地獄は何処にあるか


 気鬱なことがあって、ジムで無茶苦茶に体をいじめた。全身の筋肉がぱんぱんに張ってきて悲鳴をあげている感じが快い(マゾかしら)。だがそのままスイミング(こちらを本番と考えている)に行くべきではなかった。文字通り手も足も出ない。それでもクロールと平泳ぎはなんとかなったものの、バタフライでは腕が水面すれすれにしか回らず、水を引きずってしまう。殺虫剤をかけられたあめんぼの断末魔よろしくばたばたしていると、コーチが不審顔で「今日の所はその辺でいいんじゃないですか」。そらまあそうだな。向こうだって、プールで溺死でもされたのでは責任問題である。

 翌朝・・・とはいわずその日の夕方から理想通りに節々が痛み出す(やはりM)。良質のタンパク質を摂らねば、と思って黒豚ヒレの塊とざる豆腐を晩酌の肴に求めた。

 いい黒豚は、焼くだけでチーズのような、バナナのような香りが漂ってくる。今回は塩胡椒して焼いたのに、ベランダ菜園で大量に採れたバジルをオリーヴ油とペーストにしたもの(ジェノベーゼ、というやつですね)をかけただけのシンプルな料理。豆腐はもちろん冷奴で。薬味には茗荷と青柚の皮、それに(極上の)焼き海苔、おろし山葵。薬味を多くそろえると味に飽きが来なくてよろしい。それにオクラ(茹でて刻む)・山芋(長芋にあらず)・卵の黄身・イカ刺しを混ぜたおした小鉢。

 これで初めは缶ビール(イオンのトップヴァリュが最近おすすめ)、その後はそば焼酎の水割り(水と焼酎は半々で)にカボスをしぼったものを呑む。

 対手はハヤカワepi文庫から新編集で出たグレアム・グリーンの短編集『見えない日本の紳士たち』。どれも洒落ている。

 と書いていくと、どこでタイトルの「地獄」とつながるのか、という感じですが、実はグリーンの他に五来重の『日本人の地獄と極楽』(「詠みなおす日本史」、吉川弘文館)も詠んでいたのである。

 五来氏は古来の文献や伝承を博捜して日本人の「地獄」像の原型を探っていくのだが、記述をおっていくうちに、《自分にとっての地獄》とはどういうイメージだろうか、と考え始めたのである。焼酎をバーボンに切り替える。肴もチーズに切り替える。

 まず思いついたのが砂漠。ドキュメンタリーでナミブ砂漠の映像を見た時、《美しき地獄》(という概念が成立するかどうかしらんが)ここにあり、と思ったことがある。圧倒的な印象だったが、自分にとっていちばん地獄らしい地獄という訳ではない。というよりはむしろ、対蹠的な光景なのである。

 どうも荒涼、とか空漠とかいうイメージではないんだな、つまり。なんかごちゃごちゃしてるほうがそれらしい。これはたしか美術全集で見たエローラ寺院の彫刻がそれに近い感じ。 ここまで具体化できたところで、あっ、そういえばと思い出して書庫にのたくり込み、川村二郎の長篇批評『チャンドスの城』を探し出す。ホフマンスタールの『騎兵物語』の描写を丹念に解きほぐしながら川村さんはこう書く。


《『騎兵物語』の村の場面は、結局、このような「生のすべての力」が結集し、呪縛されている場である。それは眼に見える形では人間の生の空間ではないが、人間の生がそこから形作られ個別化されることになる、いわば無形の放恣な生のエネルギーが、何の制約もこうむることなしに無窮動めいた旋回運動を反復している場所である。動物たちはこのエネルギーの比喩だといってよいが、それならば、彼らはまた人間の原像であり、根であるといってもよいことになる。(中略)およそ日常の現実から逸脱していながら、比喩、乃至幻覚といった解釈では到底捉え切れないほどなまなましい現実性を帯びているとすれば、この現実外の現実的経験の場は、それにふさわしい言葉でもって規定されてしかるべきではないかと考える。現実の外にあって最も強烈に現実的な世界というなら、人間の想像力の運動の達し得るかぎりにおいて、それは地獄である。》


 それ自体、微生物の果てしない蠢動を思わせるような薄気味悪い叙述。いいかえればこれは凄い名文なのである。さて、文様が無窮に絡み合って永遠に自己増殖をとげている、と考えれば、これはなにもアジアに特有とはいえないわけで、バロック建築の教会などは、彩色されているぶんだけ、エローラよりもよけいに眩暈を呼び覚ます。そうそう、大物を忘れていた。サグダラ・ファミリア。あれなんか「混沌」そのものである。みんなガウディの盛名にうかうか乗せられて平気で見物してるようだが、当方スペインに行ってあれを間近で見たら、きっと吐くだろうと思う。吐き続けると思う。

 川村さんは「無形の放恣な生のエネルギー」の比喩として動物が登場していることに注目を促している。いわゆる自然には興味を持たなかった川村二郎(『日本廻国記 一宮巡歴』がその気質の端的な結晶だが、『河内幻視行』という書名も象徴的である。この批評家は自然の風景の根底に常に歴史と表現の陰翳を「幻視」していた)とは違って、当方はごく一般的な意味での自然愛好家。ことに魚を初めとする水棲の生物(植物を含む)に対する愛着(固着)は紛れもない。

 小学校に上がった時、祖父が顕微鏡を買ってくれたのを思い出す。解像度はあまり高くなかったであろうその贈り物が少年を熱狂させたのは、何よりも、学校の中庭の池から採取してきた、うすい青緑色の水一滴の中に、息を呑むほど多様な形状をした微生物の群れ動く様子を覗き込んだ瞬間だった。

 とすれば、自分の場合、魅惑する樂園と地獄のおぞましさとは少なくとも大人になるまでは一体であったわけである。いや、そうでもないか。今でもイスンタンブルの市場の錯綜する街路や、やや品下るけれど祭りの縁日の雑踏を見ていると、つよく心動かされるけれど、それは惹きつけられているのかそれとも嫌悪に身を震わせているのか、分からないところがある。煩悩即菩提、極楽すなわち地獄とはこういうことか。

 と沈鬱なる思考に没頭していると、ふと『パタリロ』の一節が甦って、思わず吹いてしまった。地獄の住人がいうには、地獄の特徴は「蒸し暑い」。そして「ずっと自己嫌悪の気分がつづく」のであるらしい。そういえば、(と次々思い出すのはだいぶ酔ってきた証拠)谷村新司が昔、「自己嫌悪に陥っているときは自分の顔すら臭く感じる」と喋っていた。となれば、顔にすぐ脂のうく梅雨時分(蒸し暑い!)、二日酔いになって自己嫌悪に陥ったら地獄落ちは間違いなし。

 そう思いつつも、もう一杯だけといいながらバーボンをグラスに注ぐ。

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