稲荷の横のホルモン屋

 最近美味しく食べたもの。

◎『中畑商店』の「モツ焼き」・・・なぜか大阪の立ち飲み屋で横になった客から聞いた。「あんた神戸に住んでて知らんのか」風のものいいにキッとなってかえって行くまいと思っていたところ、お馴染み『いたぎ家』アニーのアップした写真を見て、猛烈に行きたくなったのである。軽佻浮薄、さながら紙の如し。場所がまずいい。神戸駅の西南、切なくなるほどの場末の街並みを抜けて、その名も嬉しい「稲荷市場」のどん突き、松尾稲荷のお隣にある。このお稲荷さんが、猫の額ほどの境内なのに、中々立派な構えで、社務所もしっかりしており、さぞ以前は栄えていたことだろうと思われる。「以前は」というのは、震災前は百軒からあった商店も今や三店ばかり(!)とか。おっそろしい寂れかたをしているからで、春寒の昼時分に、人っ子ひとり見えない商店街を心許ない気分で歩いていると、小松左京の焼け跡闇市モノの舞台に紛れ込んでしまったような感覚に浸されるのであった。ついで主人夫婦のたたずまいがよい。はじめは奥さんが相手をしてくれたのだが、気のあるような気のないような顔つきでモツ串を焼いてくれる、その熱々を頬張ってビールをぐいっとやると、じーんと落魄の詩情が身ぬちを突き抜ける。これはあれですな、小松左京風でもあるが、それ以上に種村季弘の漫遊記の風情ですなと内心呟いていると、なんとその種村大人そっくりの顔つきをした御主人が二階から降りてきた(こういう綺譚めいた巡り合わせがまた種村漫遊記らしい)。それが嬉しくてビールを燗酒(賀茂鶴)に切り替えて更に呑む。同じ日の夕方に顔を出した『彦六鮓』でこの話をすると、女主人の靖子さん曰く、「そのお稲荷さんにはウチの先々代が奉納した大きな提燈がかかってるはずよ」。ますます綺譚めいた話となった。


◎『海月食堂』の「蛍烏賊の炒飯」・・・以前の「渡り蟹の煮込み麺」同様、旨さのあまりこみあげる怒り(このへんの理路は当人にもよく分からぬ)を抑えつつ、ほとんど一息に平らげてしまう。敬士郎さん、五月に御徒町の『桃の木』に予約が取れたそうな。じつにじつに羨ましい。


◎『アードベックハイボールバー』の「ブダンブラン」・・・ぬめっ。とした食感が身上の、名前の通り白いソーセージ。前田シェフの金言に曰く「『ソーセージが好き』と言えない人間とはボクは友達になりたくありません」。一片を頬張って、ふんだんに散らしたトリュフの香りが口いっぱいに広がった時、「『ブダンブランを酷愛します』と言えないヤツは、たとえ古女房であろうと叩き売っちまうであろう」と思った。『アードベック』は来月末で閉店。半年足らずながらずいぶんここで愉しんだ人間には淋しい限り。と前田さんに言うと、近くの某店で働くことになったと教えてくれた。安くないとこだが、前田さんの料理を味わうことは出来るわけである。でもやっぱり、食事後の前田さんとバーテン(奥様)とのコーズリィ、というか莫迦ばなしが出来なくなるのは、つらい。


◎若布の擂り流し、炒り豆腐・・・これは自作。擂り流しは幾分とろみを付ける。具は海老を油通ししたのと粟麩。炒り豆腐は独活(たくさん)と溶き卵を入れる。白っぽく仕上がるように味付け。


 元都知事の証人喚問も少し古い話になってしまったが(生々流転)、これについてある人間がFBで発言していた。「八十四才の老人を血祭りにあげて何が面白い」。アホか。八十四才の老人を血祭りにあげるのが面白くない訳がなかろうが(政治的信条云々とは無関係)。そんなことを言ってはいけないから誰も言わないだけのことである(無論やってもいけない)。このヒト、我独り賢しという傲岸な姿勢といい、ぞくぞくするほど粗雑なことば遣いといい、贔屓の役者の一人だったのだが、こんなコメントに接すると鼻白む。そう言えば当今退位後の称号を巡っても「院政は史上最悪の暴政、それを連想させるような称号を使うな」とか言ってたなあ。後三条から後鳥羽までの院政が「暴政」と言うのはどう見ても判断の誤りだろうし、「二重権力」の弊を論うなら、鎌倉・室町・江戸幕府(そして大日本帝国の政府)による天皇の傀儡化が問題なのであって、上皇天皇かは関係ねーだろ。所詮はちょろっと新味のありそうなことをぺらっと出して見せるだけの「思想の仲買人」(林達夫の表現)に過ぎないのか・・・とすっかり索漠たる気持ちになった。比較する対象が立派すぎたのかもしれない。と言うのは、

