花粉症なのだが、これまで飲み薬は用いたことがなかった。そのせいだろう、家を出るときに飲んでみると、なるほどくしゃみも鼻水も目のかゆみを嘘のようにぴたりと止まり、おかげで上上吉の旅のすべり出しといいたいところだが、効果覿面なのは副作用もおなじこと、金沢行きの「サンダーバード」に乗り込んで、持参の文庫本を開くと、半ページもしないうちに眠気で墜落。そのまま福井の手前まで眠りこけていた。
もっとも目覚めたときには、車窓の外は一面の雪景色。これはうれしい驚きだった。
金沢到着は十一時前。朝はサンドイッチとコーヒーだけでかなり空腹だったが、ホテル(繁華街の片町の中心にある)まで荷物をあずけに歩きがてら散策することにする。といっても、どこかの観光名所に見物に行くわけではない。金沢に遊ぶのはこれで七回目。いまさら尾山神社や兼六園でもないだろう(もっともこの二つもいまだまともに見たことはない。毎度街中をぶらついては酒を呑んで帰ってくるだけのこと)。
幸いこれまでの金沢の旅では、当方の時間の都合やら向うの開店の都合やらで行けなかった古本屋を三、四軒ほど回ることが出来た。獅子文六や吉行淳之介の古い文庫本や大室幹雄の評論集など数冊を買う。
思いの外時間をくったので、昼飯にありついたのは一時もだいぶん過ぎた頃。近江町の食堂に入り、子持ち白魚の天ぷらやぶり大根やでビールを飲む。ここは、いったいに客あしらいのぞんざいな店で、バイトのオバハンが飲みかけのグラスを無言で持っていこうとしてそのまま「すいません」の一言もない(どなりつけた)。ただしさすがに場所柄魚は新鮮で量もたっぷり。ビールではこなしきれないので、地酒を一合だけ呑む。
飯と味噌汁とで食事を済ませ、近くの喫茶店でコーヒーを飲めば、実はこれでもうすることは何もない。
予定の無いのは気がゆったりするものだ。王者のような気分で(酔いのせいにあらず)、さらに古本屋を二軒のぞいたあと、金沢市立図書館に足を向ける。ここには近世史料館が併設されている。こちらが専門としている江戸の漢学者の著述何点かを閲覧し、メモをとる。
いい加減歩きくたびれたので、ホテルで小憩・・・一時間ほど眠ったあとシャワーを浴びて着替える。ホテルを出てまず向かう先は、浅野川を野町のほうに越えたところにある神明宮。神社そのものに格別の趣はないが、この境内には天然記念物の大欅がそびえている。これを見に行くのである。
これまで訪れたのは初夏や中秋のころが多かったので、葉叢は神域全体を緑陰にそめるほど鬱蒼としていたが、それでもやはり欅だから楠にくらべてずいぶん爽涼の感はあった。今回は雪もそこここに積もっているような時分で、もちろん葉はすべて落ちた後の枝があるばかり。それでも夜空を地に大枝小枝が展げる灰色の迷宮状の紋様はうつくしい。次はいつ見に来られるだろうか。
夕食はこの神明宮から北に歩いたところの『つば甚』、いうまでもなく金沢を代表する料亭の一つ。座敷に通ると、軸は千代女で「若草やまだどちらへもかたよらず」。花は椿。つぼみのかたいのを選ってあるのは「若草」の意か。床の傍らには古風な雛がかざってあった。なんでも芭蕉が加賀をおとずれたときに泊まった座敷をそのまま移築したのだとか。例によって献立を記す。()内は器。
・付出 飯蛸・飯子のジュレ、菜の花・蕨ぞえ。(乾山桜)
・吸物 蛤真蒸の姫仕立(輪島塗)
・造り 甘海老、なめら、さより、鮪、雲丹(古伊万里)
・八寸 生口子、烏賊黄味焼、才巻海老クリームチーズ巻、空豆甘煮、干柿、うぐいす諸胡瓜、平目昆布締め桜寿司、唐墨(輪島塗)
・焼物 のど黒幽庵、白梅貝温石焼(いしるを付けて食べる) (織部)
・蓋物 鴨治部煮、すだれ麩・金時草 (輪島塗)
・一品 筍木の芽焼、白魚・蕗のとうの天ぷら
・酢物 三宝柑、赤貝、蒸し鮑柚味噌 (九谷)
・留 土鍋ご飯、へしこ、だし巻き、香の物、汁
・果物 苺、メロン、石榴
・菓子 能登大納言最中
・生菓子 糸遊(かげろうのことである。春の景物。それを思わせるはんなりした緑色)、抹茶
座敷からみおろす位置にあるはずの浅野川はむろん夜闇に紛れてしまっているけれど、中庭の老松を照らす明かりの中に時々雪が降り込んでくる。この降りかたがいかにも北国。降るときには地面に垂直に突き立つように、激しく落ちかかってくるかと思うと空に蓋をしたようにぴたりとやむ。それが不規則な間で続いていくのである。それを眺めつつ杯を重ねる。あ、酒は前半は萬歳楽の大吟醸「口吉川」、後半は菊姫の山廃純米。
旅の空に、旗亭で夜の雪見酒。これで口占たちどころにならなかったら、千代女にも芭蕉にも申し訳が立たない。そこでふつつかながら一句。
春雪も乱拍子なり加賀の宿 碧村
さて、勘定はというと、高い。正確には安い額ではないということである。つまり、十畳の座敷に八畳の次の間が付き、絶妙のタイミングで部屋にあらわれる若女将のお酌で呑みながら上記の料理と考えたら、何も高いわけではないだろう、という値だということである。ちなみに、この若女将ではないほうの女将が一度挨拶に出たのを見てびっくりした。なんというか・・・あまりに典型的な、the女将という感じなのである。いかにも煮ても焼いても食えなさそうな面魂(という語を用いたくなる)に感心した。これは皮肉ではありません。
『つば甚』を出たのが九時過ぎ、外は雪がようやくちらほらまで収まりかかったところ、当方はほんのり酔い加減に入った所。結論を申せば、夜はこれから。さあ、香林坊か片町かどちらに足を向けようか。