一週間のヨーロッパ(3) オランダ遠近法

八月十日

 この日はアムステルダムへ絵を見に行く。といっても、前項で書いたとおり、芒男は絵に興味を持たない人間なので、これは純然たるこちらのわがまま。しかもススムさんが仕事を休んでドライバーをしてくださった。有り難い限り。

 結構早めに出発したのだが、月曜日でトラックなども多く、高速道路は混んでいる。走っているうちに左右の森が平坦な畑や野原に変わっていく。空には三角旗の一辺を毛羽立たせたような、日本でいうと出雲地方によく見られるような形の雲が並んでいる。「フェルメールの雲ですよ、これは」などとこちらははやくも気分が昂揚してきている。

 結局アムステルダムに着いたのは昼前。運河がここかしこにめぐらされている。その一つのほとりに駐車。本当に石垣ぎりぎりの所にみなとめている。教習所で脱輪しまくった鯨馬は(だから当然免許はもってない)、リツゼンとしたことだった。

 昼飯を食うところを探して歩く。全体に小作りで意匠の変化に富んでいるため、絵本に出てくるような街並みという印象が強い。ススムさんも「ドイツに比べるとだいぶ色彩が豊かですね」と言っていた。散歩には恰好の街である。

 ろくに下調べもせずに行くと、店を選ぶのに難儀する。いずこも同じピッツェリアに中国料理、たまに「オランダ料理」と看板を掲げたところをのぞけばあからさまに観光客向けの造り&値段なのに気が差して、どうせならさっくりハイネケンを呑んでスナックでも摘まもうということになった。「まあ、オランダの料理が旨いと聞いたこともないしね」とは葡萄を取り損ねた狐のひがみだったろう。

 国立美術館の正面が大きな公園となっていて、その一角でビアテラスが営業している。三人はビールとポテトフライ、それにサンドイッチを頼む。サンドイッチはハムと胡桃にジャムをはさんだもの。ゆっくりグラスを傾ける二人を残して当方のみ美術館へ。

 外観は旧王宮という構えながら、受付の階はじつに近代的な造り。あちこちに係員。みな黒のスーツできめた、様子のいい男女で、SPに取り囲まれているような気分がする。ここでチケットを買い、カバンを預ける。

 館の両翼それぞれに地下も入れて5階(だったかな、メモを紛失してしまったので正確なことは分からない)という大きさである。端から順次見て回るのは最初から諦めて、レンブラントフェルメールのフロアにまず向かう。ほとんどの客がそうするのではないか。

 下調べ、つまり予備知識が無かっただけ、部屋に入った瞬間、壁一面の『夜警』が目に飛び込んできて吃驚した。光がどうの構図がどうのという前にまずデカイ。これを子細に眺めていたのでは先が続かんわいと判断して、さっさと次のギャルリーに向かう。

 例の自画像の他、『クラウディウス・キウィリスの陰謀』、『カプチン会士の姿のティトゥス』、『織物商組合の幹部たち』、そして『ユダヤの花嫁』などの傑作が目白押しである。『幹部』は画集で見て強い印象を持っていた絵だが、実際の大きさで見ると視線の交差がすこぶる立体的。神話や歴史に題材を採っていないのにことば本来の意味でドラマティック。特に右端と、左から二番目の男の表情が印象深い。誠実にして残忍、勤勉にして冷酷な性格が視線からぽたぽたと垂れるほどにじみ出ている。僧服をまとった息子ティトゥスや『ユダヤの花嫁』のリベカに注がれる、慈愛のまなざしとは見事に対照的。色調やタッチを目でなで回しているうちに、おのずから主題そのものの享受へと視線が導かれ、画布の人物と対話しているとその対話がいつのまにか茶いろや金いろの雲の中に融解していく(あたかも眠りに墜落する間際、ことばが無意味な音の連なりへとほどけていくように)、という絵画鑑賞の醍醐味をたっぷり味わうことが出来た。