高坂正堯『外交感覚 時代の終わりと長い始まり』(千倉書房)・・・読了後の感銘が続くうちに、前出仲買人氏の発言を思い出すという文脈があったのである。それくらい、嫌いな表現を敢えて使えば、「考えさせる」本であった。ソ連崩壊前後に、孜々として書き続けられてきた外交批評のコラムを一冊にまとめたもの。『古典外交の成熟と崩壊』の愛読者にとって、今こういう本が編まれたのはたいへん嬉しいこと。著者も言うように、学者にとって目の前で起きていることを分析し評価し指針を示すことくらい厄介な仕事はない。読者が汲むべきは、事を評するに当たって、事実を丁寧に調べ、歴史に鑑みて、良識と勇気に基づいて諄々と「正論」を説き続ける、その姿勢だろう。「正論」と言ってもおよそ毒にも薬にもならぬ観念論ではない。「人間の限界を謙虚に認め、なおかつたゆみなく努力を積み重ねる」ことの謂である。大袈裟に聞こえるかも知れないが、鯨馬はその決意(決意なしに出来ることではない)に、たいへん英雄的なものを感じた。ロマンティックな色調は一切払いのけた上でのヒロイズム。巻末の解説では、時の政府の防衛構想策定にも参画した高坂氏が、「意外にも」道義を重んじる人間だったという指摘がある。現今流行りのああいったものではないですよ。精神的退廃、つまりまともにものを考えようとしないその無責任さを糾弾するという点に高坂氏の「倫理性」の特質は明らかである。これも先に述べた鯨馬の観察の傍証になるかもしれない。翻って思う、高坂氏の糾弾は専ら、当時(も)知的脳梗塞状態にあった社会党に向けられたものだが、そうした左派の必然的な衰亡の後、「退廃」に陥っているのは正反対の陣営の人々ではないか。今どき、左翼の連中の莫迦さ加減をねちねち論うのはいかにも虚しいように思うけどなあ。愛国を言うなら、その時間で『新古今』の一首を諳んじる(いや数十首はいけるか、和歌は短いんだし)とか、近所のお社に苗木の一本でも植えるとかすればいいのに。ひげのオヂサンは言った、深淵を見つめる者はまた深淵に見つめ返されているのだ、と。いや、なんぼなんでもこの箴言は勿体ないか。これではどうだろう、愚者を嘲ってその顔真似をする者は一層愚かしくなる。

松岡正剛監修『情報の歴史』(NTT出版)
◎ヨルゴス・D・フルムジアーディス『ギリシャ文化史 古代・ビザンティン・現代』(谷口勇訳、而立書房)・・・前にあげたビザンティンの美術史に触発されて読んだが、いかにも古い。新しいギリシャ文化史、ないかね。
◎W.B.イェイツ『ジョン・シャーマンとサーカスの動物たち』(栩木伸明訳、平凡社
◎ノースラップ・フライ『時の道化たち シェイクスピア悲劇の研究』(渡辺美智子訳、八潮出版社
豊永聡美天皇音楽史 古代・中世の帝王学』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・「帝王学」という切り口が面白い。儒教の礼楽思想との関わりを論じて欲しかったな。
◎R.D.レイン『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(天野衛訳、ちくま学芸文庫
◎ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン黒い伝説 帝国はなぜ憎まれるか』(小林一宏訳、筑摩書房)・・・「高慢、残忍、狂信」といった(黄金世紀以後の)スペインのイメージは、じつは一つのトポスになっているらしい。そのいわば反・スペインプロパガンダの歴史的起源を探求しようという本。当方などには「へえ」てな感じだが、類書がいくつも出ているということの方が驚きである。何だかどこかの国に似てますね。
マックス・ウェーバー世界宗教の経済倫理  比較宗教社会学の試み 序論・中間考察』(中山元訳、NIKKEI BP CLASSICS、日経BPマーケティング)・・・『古代ユダヤ教』(岩波文庫)の総説に当たる部分を訳した本。これを先に読んでおくと、あの大著が取っつきやすくなると思います。このシリーズ、アダム・スミスポパー等の古典も入っている。日経さん、なかなかやる、という感じ。
松田哲夫『縁もたけなわ ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち』(小学館)・・・やや繰り返しが気になるが、やっぱり面白い。呉智英と仲悪かったんだね。ま、呉智英は大抵の人間とケンカしてそうだけど。
◎ピーター・バレット『クラウゼヴィッツ 「戦争論」の誕生』(白須英子訳、中公文庫)

◎『花草の巻 四季を彩る』(工作舎編、江戸博物文庫)・・・江戸の本草学者・岩崎灌園の『本草図説』を再編集したもの。図版はうっとりするほど美しいがなんだか編集が杜撰。図鑑でこれだけ誤植があるのは致命的、というか本づくりへの愛情不足なのではないか。


 珍しく料理の本は一冊だけしか読んでいない。
ホテルニューオータニ監修『本当に旨いたまご料理の作り方100 西洋料理から和食・日本の家庭料理、中国・エスニック、スイーツまで』(イカロス出版)・・・生クリームを混ぜて、七十℃でじっくり湯煎する調理法というのが旨そう。

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

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いつか来た道

 『いたぎ家』ご一家(お父様・お母様・アニー・アニヨメー・タク)でお客をした。お父様は肉より魚がお好きと聞いて、当日の朝(一時半にお招きしている)東山の市場に行くと、これがまあ、かっすかすのしっけしけ。前々日の強風が祟ったらしい。言ふてもかへらぬことながら・・・と急遽考えていた献立を頭の中で変更しつつ、大慌てで買い物を済ませた。いわゆる定番メニュをおいていない食べ物屋は、こういう場合どうしているのであろうか。まさか店を休むわけにもいかないだろうし。やっぱり玄人はすごいね。


 さて献立は以下の如し。


ばら寿司=蕗・菜の花・独活・新蓮根・新牛蒡・高野豆腐・椎茸・焼き穴子。淋しいかなと思って焼き穴子を載せてはみたが、生臭はむしろない方がひと品の色調がくっきりしたな・・・と後で思った。「なんでもかんでも」はいやしいことである。

○茶碗蒸し=最近やたらと気に入っている蛤出汁仕立て(鮨の『城助』さんとこでおぼえた)。先に酒蒸ししておいて、その汁を卵液に合わせる。貝の塩気だけで充分。だから案外手はかからない。具は蛤のみ。出す時に柚子と木の芽をのせる。

○炊き合わせ=鳥の丸・大根・海老芋・蓬麩・菜の花。コクを補うのに、鳥ミンチの二割くらいレバーを挽いて入れる。血のにおいを抑えるのに山椒をふり込む。味付けは塩・淡口・酒。つなぎは卵黄と片栗粉。もちろん鰹昆布出汁で炊いていく。大根・海老芋は下茹でのあと昆布出汁で炊く。菜の花は湯がいて食べしなに入れる。

○造り=鰰の昆布〆と鯖きずし。鰰は塩を当てて水分を流し、おぼろ昆布で少し〆たあと、柚子をしぼって出す。いつもトロ鯖を置いている魚屋にも、この日は普通のしかなかった。

