備忘録

 下戸の人間が酒席にあってつくづく莫迦莫迦しいと感じるのは、いかに酒呑みどもが愚にもつかない話を楽しそうにしているか、だそうですが、酒を呑みつつ天下国家やはたまた文学芸術を論じるなど野暮の骨頂、というより、もっとはっきりいえば礼節を弁えないというものである。他愛もない話といっても、中傷や拙劣な猥談などがイケないことはいうまでもない。それに議論をしたい同士が集まってるなら話は別。

 つまり、下戸の観察には全面的に賛同しかねるところもあるのだが、酒呑みで話していてこれは何となく厭だなあと思うことはある。それは同じ話の繰り返し。

 むろんこれにも例外(というか品質の別)はあるので、噺家が得意のネタを持っているように、「よっ、来ましたね」と声をかけたくなるような場合―人柄と話柄の釣り合い、それに語りの「芸」が必要―は、どちらかといえば好もしいくらいだけど、大概はまたアレを聞かされるのかとうんざりするばかりである。

 別に酒を呑んでなくても同じこと、いや素面の場合ならなおさらそうだろう。何をいいたいかというと、当ブログも三年目に入り、どこかでこの話は持ち出したのではないか、と不安になること一再ならず。最近はすぐに自分の記事を検索して、「あ、これは大丈夫だ」「これは言ってしまっていた、残念」と確かめる癖がついてしまった。

 ま、桂文楽師匠(むろん故人のほう)の『素人鰻』や存命の方ならば桂米朝師匠の『はてなの茶碗』〔と書いたけど、『天狗さばき』にすべき?それとも『百年目』?〕のように、「鯨馬がまたあの話始めたよ」と聞く(読む)ほうで思って頂けるだけの話術がこちらにあればなんてこともないのですが。だいたい、読んだ呑んだのというせせこましい庭を耕すのにそうそう新しい地面を見つけられるわけがない、という考え方もできる。

 柄にもなく反省的になっているのは、週末久々に、吉田健一の『交遊録』および『書架記』を読んだせい。思えばヨシケンさんこそ、近代日本に冠たる、《偉大なる繰り返し》の達人であった。引用される作者も、また作品も決まっていて、論旨というか主張というかもまた百年一日の如く、その上それを語る文章がどこから始まっても、またどこで終わってもいいような、なめらかな光沢に浸された、水の流れのようなものである。

 にもかかわらず、あれだけいつまで読んでも飽きさせない文章というのは、これぞ文学の不思議というか、ともかくちょっと真似手のない至芸という他ない。

 五十年後の当ブログもそういう境地に達していたいものです。