ワサビからハト

 テレビの旅番組で紹介していた、奥多摩のわさび田の映像を見ている内、無性に山葵が食べたくなって市場に急行した。

 一本一二〇〇円。何日も楽しめることを考えたらそう高い値段ではない。せっかくの生山葵を手荒く卸したのでは生命である香気が立たないから、なるべく目の細かい卸し金で丁寧に卸す。卸したあとは包丁の峰で叩いて更に細胞をつぶす。

 これに梅干しの種を取って裏ごししたもの(面倒であれば包丁で叩く)を、山葵と同量混ぜ、食べしなに掻きたての鰹節を全体の量の半分ほどかけて更に混ぜ合わせる。醤油はほんの少し垂らすにとどめる。

 お茶漬けの具でもよろしいけど、やっぱり冷酒の肴だな、これは。ビールやウイスキーの如き蕪雑な酒であってもつまみがないと呑めない性分なので、まして酒やワインのように料理あってこそ華やぐ類のアルコールを何も食べずにがぶがぶやるなんて想像もできない。若い時分は文字通り塩をなめても一升酒してたもんですが、あれは肴が要らなかったのではなくて、単に貧乏していただけのことである。

 もっとも無闇に豪勢な料理ではかえって酒の味わいを殺いでしまう。たとえば大トロの刺身で最後まで美味く酒が呑めますか。どうもあの素敵に高価な薔薇色の肉片は、私見ではたっぷり山葵醤油を付けて、炊きたてのご飯と喰うのが一番いいように思うのだが。

 とはいいながら、生雲丹の柚釜で一杯なんて乙なもんだし、フォワグラでシャンパンとなればこれはもうはっきりと好物といえる。・・・うーんつまり、酒のアテとしてはやっぱり、ほのかだけれどしかし抜くべからざる「ちょっぴり感」が重要なのである。丼一杯の生雲丹なんて、考えるだに食欲が減退する。

 その点、この梅山葵(正式名称は知らない)は、材料が材料だけにどうでも少量にならざるを得ないところが嬉しい。生山葵って、でっかいやつでも卸してしまうとまことにぽっちりしか出来ないし。

 と市場ではそんなことを考えてたわけではなくて、ただ「今日は自分の好きなアテばっかりで酒を呑んでやろう」と山葵を買ったついでに思い立つ。

・梅山葵
・蒸し鮑と粒椎茸と三度豆の清汁:これは代役。懐石の椀盛としてではなく、酒肴としてなら蛤の汁が一等だと思うが、さすがにこの時季で蛤もなんだしねえ。しかし蛤ならへぎ柚子、木の芽という不動の吸口があるけど、鮑は何を入れてももひとつ決まらない気がする。ご存じの方は御教示を惜しまざれ。
・焼き穴子:これは出来合いの品。少し奮発して身の厚いのを買う。食べる直前に軽く焙って細めに刻んでおき、胡瓜・茗荷の細打ちと混ぜ合わせておく。出ししなに二杯酢と焼き海苔(これも細く刻む)をかけ、山葵を天盛りにする。
・烏賊の真砂和え:イカソーメン風に細く切っておく。これに鯛の真子の塩辛(この時季に鯛の真子は無いから、旬に作って真空冷凍しておいたもの)を和えて、上から青柚をおろしがねですってふりかける。塩辛のねっとりした口当たりとの対照を楽しみたいので、烏賊はなるべくこりこりしたもの。たとえば障泥烏賊は旨味は充分だけど、ここでは合わない。
・茶碗蒸し:いい年して茶碗蒸しが好物というのは、なぜか気恥ずかしい。が、淡白なうま味、汁気の多さ、一匙ごとの味・歯ごたえの変化と、酒肴の要件を全部満たしているのである。今日は鮑の椀もあるので、趣向を変えて冷やし茶碗蒸しといく。具は百合根・銀杏のみ。
・鳩豆:とは何ぞや。インターネットでフランスの窒息鳩を買っていたので、それをローストにしたものの付け合わせにうすい豆の柔らか煮(ピューレまでいかないけど、原形はかろうじて保っている、というくらい)を添える。鳩には大蒜のジュースをかけて焼き上げる。タイムとローズマリーとは酒の邪魔をしない程度に。