○和え物
鳥貝・韮・新若布の辛子酢味噌=鳥貝は出す直前に酢洗い。酢味噌は面倒でも湯煎にかけて練り上げておきます。水の出やすい食材が多いので、やや固めに練っておく。
②鮑とこごみの胡麻和え=鮑は酒蒸しのあと角に包丁。煎りたての黒胡麻を擂ったところに、煮切り酒と赤味噌を入れる。
③のれそれと新若布=柚をたっぷりすりかけて、ポン酢醤油。

○油物
①鶏の唐揚げ=紹興酒、醤油、大蒜・生姜で浸けこんだあと片栗粉をまぶしてあげる。竜田揚げになるんかな、こういうの。たらの芽も素揚げして添える。
蛍烏賊パクチー炒め=油はバター、味付けはナンプラーのみ。時間がなくて、蛍烏賊の眼や嘴の掃除が出来ませんでした。ごめんなさい。

○酒肴
①漬け物盛り合わせ=新沢庵・茗荷と胡瓜のぬか漬け・大根の大阪漬。お父様お母様が送って下さった干し大根で漬けた沢庵。その御礼のためのご招待だから、これがメインディッシュとも言える。今年もしょっぱく固くくさ〜く漬け上がりました。個人的な好みというのもあるが、これくらいに仕上げないと、なにせ独りだから食べきるまでに傷んでしまうのである。
②焼き穴子=海苔・山葵・三ツ葉を添えて。

 家族五人+鯨馬でわあわあ呑む ⇒ 皆さんお帰り ⇒ 鯨馬一人で飲む ⇒ 鯨馬寂寥 ⇒ というわけで夜、あらためて『いたぎ家』に出かけて「二次会」。


 さほど量を過ごしたとも思わなかったけど、疲れが溜まっていたのか、翌日は昼すぎまでなんとなく寝たり起きたり。
 この日は夕方から落語会だった。場所は堺。我が故郷である(実家は今はない)。二十年近く過ごした町だが、当然「観光」なぞしたことはない。どこか一つでも・・・と思いつつも、なんとなく億劫で、結局堺東銀座で立ち飲み屋のはしごにとどまった。


 ま、その前に堺東駅からすぐの母校をたずねてはみましたがね。まともな神経をした人間で四十も越したヤツが、まさか青春期を懐かしいものと思うわけもなく(そんな莫迦はいないと思う。万が一いたとして、それは何か勘違いしている筈である)、全面建て替えですっかり趣をかえた校舎は一瞥するにとどめる。意外だったのは、駅や学校付近の坂道や家のたたずまいがなんとなく馴染みのあるものに感じられたことで、この親しみは何なるらん、とコーヒーをすすりつつ考えていくと、時折夢に出てくる光景だったと気付いた。


 ここで時間を遡行して暗澹たる記憶や腥い思い出を延々たぐり出していけば、なにやらそれらしい掌編となりそうだが、それは当方の得手とするところにあらず。すなわち先ほど書いたように、立ち飲み屋を四軒回って「ワン」という道を選んだ。


 いい店も見つけられたし、何より『利久寄席』の温かい雰囲気が心地よく、次こそは(寄席は隔月で興行)堺観光せねばと思い立つ。いや、やっぱりその時間で、「穴子と熱燗一本!」とこうなるかな。
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戦慄の料理書

