狐が鼻をつまむ

テリー・イーグルトン『悪とはなにか  テロ、大量殺戮、無差別殺人-理性を超えた「人間の罪業」を解き明かす』(前田和男訳、ビジネス社)

悪とはなにか

悪とはなにか


 《混迷を深める》が枕詞のようにくっついてくる「現代世界」。そこに、イーグルトンがこういう本を出したのだから、つい読んでみたくもなるというものではないですか。


 勢い込んで手にはとったが、しかし、読み終えるのには一苦労した。第一に、訳文がひどい。

*「アイルランドの偉大な哲学者であるビショップ・バークレー」・・・誰やねん、それ! バークリー主教なら知ってるけど。
*「現代の哲学者であるフレドリック・ニーチェ」・・・ニーチェはイギリス人かいっ!(後のほうになると「フリードリッヒ」になってる)
*「アイルランドの哲学者エドムント・バーク」・・・バークはドイツ人かいっ!
*「神学者のカール・バース」・・・阪神の助っ人かいっ!


 ペダンティックな揚げ足取りではない。こういう表記を平然と並べられる人間が、まともに内容を理解して訳しているのか、という疑念が生じるのはごく自然な反応だろう。あるページには「現代芸術」に「モダニストアート」とルビがふってあって、まあこれは一応許容するとしても(一応、と言うのは、イーグルトンが「ボードレールからイエーツまで」と挙げて形容している以上、「モダニズムの芸術家たちの作品」ととるのが適当だと思うからだが)、なんとすぐ次のページには「モダニスト芸術」なる訳語が出てくるのである。アタマをひねって概念の違いを考えてみたが、鯨馬にはさっぱり分からない。


 これ以外にも、文意のとり難い箇所や、そもそも日本語の構文/語法として成立しない箇所が頻出し、《知的虚弱児》には、到底気に留めず読み進められる代物ではなかった。本書(の原書)に大いに「触発」されて『悪の力』を書いた(と訳者あとがきにある)姜
尚中が推薦文を書いており、「訳文碌に見もしないで推薦文書いたんじゃないの、姜東大名誉教授(と推薦文に自ら記している)!」と、推薦者の見識を一瞬疑ったけれど、よくよく読んでみると、みじかい文章の末尾に「イーグルトンの著作の中でも難解な本書の邦訳に挑戦した訳者に敬意を表したい」とあるのですな。ははあ、こういう逃げ方もあるわけか、と変に感歎してしまった。


 ここまで苛々させられるのなら、Amazonで原書をぽちっ。とすればいいようなものだが、そういう気も起こらなかったのは、イーグルトンの論理自体にあまり納得できなかったからである。


 イーグルトンははじめに「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」と言う。そして「ポストモダンのカルチャーは、食屍鬼や吸血鬼には魅せられながらも、悪魔については語るべきものをもっていない。(中略)ポストモダニズムにとって罪を贖うべきものは何もないのだ」(「贖うべき罪は何もない」の誤訳か?)と啖呵を切る。ははあ、《物語》消失後の、優雅にして平板な消費社会(某氏のいうところとは違うだろうが、「動物化」した人間集団)において、深刻な悪の意識は生まれにくく、全ては「カルチャー」上の戯れになってしまうわけだ・・・と考えながら読み進めると、果たして「人間=水平的に超越/悪魔=垂直的に超越」という表現が出てくる。こういうところの表現の切れ味はさすが『アメリカ的、イギリス的』の著者だなあ、と感心する。


 それはともかく、マルクス主義イーグルトンが、水平に超越する、つまり現実の歴史=社会と政治のうねりにコミットしつつ歴史を乗り越えていくのが人間というものである/であるべきだ、と主張するのはよく分かる。だとすれば、「垂直的に超越」とは、社会的背景・心理的理由等々の地平から隔絶した、それこそ神学的乃至形而上的なあらわれであるしかないわけだ。実際、オブライエンの『第三の警官』という一代の奇書を分析しつつ、シェリングの議論を援用して、悪とは「善をはるかに超える霊的なもので、物質的実在を忌み嫌う」存在だと定義する。


 しかし冒頭で認めるように、「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」のであるからには、理解しがたいこの悪(魔)といかに対峙するか/対峙は可能なのか、と手に汗握る思いで議論の行方を注視したくなるのは当然でしょう。少なくともブログ子は、テリー孫行者が、自ら組み上げたお釈迦様の掌の上でキリキリ舞いする奇観を予想して胸が高鳴った。どの道こんな大問題に結論の出ようわけはないのだから、“必死のパッチ”で如意棒を振り回す、その手振りに「考へるヒント」あるいは生きてゆくことへの慰めを見出そうとしたわけである。


 ところが、イーグルのダンナ、ここに至ってなぜかトーンダウンしてしまうんですね。それも闘う相手の強大さに意気消沈するという意味ではなく、相手を矮小化してしまうという意味で。