 酒は「御前酒」と「萬歳楽」。合わせても一升には届かず。衰老の身、憐れむべきのみ。

 対手の本は、この日は一冊しか読んでなかったのですけど、この一月は割合「お買い得」のものが多かったので、煩を厭わず掲げておきます。

横張誠編訳『ボードレール語録』(岩波現代文庫):一見談話記録のようだがさにあらず。批評的言説のうちとくに難解なものを取り出して、じっくり注釈を付けるというスタイル。たいへん勉強になります。
○ジボナノンド・ダーシュ(臼田雅之訳)『美わしのベンガル』(花神社):呑みながら読んだのはコレ。この詩集も中井久夫先生が褒めていたもの。音楽性がすばらしい。解説の日本語もまた見事。
東雅夫編『幻想文学講義』(国書刊行会):雑誌「幻想文学」に載ったインタヴューの集成。この雑誌が元気だった頃はこちらもちょいちょい買っていたので、いくつかはむろん知っている。この人ならばさもあらんという受け答えもあり、え、この人が?と思うようなのもある。川村二郎さんのインタヴューは微笑ましい。この批評家が考える文学って、要は幻想文学なのだ。醇乎として偏屈なところ、見上げたものです。それにしても、今さらながらこの出版社、よくやるわ。
米原万里嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店):当方隠れもなき米原ファン。だが新刊を読む能わざる今となっては(合掌)、彼女の著作すべてを読み上げてしまうのが怖くて、ちびっとずつに辛抱している。だから全部に目を通していない上での判断になるのだが、これはひょっとして米原万里の最高傑作なのかもしれない。少なくともこちらにとってはきだみのるの傑作たる『気違ひ部落周遊紀行』に一歩も退けをとらぬ作に思える。
木下鉄矢朱子学の位置』(知泉書館):中国朱子学を実践面、というのは社会活動の方面から捉えなおした労作。江戸朱子学に関しても、つとに岡田寒泉の代官としての活動に着目した論文がある(『化政文化の研究』所収、のはず)。とはいえまだまだ未開拓の分野、とは思うのだがさらに翻って思う。朱子学にせよ徂徠学にせよ、その言説内容の面白さを伝えてくれる本はまだまだ少ない。
○片岡耕平『穢れと神国の中世』(講談社選書メチエ):少しく論証のこちたき点は目に付くものの、中世神道の面白さを教えてくれる好著。山本ひろ子氏の迫力(?魔力?)には及ぶべくもないけど。
○松村一男・平藤喜久子・山田仁史編『神の文化史事典』(白水社):日本も中国もギリシャもオリエントもみんな収録という事典。こういう造りの本は、必要なところだけを引いていたのでは血肉にならない。すべからく休日一日を通して端から読んでくべし。経験者は保証しますが、これほど無意味な、とはつまり贅沢な時間の使い方はございません。
○ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』(河出書房新社):具体的な知見はじつに興味深い。しかしたとえば嗅覚を定義するのに「匂いを感じる感覚」とは何ぞや。これでは自家中毒ではないか。それに人間との類比がそもそもどういう意味を持つのかについての考察もない(これは啓蒙的科学書一般にいえること)。哲学といえば大げさだが、自分の叙述の《立ち位置》に関する自省が乏しい。皆さん、純にして浄らかなんですな。
○矢田部英正『美貌の文化史 神と偶像』(中公文庫):久々に社会学方面の本を読んだが、やはり手続きの安易さに引っかかってしまう。あ、今は面白かった本の紹介か。
○森浩一『森浩一の考古交遊録』(朝日新聞出版):どんどん文章にある種の凄みが出て来ている。しかし森さんの本も全部読みたいが、いつまでかかるのかなあ。
○吉川信編訳『ジェイムス・ジョイス全評論』(筑摩書房):前に紹介したアプダイクの批評同様、作家ならではのきつい個性が濃厚に漂ってくる。『ユリシーズ』の作者である以上当然ながら文章は凝りに凝ったもの。批評のレトリックの参考になった。
ルキアノス『偽預言者アレクサンドロス』(西洋古典叢書 京都大学学術出版会):ちょっと奥さん聞きました!ルキアノスの全集が出るんですってよ!しかも全八冊ですって!とコーフンしてしまうのも仕方ない。だって今までせいぜいちくま文庫『本当の話』か岩波文庫『神々の対話』でしか読めなかった古代ギリシャきっての諷刺家の全貌がようやく明らかになるのだから。ガンバレ、京大。
○ウノ・ハルヴァ『シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像1・2』(平凡社東洋文庫):訳者の名前を見ると嫌いな人だったのでためらったが、買ってよかった。面白かった。「世界樹」の項目など、一言一句色んな本と首っ引きで、一週間がかりで読んでしまった。いい本だ。
○アンカ・ミュルシュタイン『バルザックの19世紀パリの食卓』(白水社):タイトル通りの本。これこそ細部に神の宿る類の書物。だから望蜀の嘆というものだが、こういう興味津々の内容を鹿島茂並みの話術で語ってくれたら、と思った。
○ジャン・スタロバンスキー『絵画を見るディドロ』(法政大学出版局):たぶんスタロバンスキーの最高傑作。岩波文庫の名企画でディドロ『絵画論』が出ていたので、ずいぶん助かった。
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