 久々の読書記録。
○秋草俊一郎編訳『ナボコフの塊 エッセイ集1921-1975』(作品社)・・・書評、とか『ロリータ』関係とか、主題で分類されている。ごく平俗な意味で面白いのはソヴィエト作家への痛烈、というより猛烈な悪罵のところ。百パーセントナボコフに理があるのだが、少々品が悪い口ぶりで御用作家の愚劣悪趣味不誠実を執拗に暴きつづけるのを見てると、なんだか貶しつけられている作家連中が気の毒になってくるほど。反対に精緻に玩賞すべきは『オネーギン』を取り上げての翻訳談義。「意味を完全に移しえない翻訳には存在する価値がない」という立場から、ナボコフはこの作品を英訳するにあたり、脚韻の使用を断念した。結果、これに噛みついたエドマンド・ウィルソンと論争に至ったのは有名なエピソード。どちらが正しいかは決めようもないけれど、骨の髄までしゃぶり尽くすようなナボコフの吟味の手つきは見ものです。
○橘宗吾『学術書の編集者』(慶應義塾大学出版会)・・・名古屋大学出版会はものすごく打率が高い(当方なぞ人文系統しか読んでませんが)。筆者はその仕掛け人。ジャーナル論文の寄せ集めではない「書物」を造るには、編集者の企画力が必要不可欠なんだな。
岸田秀『日本史を精神分析する  自分を知るための史的唯幻論』(亜紀書房)・・・岸田唯幻論による史論の大成的一冊。某隣国のヒステリック(かつ不作法)な騒ぎの原因を「抑圧されたものの回帰」で割り切っちゃうという乱暴さが、むろん読みどころ。気に入らないところもある。たとえば原発などの問題を問われて「今の日本人にそれが出来るかどうか」と答える、この口つき。一挙にしらけてしまう(言うまでもないが、原発の賛否自体を論うのではない)。刺戟的な暴論のはずが、なんだかネットやテレビのもっともらしい解説に見えてくる。
陳舜臣『天空の詩人 李白』(講談社)・・・遺稿集ということになるのか。杜甫でも李賀でもなく李白ってところがなんとなく陳舜臣さんらしくて、いい。前半は李白詩の評釈で、後半は陳大人の詩集(もちろん漢詩)。こちらの方が面白い。
○鎌田浩毅『地球の歴史 上中下』(中公新書)・・・話術が巧み。なんでも理系向けの文章読本書いてる人なのだそうな。人類誕生を叙する下巻よりも、虚空でどすんばたんと星同士がぶつかって、やがて一つの星を形成していく上巻が読んでいて一等興味深かった。ふとパスカルがおぼえたような戦慄が身ぬちを走り抜ける。
○持田叙子『歌の子詩の子 折口信夫』(幻戯書房)・・・安藤礼二とどうしても比較してしまう。淡味というより薄味だなあ。新全集の校訂・解題に携わっていたのだから、もう少し細やかな知見をじっくり語ってほしかった。
塩村耕編『三河岩瀬文庫あり 図書館の原点を考える』(風媒社)・・・小冊子だけど、中身は極めて濃い。「細やかな知見」一つ一つがじいわり効いてくる。本好きの人間は読んでおいて損はない。
○アメリア・レイノルズ・ロング『誰もがポオを読んでいた』(赤星美樹訳、論創社)・・・題名といい章題といい、いかにもリヴレスクなミステリだが、はて聞いた事の無い作者だ・・・と思って解説を見たところ、これが凄い。ぜひ実物にあたることをお薦めする。フレーズを一つだけ引くと「二回読みたくなるなんてことを決して考えないならおすすめ」(うろおぼえ)。こんな惹句(反惹句?)が溢れている、じつに愉快な文章です。さて実物の出来栄えはというと・・・ま、実物をお読みください。(笑)。
○菅野昭正『明日への回想』(筑摩書房)・・・端正な文章。こういうのが書けるひとでないと、「品格」などというオソロシイ言葉を使ってはいけないのである。
○柴田日本料理研鑽会、川崎寛也『料理のアイデアと考え方』(柴田書店)・・・シリーズ二冊目。これは京都の料理人が寄って、テーマとなる食材でオリジナル料理を作り、それを全員で食べて論評し合うという形式の本。どうです、聞くだに身の毛もよだつような趣向でしょう。もちろんさすがは京料理の代表的な面々で、うーんと唸るようなレシピもたくさん教わったが(皆さん新しい食材・調味料、そして調理技術・道具の導入にじつに熱心)、「本」としての読みどころはそこにはない。誉められたもんではない一品が出たときの、皆さんの批評の苛烈さ。ほとんどホラー小説に類する。またね、失敗の多い某氏が、「それで、そんなんしたら絶対突っ込まれるやん!!」という料理をこさえてくるのである(妄言多謝)。案の定次のページではクソミソに言われている。なんというか、「志村ーっ、うしろーっ」と金切り声を上げたくなるような情景なのでありました。
○八木沢敬『「正しさ」を分析する』(岩波現代全書)・・・八木沢敬さんの本は、専門的な論文は除いて、結局全部読んでいるのではないか。分析哲学が性に合うわけではないと思うんだが。まあ、ファンといっていいだろう。今回は題名通り、「正しい」の意味・あり方をとことん理詰めに明かしていく。どういうことかというと、《「水星は金星より小さい」という言明が正しいのは、水星が金星より小さいからである》ということを延々と論証していくのである。「アホか」と思った人はスリリングな知的舞踏の愉しみを知らない人である。理で追い詰めたあげくに、直覚的な我々の存在そのものへと回帰していくところも、哲学の本には変な形容ですが、剛直でよろしい。
養老孟司『身体巡礼』『骸骨考』(新潮社)・・・これは養老身体論の集成と言うべきか。ヨーロッパにおける身体(正確には死体)、特に心臓へのやけに生々しい固執の謎を考えたあげくに、「分からんものをそれなりにしておくカトリック」はすげえなあと関心している養老先生の“結論”に、反語でもなんでもなく感歎する。そ、プロテスタントなぞどうでもいいのです。しかし、面白いのは話があっちに飛び、こちらを周り、いつの間にかぐいーんとでかくなっている、文章の奇にして妙なる味わい。自由自在、という感じ。
 その他。
戸板康二『名優のごちそう』(皆美社)
○河合正治『足利義政と東山文化』(「読みなおす日本史」、吉川弘文館
井野瀬久美恵大英帝国という経験』(「興亡の世界史」16、講談社)※このシリーズ、ヒット率が高い。
○ケネス・バーク『象徴と社会』(森常治訳、叢書ウニベルシタシス、法政大学出版局
鈴木健一天皇と和歌 国見と儀礼の一五〇〇年』(講談社選書メチエ
○小佐野重利・京谷啓徳・水野千依『百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』
○大野芳材『17―18世紀 バロックからロココへ、華麗なる展開』※両者とも以前紹介した「西洋美術の歴史」シリーズ。中央公論新社。書き手によって差が出るのはやむを得ないとして、全体に見れば水準が高い(一般読者への本として)のではないか。
○楠家重敏『幕末の言語革命』(晃洋書房
今日泊亜蘭『最終戦争 空族館』(ちくま文庫
○アレックス・カー『犬と鬼 知られざる日本の肖像』(講談社学術文庫

 今回もやけに小説が少ない。グラシアンの『エル・クリティコン』とイラーセク『暗黒』というやたらと長い小説(前者は寓意物語と言うべきか)にかかり切りなのである。グラシアンは贔屓役者なので、そのうちじっくり書こうと思う。
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水源を尋ねて桃源郷に至る

 いつものように長峰霊園下へ湧き水を汲みに行くと、水が涸れていた。枯渇の危機は何度かあったけど(「逃げ水の記」ご参照ください)、なんとか保ってきたのに・・・。


 といつものように早手回しに暗澹とするこちらを余所目に運転手兼ボディガード兼レンジャーの空男が冷静にパイプの元を辿って、砂防堰の上まで続いていることを発見。よっこらしょとフェンスをくぐって探してみるに、あっけなく「事故」の箇所が判明した。パイプの継ぎ目が外れて、地面にじゃあじゃあ漏れていたのだった。継ぎ直すと水はすぐに出るようになった。無事に汲めて良かったとはいえ、元は三本あった湧き口も今や一本。しかも十年前に比べて明らかに迸る勢いが落ちている。