  悪魔は圧倒的な非現実、驚くほどのまがい物、意味の破壊、重要な次元の欠落、退屈きわまりない単調な繰り返し



 「圧倒的」という措辞は見られるものの、これでは単にポストモダン的状況への悪罵ともとられかねない口ぶりである。またマンの『ファウストゥス博士』を取り上げて言う。悪魔は破壊を好む、それは創造主たる神の御業を貶めるための唯一の手段だからである、だが、破壊は存在を前提とするがゆえに、永遠に悪は敗北せざるを得ない地位におかれているのだ・・・。


 最終章で弁神論の欺瞞を鋭く攻撃しているイーグルトンが口にするには、これはあまりに放胆な断定ではないか。そもそも悪魔を形容して「非」現実・「まがい」・「破壊」とする点がクサイ。クサイというのは神学的口吻の響きが感じ取られるということだ。悪を欠如態としてとらえたのはかのアウグスティヌスであった(本書でも言及される)。これはキリスト教的思考に特有の、いわば「体臭」のようなものか。うろ覚えで引用するのだが、批評家川村二郎が、ホフマンスタールを論じた文章の中で、地獄を指して「強烈に現実的」と形容していた筈である。鯨馬はこの指摘の方に、によりリアルな悪/地獄の本質を見て取れるように思う。


 イーグルトンの提出する命題をもう一つ。


  悪魔は、宗教原理主義者と同じで、大昔の素朴な文明社会における懐古物の一つであり、(中略)その意味では悪魔は現代におけるモラルの低下に対する抗議ともとれる。悪魔とは現代人を好ましくないと見る高踏な復古主義者である。



 イーグルトンが「宗教原理主義者」らの抱くノスタルジーに肩入れしていると勘違いする粗忽者は、まさかいないだろうが、さるにても悪魔がえらく「分かりやすい」存在になっている感は否めない。もちろん、犀利なテリーはそのことにはとっくに気がついていて(いるのかな?)、引用に続く部分では「より正確に言えば、誰もが好きなのは愛すべき悪党であろう。われわれは権力を馬鹿にする人には惹かれるが、強姦や企業ぐるみの詐欺はよしとしない。サヴォイホテルの倉庫から塩を盗む人には密やかな共感をよせるが、人々を八つ裂きにするイスラム原理主義者にはそうはならない」と補足し、その上でポストモダンの世界における「破戒」《ごっこ》(というのは評者の形容)を、「疲弊した感性」と再び切り捨てる。この評価に同じる人でさえ、悪そのものの本質および存在については何だかはぐらかされたような気がするに違いない。「そもそも悪魔は…退屈きわまりない存在」である、「ある種の現代アートのように外形は整っているが内実がない」。


 これこそ内実がない議論ではないか。それとも、今思い浮かんだのだが、ひょっとすると悪魔とは、薄っぺらで平板きわまりない姿態にさえも自在に変貌して人々を退屈な消費へと追いやる老獪なシステムのことを言うのかしら?「憂鬱」ないし「怠惰」は七つの大罪の内に数えられていたはずだ。


 ドーキンスの白痴的楽天進歩主義をこきおろすイーグルトン。そのイーグルトンは最後にどう言っているか。



われわれが気をつけるべきなのは、大部分は昔ながらの利己主義と強欲であって、悪魔ではない。(中略)すなわち、もっとも邪悪なふるまいも制度上引き起こされるものなのだ。


フロイト主義をはじめ、どんなに強固で確固とした政治的変革を成し遂げても人間のもつ多くの醜悪さを消し去ることはできないとする見方は山ほどある。そうした政治の限界を自覚することが真の唯物主義であり、そこには唯物的な種であるわれわれも深く関係していると自覚することも含まれる。それでも過激派(引用者注。訳書ではこの語には「ラディカル」とルビが振られる)は、大多数の人民にとって生活は簡単に良くすることはできると主張する。それは単なる政治的現実主義にすぎない。


 反駁する心づもりは全く無いが、しかしそれならばはじめから『政治的現実主義について』という本を書くべきであった。あるいは『悪の凡庸さについて』と、題名をあの本から借用すべきであった。読み終えた後、威勢のいいイーグルトンの背後で、「蝿の王」だか「堕ちたる明星」だか「否定する霊」だかの嘲笑が響いたのをたしかに聴いたようである。

 それにしても、イーグルトンってスコットランド出身だったっけ?


 従って今回は「双魚書房通信」扱いとせず。


 さて今日は初午。若菜の辛子和え、煮染め、小豆めし(赤飯に非ず)に子ネズミの天ぷら・・・はいけませんな、甘鯛の唐揚げかなんかで一杯やることにしましょう。


 結局、甘鯛の代わりに浅蜊と若布の揚げ真蒸となった。
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