ワタリガニ四杯を食す

 トシのせいか、給料日明けだってえのに紅灯の巷に繰り出すのもなんだか億劫で、代わりにスーパーに繰り出す。

 ワタリガニの、やや小ぶりとはいえ、メス二杯で500円は安い。ついふらふらとこれを2パック買ってしまう。あとはマナガツオ。それにミミイカ。ちょうど注文してたワインが届いていたので、今日は洋食にしましょう。

 まずミミイカのサラダ。ゲソを外しワタを洗ったら、ワインビネガーと塩を入れた湯で軽く湯がいておく。ブロッコリーも下ゆでしておく。ドレッシングはオリーヴ油にライムの果汁と塩・胡椒、辛子少々を混ぜたもの。

 マナガツオはポワレに。上身におろしておいて、塩胡椒をした上に小麦粉を薄くまぶす。ニンニクの香りを出したオリーヴ油でこれを皮を中心にこんがりと焼く(マナガツオのねきでは茄子も焼いている)。ソース作り。身を取り出したあとの油に、アラを入れ、水・ワインを加え煮詰めてダシをとる。そこにトマトペースト、タイムとローズマリーを加え、塩胡椒をして最後にシェリー酒で風味をつける。あ、仕上げにバターひとかけも落とします。

 ワタリガニは半分、つまり二杯は単に茹でるだけ。

 これでフィアーノ・デ・アヴェリーノというイタリアの白をやる。ワタリガニのミソと卵巣を一口食べたあとでこれを流し込むと、ワインの風味が引き立つ、ような気がする。サラダもポワレもわれながら上出来。だんだん杯のペースが上がって一時間も経たないうちに、一本が空になってしまった。

 残りのワタリガニをパスタにすべく、一杯を出刃で半分に断ち割ってみると、橙いろの卵巣とライチのように、碧玉のように透き通った身がことのほか美しく、思わずスプーンですくって口に運ぶと、これがまた絶品。

 ワタリガニは生で食べて大丈夫かと思ったが、韓国に一杯丸ごとをキムチに漬けたものもあるしな、と意を強うして、生のカニを肴に余勢を駆ってもう一本空ける。白を続けて二本というのはあまりぞっとしないが、ま、これも勢いというものである。

 ここらへんでたいがい腹もくちくなってきたのだけれど、カニを翌日まで残しておくわけにもゆかないので、こちらも余勢を駆ってパスタ作りにとりかかる。

 残る一杯をぶつ切りにし、ニンニクを熱したオリーヴ油に投入して強火で炒める。香ばしい匂いがしてきたところでブランデーをかけ回してフランベ。面倒ながら、この手順を省略すると、ソースにコクが出ないし、また生臭さが消えないような気がする。カニはここでいったん取り出して、「アヂ、アヂ」と東海林さだお風にうめきつつ、殻を割って、身をせせりだし、ミソをほじくり出す。

 カニを取り出した後のフライパンにみじん切りにしたタマネギを入れて色づくまで炒め、手で裂いた平茸も入れてソテーしておく。ここに再度カニ(ミソと殻)を投入。水とワイン、トマトペースト、ローリエを加えてぐつぐつ煮込む。途中すりこぎで殻をぎゅうぎゅうつぶしてダシを絞り出す。横の鍋でパスタも茹で始めておく。

 スープがだいたい半量になったところでカニの身を加え、みじん切りにしたバジルも投入する。セージも少し。

 パスタはかなり芯を残したまま、茹で汁少々とともにフライパンに移し、充分にソースを吸わせる。汁気が引いてきたら、生クリームをざっとかけ回す。仕上げにおろしたチーズを少し。

 一食としては天文学的カロリーだろうが、充分それに値する美味でした。ワインがどんどん進んでしまう。

  
 カニの汁があちこちに飛び散った台所を徹底的に拭き上げてから(少しアルコールが入ったときの台所掃除は実に愉しい)、コーヒーを濃く立てて、さてじっくり読書にとりかかる。

・まずはA.J.A.シモンズ『コルヴォーを探して』(早川書房)。前項でふれた冨山太佳夫さんの書評が面白そうだったので、買いに走った。いやあ、面白かったなあ。これは、シモンズがコルヴォー男爵(詐称である)ことフレデリック・ロルフの伝記的事実を追い求めてゆく過程それ自体を綿密に描き上げたもので、ロルフの弟と仲違いしたり、謎の大富豪が登場して作者の所持するロルフの詩稿を法外な金額で買い取ったり、という場面など、まるで上出来の伝奇小説を読んでいる感じ。訳者がイギリス伝記文学の最高傑作というのもわからなくはない。たとえばペインターのプルースト伝(これも名作。岩崎力さんの訳が筑摩書房から出ています)が外連味のない正統派、たとえばバックハウスベートーヴェンとすれば、こちらはアファナシエフという感じか。戦前(1934年)の作なのに、筆致のみずみずしいことは嘆賞に値する。もっとも、やはり同性愛関係の叙述はほとんど無い。ま、これは訳者の手になる『ヴェネツィアからの誘惑 コルヴォー男爵少年愛書簡』を読めばいいことである。それにしても、ロルフの一種の怪物ぶりにはつくづく(いろんな意味で)ため息が出る。怪物、といってもじジャン・ジュネなどの神話的晴朗さはなく、ただただmeanなだけというあり方なのだが、それでも最後まで人を魅惑し続けた点、一筋縄ではいかない印象。翻訳はまだ無いようだが、そしてかなり難物の英語のようだが、この本で絶賛されている『ドン・タルクイニイオ』や『トト物語』も読んでみよう、と思う。

・『コルヴォーを探して』を書評した冨山先生は、贔屓筋の学者であるが、そういえば最近(『おサルの系譜学』を除いて)読んでないな、と気づき、岩波新書の『笑う大英帝国 文化としてのユーモア』も一緒に買った。ユーモアについて論じた本にひとかけらのユーモアもないという悲劇的(ブラック・ユーモアと称すべきか)状況は繰り返し指摘されている。明敏な冨山さんがそのことを考えなかったはずはないので、というのは、一貫してまさしくユーモアを語るならこうするほかあるまい、と腹をくくった語り口を採用している、それがよいのである。それにしてもよく読んでる.学者だから当たり前かもしれんが。

 他には原武史『影の磁力』(幻戯書房)、塩野米松『ネジと人工衛星』(文春新書)、ハンス・リーベシュッツ『ソールズベリのジョン』(平凡社・わールブルクコレクション)、木村敏『精神医学から臨床哲学へ』。

 ちなみにこの夜、大学の師匠と巻いている歌仙(連句)で、長短を間違えて付けてしまった。やはり少し酔っていたようである。


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