 帰りの車で、何となく「オレの年金どうなるのかなあ」とか「さりとて墓に布団は着せられず」とか思ってしまったことであった。


 ただしこの日はまっすぐには帰宅せず。折角足があるのだから、と東遊園地「EAT LOCAL KOBE」から東山市場へ回ってもらった。桃の節句料理用の食材を仕込むため。そういう具体的な目論見でもなければELKのような、意識高い系お洒落カフェ男子系(なんだかよく分からん)のイベントに行くことはないのである。「もっとも儂たちも、カフェ系ではないが水系男子ではある」と、二人で苦笑する。ここではトマトとパクチーと玉子を買った。ワインも呑んだがさしたるものではなし。無農薬有機栽培は、ま、いいとして、天然酵母発酵だかなんだかと謳っていたのはどういう意味だろうか。でないワインつーのがあるのか。


 たまたま催し物の横では日教組系(歌声喫茶系とでも言いますか)の団体が集会をやっていた。人数の割にシュプレヒコールの一つもなく、大人しすぎるのがかえってブキミである。右翼の連中を刺戟するのを怖れていたのか。それにしても、あんな気概の無い、志ん生の言い回しを借りれば「無くっても無くっても構わない」ような左翼いじめを嬉々としてやっている(淫している、とさえ言いたくなる)人たちもまあよく閑がありますな。平和なことよ。


 床屋政談はつまらんですな。買い物の話に戻りましょう。東山では蛤・針魚・笹鰈・縮緬雑魚・菜の花・柚子、それに桃の小枝。で、一日遅れの「雛御膳」としてこしらえたのは・・・


ばら寿司・・・縮緬雑魚、独活のきんぴら、高野豆腐は飯に混ぜ、菜の花を湯がいて刻んだもの、菜種玉子、独活の梅酢漬を上に乗せる。
○蛤汁・・・いつもは潮仕立だが、今回は鰹出汁を三分の一ほど加えた。従って塩に加えて淡口醤油も滴々と。椀妻は菜の花とめかぶとろろ、吸い口は柚子。
○漬け物・・・ひと月前に漬けた沢庵樽をこの日開封。ほとんど水が上がっていない。こういう場合どうしたらいいんですかね。焼酎でも入れてみるべきか。香りと歯ごたえはまずまずだったけど。あとは芥子菜の醤油漬けと茗荷の塩漬け、胡瓜のぬか漬け。全部自家製。一体に、漬け物となると無闇に張り切る質である。

 節句料理としてはこれで必要かつ充分なのですが(たとえば船場の代表的な旧家水落家の「行事帳」など)、鯨馬もやっぱり現代人だけに、さすがに汁と漬け物では愛想がないな、という気分。で、足したのが、

○笹鰈・・・一夜干ししたのに、白酒(単なる濁り酒ですが)を塗って焼く。これは京都の旧家杉本家の年中行事食としてあったような。
○針魚造り・・・素人ではあの細っこい魚の皮を引き、黒い腹膜(少しでも残すと腥くなる)を綺麗に取るのは難しい。で、三枚におろすまでは魚屋でしてもらう。家では昆布締め(普通の昆布では味がきつくなり過ぎるので白板昆布を使う)し、甘酢にさっとくぐらせる。食べしなに柚子をおろしかける。もう柚子も名残だからふんだんに用いる。山葵醤油で。
○紅苔菜の胡麻和え・・・中国野菜なんかな?スーパーで臙脂いろが目にとまって買った。ところが湯がいてみるとあに図らんや、蕨みたいな灰黒に変わってしまう。なんか赤の彩りを添えねば、と思ってトマトを買ったわけ。賽の目に切ったトマトと鳥の酒蒸しを混ぜて胡麻味噌で和える。胡麻を擂りたおしたところに赤味噌・煮切り味醂・粉山椒で味付け。

 酒は『宗玄』を上燗で。一日遅れとはいえ桃の祝いやからな、と久々に陶淵明の『桃花源記』を広げつつ(行儀が悪い)、ちまちまと肴をつついて、風雅きどりで早い晩酌を愉しんでいたのですけれども、その後張龍と焼肉に行ったのは何故だったんだろう。ユートピアから俗世に戻るための儀式みたいなもんか。


FBにものせましたが。
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怪人の紅 皇帝の青

 老眼が進んで、しょっちゅう眼鏡をかけたり外したり。これがまことに煩わしいので遠近両用の眼鏡を作った。これでもう少しは本が読めるようになるかしらん。一週間後が愉しみである。


 三宮に出たついで、とスマートフォンの機種変更にも行ったところ、三時間もかかって疲労困憊。一日のうちにあれだけ自分の名前を書かされたのは生まれてはじめてである。県立美術館の『アドルフ・ヴェルフリ展』を見に行くつもりだったけど、とても開館時間内に行けそうにない。どこかに食べに行く気力も喪失し、よろよろと家に帰る。まあ、重大な情報を抱えた機械だから、手続きが多少煩瑣になるくらいは辛抱するとして、そもそも作業動線や職務分担・引き継ぎのあり方があまりに拙劣すぎるために、無駄な時間が出るんだと思いますよ、三宮のヤマダさん。


 ヴェルフリ展に行けなかった代わりという訳ではないけど、週末は美術館のはしごをした。大阪に出る機会もそう多くないので、出た日はどうしても欲張ってしまう。


 一館目?一展目?は中之島国立国際美術館。『クラーナハ展』である。これだけの規模でこの画家の展覧会が開かれるのは初めてらしい。


 元々さほど関心のある画家ではなかったものの、裸婦像のいくつかくらいは見覚えている。今回はじめて実物をとっくりと見て大分印象が変わった。やはり絵は直に見なきゃね。


 結論からいうと、「この画家、かなりヤバいやつちゃうやろか」。


 裸婦像の肌の真珠のようにつややかなマティエール、というイメージは間違っていなかったが、女たちの視線が悪魔的diabolicで、そのくせ妙に嗜虐欲をそそるような按配で、どうも落ち着いて観られないのですね。ええ、一番有名な『ホロフェルネスの首を切り落としたユディト』にしても、一見あれだけファム・ファタル的な図柄でありながら、サド侯爵的衝動を引き起こすような描き方なんです。これはわたしにそーゆー性癖があるのではなく、画家の視線が淫猥で執拗であることに由来するのだと思う。


