては「根源」の思索家というよりは、スケールのやたらとデカいそして、強烈な個性を持った啓蒙家、とはつまり最良の教育者として井筒俊彦は映っていたことになる。あまりにも深遠な思想家とてのみ語られがちなので(それはそうなのだが)、極私的な感想として申し添えておいた次第。

 

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夜泳ぐ

 須磨水族園の夜間営業へ。平日を狙っていったので、人は予想どおり少なめ。ゆっくり見て回った。アクアリウムの権威・中村元氏のように「この水族館の特質は・・・」なんぞと語る資格は無いけれど、ここは展示の方法やキャプションの文章が、巫山戯すぎず、かといって堅苦しくもなく、いい按配だと思う。もっとも説明を丁寧に読んで、魚介どもを心を込めて眺めている殊勝なやつなど、見回す限りでは居りません。いずこも同じスマホの撮影大会である。オバハン(乃至バアサン)三人が高価そうなカメラで海月をパシャパシャやって、なかなか水槽の前をどかないのには閉口。後でお互いの写真を見せ合って喜ぶのだろうか。ご同慶の至りと申すほか無なし。

 うっとりと眺めていると、「あっ、ここにショータの好きなシノノメサカタザメおるよー」と叫ぶ若い母親がいてずっこけた。最近シノノメサカタザメが流行りなのか。たしかに優美で魅力的な魚だが。

 「スマスイ60周年」の歩みの展示なぞを観ているうちにイルカショーが始まったらしく、館内から一気に人気が無くなる。当方はここを先途とお目当ての水槽を巡って歩くわけです。御年四十(!)歳にあらせられるガーの正面からのあくび顔や肺魚の呼吸の瞬間、もつれあったままひたすらじーっとしているオオアナコンダなど、存分に愉しんで園を後にした。もしわたくしに八百億円の宝くじが当たったならば、一日、当然夜も含めて水族園を借り切るであろう、と思った。

 周囲にもう少し食べるところがあるといいんだけど(友人が教えてくれた蕎麦屋はしまっておりました)。

 さて、八月最後の読書録。火星が飛ぼうがイルカが跳ねようが、本は読み続ける。と偉そうにいう量でもないが。


○武田尚子『ミルクと日本人』(中公新書)・・・初期の頃、お相撲さんが宣伝役に使われてたというのが可笑しい。
森まゆみ『暗い時代の人々』(亜紀書房)・・・文体が何だか強張っているように思うのは僻目か。題材ゆえに、というのではなく読むのがしんどかった。
○橋本毅彦『図説科学史入門』(ちくま新書
○大浦康介編『日本の文学理論 アンソロジー』(水声社)・・・結果的にはほとんど読んだことのある文章だった。それはともかく、詩論の部で、担当者(若い研究者)が「近代日本の詩論は《いい詩とは何か》に傾くきらいがある」ということを書いていた。「純粋に」詩の本質を追究する論考が無いということなのだろうが(明らかにそれを残念がる口ぶり)、世間(ここでは文学の現場という意味です)知らずの学者馬鹿の「研究論文」ならともかくも、詩人や(詩の分かる)批評家が書く文章に「詩はどうあるべきか」という問いの含まれないはずがなかろうが。当方が思いつく限りで、一等「純粋に」詩の本質を考究したのはエミール・シュタイガーだと思うが(『詩学の根本概念』)、そのシュタイガーにしたって、訳者の高橋英夫の表現では「ポレミック」な姿勢が明白なのだ。文学部無用論の喧しいご時世、こういう太平楽に接すると「結構なお道楽で」と言いたくなる。
四方田犬彦『漫画のすごい思想』(潮出版社)・・・時折「よっ!」と声を掛けたくなる名文句は出てくるものの(「つげ義春を論じる者はつげ義春を読まない者である」)、全体としては達者すぎる、ほとんどいかがわしいくらい達者な分析。この無表情さは何かのレトリックなのだろうか。
○ヴァーツラフ・フサ編著『中世仕事図絵 ヨーロッパ、「働く人びと」の原風景』(藤井真生訳、八坂書房)・・・以前紹介した、グレゴリウス山田氏の『ハローワーク』に刺戟されて読んだ本。中世ヨーロッパ(ただし資料はボヘミア周辺に限定)の人間にとって労働が神聖なものであったことがよく分かる。労働は呪いと考えている人間にとっては新鮮な驚き。
菊池良生『ドイツ三00諸侯 一千年の興亡』(河出書房新社)・・・高校で世界史を教わった時、神聖ローマ帝国の扱いがどうにも不得要領で困った覚えがある。今以てよく分からない。何故分からないかが、この本でよく分かった。こんな滅茶苦茶な「帝国」(なんと厳粛かつ滑稽で愛嬌のある帝国であることか)を教科書的に整理して叙述できるはずがない。著者の文章、かなり張り扇調が強く、そもそも日本語として意味の通じがたい箇所も散見されるが、ともかくエピソードの宝庫。
○『中井久夫 精神科医のことばと作法』(KAWADE夢ムック 文藝別冊)・・・随分前に拙ブログで、中井久夫先生=ルネサンス期のジグナトロギー(表徴術)の導師という見立てを披露したことがあった。この一冊を読み終えて、自分の直観が誤っていなかったことを喜ぶ。
スティーヴン・ミルハウザー『木に登る王 三つの中篇小説』(柴田元幸訳、白水社)・・・ドン・ファンを主人公にした一篇がいい。快楽の都ヴェネツィアで、女たちがあまりにたやすく誘惑され征服されることに倦んだドン・ファンが同地で知り合った英国人の邸宅に赴く。そこには当主の妻とその妹がいて・・・。途中、フォースターを連想させるような描写もあり、いろんな愉しみ方が出来る小説集です。
橋本治橋爪大三郎『だめだし日本語論』(atプラス叢書、太田出版)・・・当方、橋本治の本は出る度に読んでいるから、橋爪氏が橋本治を褒めあげるのは嬉しく読むのだが、全体を通してなんだか橋爪氏、タイコモチのようでもあり道化でもあり、なんだか可笑しくて仕方なかった。最近、この方、いささか軽量級の仕事が多いんちゃうかしら。