 すぐ横の部屋にはフェルメールが掛かっている。しかし少々こちらも消耗してしまったので、いったん踵を返して他の階へ向かう。ここはいわば手ならぬ「目」慣らしのつもりだから、なるべく歩みのペースを変えず、さらさらと流してゆく。一体に、世俗的な趣の絵が多く、それは日本人にとってある面では気楽なのだが、それも見続けていると気鬱になってくる。これは必ずしも貶めて言うのではないけれど、なんだか鈍重なのですね、空気が。たとえば花を描いた絵。花瓶いっぱいに花が盛り込まれている。これでもかという克明さでそのマッスを描き込んでいる。いくつもいくつも見てると、瀟洒とか粋とかいった趣が、酸素を要求するように欲しくなってくる。

 その点静物画というジャンルは良い。元から好きだったけど、特にヴァニタス(髑髏や時計などをあしらって現世の栄光の虚しさを表す)と呼ばれるものでは、リアルな描写と主題の寓意性がうまくバランスをとっているので、胃もたれせずに見続けられる。そう言えば江戸の初期に、鎖国の方針を固めた幕府首脳が、唯一西欧文明国の中の相手としてオランダを選んだのは正解だったわけだ、これほど世俗性のつよい国なら貿易だけに限定して付き合いを続けやすかっただろうからな。老中連も紅毛のカピタンと(もちろん通辞を介して)やり取りするうちに、半ば辟易しながらも「ここなら大丈夫か」と実感したに違いない、などと歴史的感慨にふけりつつ、だいぶ元気も戻ったのでもう一度フェルメールの階に戻った。

 フェルメールは『牛乳を注ぐ女』、『恋文』、『小路』の3点。3点ともじつは日本で見たことがある。たしか上野の西洋美術館だった。まだフェルメール熱が今ほど高まっていない頃で、開館すぐに他の絵の所をすっとばしてフェルメールに取り付くと、かなりの時間一人きりで眺められたように憶えている。まさかそこまで閑散としているわけではなかったけれど、どころか『牛乳を注ぐ女』の前は『夜警』並みの人だかりがしている時間が多かったけれど、みなちらっと見てスマホで撮影して、いや順番はこの逆か、ともかくすっすっと行きすぎていくのでこちらも割り込みやすい。またじーっと見ていても「邪魔やなこいつ」という目で見られることもない。

 むろん『恋文』はよかったが、類似の構図なら『手紙を書く女と侍女』のほうがさらに優れていると思う(侍女の表情がいいのだ)。通俗をおそれずにここではやはり『牛乳を注ぐ女』を推しておく。モーツァルトシェイクスピアを褒めあげるようなもので、いささか面はゆい部分はあるけど。

 じーっと見てるうちに、少しずつ時間の流れがゆるやかになり、さらに段々遅くなって、最後に女が注ぐ牛乳の一たらしの内に凝結した、という趣。女は何の表情も見せないけれど、魂の平安とはこういうことかと思わせられる。少し離れてみても群を抜いて細緻、ケルン大聖堂の前に置いても、一歩もひけをとらない重力を備えている。

 なんどもなんども回ってきてはじーっと見ていると、黒人の係員(警備員?)と目が合った。向こうは無言でにやっ、とする。こちらも無言で親指を立てる。すると黒人は「せや、せや、そう来ないとあかんのや」という風情で大きく頷いた。

 かなり見るものをしぼったにも関わらず、美術館を出たのは四時半。デン・ハーグのマウリッツハイスにも行けるかなーなんて思っていたのがいかに見通しが甘かったか、痛感した。まあ、次回の嬉しい宿題としておく。

 デュに戻ると冷たい雨。その中をフォンさんと永井くんがホテルまで迎えに来て、中華料理を付き合ってくれたのだった。ホスピタリテに御礼の言葉もなし。この店は鴨の舌や鶏脚の煮込みが旨かった(芒男は別の知り合いに会いに行った)。

 その帰りにはスーパーに寄り道。チーズ、ハム、ワイン、ビールの安さに感激して馬鹿買いしてしまいそうになる。結局はビール一本、赤ワイン一本、スライスのサラミにカットのチーズだけに控えて、ホテルでちびちび愉しむ。明日からはいよいよイタリアである。
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