 でなければ、ヴィーナスを描いてもユディトを描いてもマリアを描いても、いつもあの顔になってしまうはずがない。「あの顔」というのは剥き玉子のようなところに淡い眉が嫋々とたなびき(と形容したくなる)、うす色の瞳はかすかにアンバランスな細い目に象られ、ここだけやけに目立つ紅い唇(これも眉の如く細い)、という道具立てのことです。


 たしか『城の中の城』だったと思いますが、主人公の夫が手を付けた料理人の女性の風貌を述べるのに、「クラナッハ風」ということばが使われていました。これは賛辞ではありません。その正反対で、ひどく汚らしく不健全な雰囲気というニュアンスだったはず。その時は悪意の滴るような描写を、いかにも倉橋由美子らしいと面白がっただけでしたが、今回絵をまとめて見て、これはかなり正確な観察だったな、とへんなところで感心する。


 それでも大嫌いで二度と見たくないか、というと不思議にも図録を買ってしまったのである。鮒寿司やくさやの臭気がやみつきになるのと同じような精神の生理がはたらくのだ、と自分で分析してみる。だからこそあの好色なピカソクラーナハの絵を何度も何度も写しては自分流に描き直しているんでしょうね。


 ルターの、多分一等有名だと思う肖像画(右を向いて、黒く平たい帽子をかぶっている)を描いてたのもクラナーハだったんですな。知らなかった。一体にこの助平爺は、新教に心情的に好感を抱いていたらしく、このルターとか、ルターを神聖ローマ皇帝から匿ったザクセン選帝侯とかの肖像となると、diabolicな趣が急に影をひそめる気配である。


 これは鯨馬ひとりの感想ではなかったんじゃないか。たとえばルーベンスやモネの展覧会とは違って、周囲の見物客がどことなく「綺麗と言えば綺麗なのだが・・・」と戸惑っている按配だったのが可笑しかった。


 さて二つ目は東洋陶磁美術館。『台北 國立故宮博物院北宋汝窯青磁水仙盆』である。たまたまこの順番になったのだが、結果的にはこちらが《口直し》的な役目を果たしてくれて丁度良かった。元々贔屓のミュゼで、好きな理由のひとつが客の少なさにあった。それがこの日はたじろぐ程の大盛況。まあね、「人類史上最高のやきもの」なんて宣伝したらやはり集まるわな。もっとも「人類史上最高」かどうかはともかく、汝窯の磁器がこれだけ見られることもそうそうないだろう。それに今回の展示は水仙盆ばかりを集めているということで、釉薬の微妙な発色の違いをじっくり味わうことが出来る。混んでるっていっても、週末であんなものだったから、のんびり見て回る余裕は充分ありますよ。フェルメールやらルノワールやらの「泰西美術名品展」(懐かしいひびき)とは比べものにならない。


 というわけで時間をかけて見比べていた。青磁と聞いて浮かぶ、他人行儀な冷ややかさの感じられない所が名品たる所以か。ことに外側の面が薄くあぶら、それも獣脂ではなく魚、たとえばよく肥えた鯛の造り身の切り口に輝く虹色のあぶらのような、それを刷いた如くとろっと光を放っている。なで回したら絖のような触感なんちゃうかしら。


 だから「天青」の色とはいっても、やはり地中海地方の空の非人間的なまでの青さではなく、どうあっても驟雨一過した後の空の色でなくてはならないのである。つまり潤いがある。


 乾隆珍襲のこの傑作を玩賞しているうちに、悪癖が出た(万引きではない)。どんな料理を盛り付けたら映えるか、とかなり《真剣な空想》に耽ってしまうのです(だから料理の盛りようのない形の花器などには関心が無い)。河豚や虎魚の薄造りはちと陳腐か。干口子と木耳を使った白和えならどうか。いっそ雉や山鳩を炙ったのに赤ワインと八丁味噌でつくったソースを掛け回すくらいの思い切りが必要なのではないか・・・などとひとしきりはしゃいでおりました、


 熱くなったアタマを冷ますために、水仙盆の部屋を出て常設・特集展を回る。高麗・李朝青磁白磁を見るとなんとなく落ち着く。いくら柔らかい肌合いとはいえ、やはり朝鮮の器に比べると、汝窯はよく言えば端厳、悪く言えば気取りがきつすぎて、見ていて少なからずくたびれる。


 日本陶磁の室に入るといよいよその感は強まる。中国朝鮮日本を真行草の三態に喩えるのは、既に誰かがやっているだろうが、ごく自然な発想だろう。


 一つ例を挙げるなら織部の舟形向。なりといい緑釉の掛け方といい、斬新で放胆。織部を好む鯨馬のような人間にとってさえ、しかし、この行き方がしどけなさや野鄙とぎりぎりの所で遊んでいるような危うさを感じさせるのもまた事実なのである。


 日本文化が一般に非対称性や未完成の趣を好むとはよく指摘される。文化とは「昔からそういうもの」であって淵源を訊ねるのは無意味に似るのかもしれないが、この傾向が果たして真実どこまで「一般」なのか、仮にそうでないとしたらそれはどこからまた何故に、ということが気になる。ここ数年、折に触れてはそういうことを考える。でも性疎放懶惰にしてなかなか旨く説明出来るまで考え抜けていない。


 ま、取りあえず口子と木耳の白和えで一杯やるか(それがいかんのだ)。


 本の話はまた来月に。明日から三月なのだが。
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牛と蛸と美少年

 職場菜園の青ネギが大豊作。で、家で鴨すきをした。清酒と薄口醤油の割り下にちょっぴり蜂蜜を落とす。卵は用いず、柚子をしぼったり針柚子をのせたり粉山椒をふったりして愉しむ。翌日は鴨のあぶらと肉汁がこびりついた鍋でうどんを炒める。


 一人で抱き身一枚はえらく食べでのあるもので、鴨もすき焼きもこりゃ当分は要らんわな、と思っていたところ、またもやすき焼きを食べることになった。


 ずいぶん奢っているようだが、自分でやったわけではない。『いたぎ家』が誘ってくださったのである。なんでも某料理人が「ホンマに旨い牛肉を食べさせてあげる」と差配してくれ、鯨馬もそのご相伴にあずかったというわけ。


 『バンブー』の竹中さんが(あ、名前書いてしまった)肉を焼いてくれたのだが、当方の如きずぶの素人が見ると目をむくぐらい砂糖をふりかけるのである。醤油はちょっぴり。そして肉はしっかり焼く。そんな罰当たりなことをして・・と心配になるほど、綺麗な極上等の肉である。


 まさか、と思いつつ口にするとこれが旨いのですな。魔法にかけられたような気分でありました。『いたぎ家』営業終了後からの開宴だったため、夜中三時過ぎまで「むう」と唸りつつ食べていた。言うまでもなく食べ物や酒の話で盛り上がりながら、ビールや燗酒をくいくい流し込む。


 翌日、魔法が解けた。昼過ぎに起きると猛烈な胃もたれ。太田胃散を大量にのむ。無論竹中さんの所為でも牛の罪過でもなく、四十男の胃袋の脆弱性に問題がある。はて、そう言えば竹中さんも年はそう変わらないはずだが、大丈夫だったのかしらん。


 昼すぎに向かったのは神戸市立博物館の古代ギリシャ展。空前の規模とかなんとか惹句にあったと思うが、ま、点数はともかく近頃ずいぶん見応えのある展覧会だった。なにしろクレタ文明からヘレニズムまで、要するにギリシャの古代史全部をぎゅっと詰め込んだという展示なのである。


 個人的にはクレタ文明のところがいちばん面白く見物できたな。クレタというところは、中心となる宮殿がミノタウロス(半人半牛の怪物)の棲むラビリントスと目されたくらいで、牡牛の信仰が盛んな土地だった(若者が牛を飛び越えるという儀式もあったらしい)。当然出展品にも牡牛を象ったものが多い。素朴な粘土製のものも精緻な青銅細工もとりどりに見てて飽きないが、面白いのはそれらが犠牲獣の代わりに用いられて、時には破壊されたという説明。


 そうだろうな、あんな可愛らしい動物を殺すなんてしのびないもんな。と納得する。


 エピテートンというものがあります。言ってみれば本朝の枕詞で、特定の名詞を修飾する定型的な言い回しのこと。「眼光輝くアテネ」とか「狡知に長けたオデュッセウス」とか。その中に「牛の眼をしたヘラ」というエピテートンがある。ヘラは大神ゼウスの妃神。ヘラの大地母神的性格を示すという説など色いろで、由来は結局分からないらしいのですが、『イーリアス』を読んでこの形容に出会った時、直観的に「ははん、ヘラの美しさを讃えたことばだな」と思った。牛の眼って大きくて黒く濡れていて、いかにもうつくしいから。女神を形容するのに家畜を持ってくるというところでどきっとさせられますが、古代人にとってはごく自然な心の動きだったはず。


 なんの話だっけ? そう、クレタの牛。我々よりはるかにこの草食獣と親しんでいた人々が、可愛さのあまりに代替物をこしらえるのは実にもっともなことだと頷く一方で、牛を犠牲に捧げた後は当然神との共食という名目で饗宴が開かれただろうから、あんなに美味い肉の味をおぼえた人間が、せっかくのご馳走にありつける機会をふいにするはずもないなあ、と思い返したりする。もちろん昨晩のすき焼きの味を思い出しているのです。歴史の解釈というのはかくの如く難しい。


 牡牛の他に海洋的性格が強いというのもクレタ文明の特徴。海洋的性格、なんていうとややこしく聞こえますが、要するに壺や甕に描く紋様に、海洋生物のモチーフが多いということ。これがすばらしい。


 感銘の半分は文学的なもので、引きしまったイルカの形姿を眺めていれば西脇順三郎の世界が揺らぎ出るのはごく自然な成り行きだし、蛸のモチーフからは吉岡実サフラン摘み』(現代詩屈指の名品)の一節がひびいてくる。もう半分は、純粋に造形にうっとりした。蛸なんか、普段からよく観察してるんだろうなあという形の妙。そのくせやっぱり蛸ですから、どことなくユーモラスな趣があるのもよろしい。


 牛と違って愛玩していたわけではないだろうけど。


 古典期の彫刻は面白くないわけではなかったけど、クレタのほうが上だな。最後のヘレニズムの部屋に入ると尚更具合が悪い。どれも妙にリアルであくどくて、一言で言えば品格が低い。誰やらが「悪しき人間主義の亡霊」と評していたのはこういう傾向であるか、とある意味めっけもんだったと思いながら見て回り、会場を出ようとした最後のところに尤物が控えてました。伏し目がちな美少年の胸像。


 性的嗜好を告白してるんじゃないよ。この像のモデルとなったのはアンティノウス。注釈しておくと、ローマ帝国最盛期の皇帝ハドリアヌス(いわゆる五賢帝の一人)の愛人だった少年。ナイル川で事故により溺死。悲嘆に沈む皇帝は、アンティノウスを神格化し、アンティノエという都市まで建設したほど。世界史上もっとも豪奢な追悼のひとつではないか。


 もっとも鯨馬がローマ史に詳しいわけではなく、これまでの情報はすべてユルスナルの歴史小説ハドリアヌス帝の回想』によるもの。読まないと人生で大損したことになるような名作ですよ。詩人多田智満子の訳文は、神品とも称すべき出来栄え。そういえば多田さんもたいへんなギリシャ贔屓だったよなあ。


 ともあれ、一時この小説にずいぶん入れあげていた人間としてはアンティノウスの像は見逃せないものだったのです。彫刻としても出来がいいんじゃないかな。と書くとさっきヘレニズム期の作品をくさしたのと矛盾するようですが、なにせモデルは半分神様みたいな存在だし、顔の造作もだいぶん欠け落ちているため、へんに生々しいところがいい具合に薄らいでいるのである。「少し不満げな(きかん気、だったか)頤の線と思い詰めたような瞳のいろ」だったか、正確には憶えていないが、そんな風な特徴は良く出ている(というよりこの彫像を見てユルスナルが書いたのでしょうが)。ウィキペディアの画像では少し輪郭がきつく見えますが、実物はもっと陰翳に富んでいる。蛸の壺とアンティノウスの絵葉書が無いかと探してみたが、なかった。


 夕景になって、まだ少し重い胃を抱えたまま、三宮の鉄板焼き屋へと向かう。こんな調子で鉄板焼きなぞの食べたかろうはずはないので(いや空腹時でも選ばんか)、張龍が「久々に鉄板焼きでビールを呑みたい」というのに付き合ったまでのこと。


 というつもりでしたが、悪くない店で、後半は張龍よりもよく食ったくらいであった。メニューの中に「蛸のバター焼き」なるものがあったので、なんとなく嬉しくなって注文してしまう。ここらへん、精神の動き方は複雑にして微妙。ぷりぷりした美味い蛸でした。


 さすがに「佐賀牛300グラム」は頼まなかった。


 その後も当然飲み歩いていたのでしたが、最後の店で張龍が突然、こわれた。靴も靴下も脱いで床にひっくり返ってしまい、駄々っ子のようにばたばたしておる。たしか張龍には七つの肝臓があったはずじゃが・・・たった六軒くらいで乱酔するとは、こやつももうオッサンということか(三十二才)、無常迅速秋の風。悵然となって四十三のオッサンが家までかついでいく。嗚呼人生。
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狐が鼻をつまむ

テリー・イーグルトン『悪とはなにか  テロ、大量殺戮、無差別殺人-理性を超えた「人間の罪業」を解き明かす』(前田和男訳、ビジネス社)

悪とはなにか

悪とはなにか


 《混迷を深める》が枕詞のようにくっついてくる「現代世界」。そこに、イーグルトンがこういう本を出したのだから、つい読んでみたくもなるというものではないですか。


 勢い込んで手にはとったが、しかし、読み終えるのには一苦労した。第一に、訳文がひどい。

*「アイルランドの偉大な哲学者であるビショップ・バークレー」・・・誰やねん、それ! バークリー主教なら知ってるけど。
*「現代の哲学者であるフレドリック・ニーチェ」・・・ニーチェはイギリス人かいっ!(後のほうになると「フリードリッヒ」になってる)
*「アイルランドの哲学者エドムント・バーク」・・・バークはドイツ人かいっ!
*「神学者のカール・バース」・・・阪神の助っ人かいっ!


 ペダンティックな揚げ足取りではない。こういう表記を平然と並べられる人間が、まともに内容を理解して訳しているのか、という疑念が生じるのはごく自然な反応だろう。あるページには「現代芸術」に「モダニストアート」とルビがふってあって、まあこれは一応許容するとしても(一応、と言うのは、イーグルトンが「ボードレールからイエーツまで」と挙げて形容している以上、「モダニズムの芸術家たちの作品」ととるのが適当だと思うからだが)、なんとすぐ次のページには「モダニスト芸術」なる訳語が出てくるのである。アタマをひねって概念の違いを考えてみたが、鯨馬にはさっぱり分からない。


 これ以外にも、文意のとり難い箇所や、そもそも日本語の構文/語法として成立しない箇所が頻出し、《知的虚弱児》には、到底気に留めず読み進められる代物ではなかった。本書(の原書)に大いに「触発」されて『悪の力』を書いた(と訳者あとがきにある)姜
尚中が推薦文を書いており、「訳文碌に見もしないで推薦文書いたんじゃないの、姜東大名誉教授(と推薦文に自ら記している)!」と、推薦者の見識を一瞬疑ったけれど、よくよく読んでみると、みじかい文章の末尾に「イーグルトンの著作の中でも難解な本書の邦訳に挑戦した訳者に敬意を表したい」とあるのですな。ははあ、こういう逃げ方もあるわけか、と変に感歎してしまった。


 ここまで苛々させられるのなら、Amazonで原書をぽちっ。とすればいいようなものだが、そういう気も起こらなかったのは、イーグルトンの論理自体にあまり納得できなかったからである。


 イーグルトンははじめに「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」と言う。そして「ポストモダンのカルチャーは、食屍鬼や吸血鬼には魅せられながらも、悪魔については語るべきものをもっていない。(中略)ポストモダニズムにとって罪を贖うべきものは何もないのだ」(「贖うべき罪は何もない」の誤訳か?)と啖呵を切る。ははあ、《物語》消失後の、優雅にして平板な消費社会(某氏のいうところとは違うだろうが、「動物化」した人間集団)において、深刻な悪の意識は生まれにくく、全ては「カルチャー」上の戯れになってしまうわけだ・・・と考えながら読み進めると、果たして「人間=水平的に超越/悪魔=垂直的に超越」という表現が出てくる。こういうところの表現の切れ味はさすが『アメリカ的、イギリス的』の著者だなあ、と感心する。


 それはともかく、マルクス主義イーグルトンが、水平に超越する、つまり現実の歴史=社会と政治のうねりにコミットしつつ歴史を乗り越えていくのが人間というものである/であるべきだ、と主張するのはよく分かる。だとすれば、「垂直的に超越」とは、社会的背景・心理的理由等々の地平から隔絶した、それこそ神学的乃至形而上的なあらわれであるしかないわけだ。実際、オブライエンの『第三の警官』という一代の奇書を分析しつつ、シェリングの議論を援用して、悪とは「善をはるかに超える霊的なもので、物質的実在を忌み嫌う」存在だと定義する。


 しかし冒頭で認めるように、「悪魔の行いも悪魔的人間も存在する」のであるからには、理解しがたいこの悪(魔)といかに対峙するか/対峙は可能なのか、と手に汗握る思いで議論の行方を注視したくなるのは当然でしょう。少なくともブログ子は、テリー孫行者が、自ら組み上げたお釈迦様の掌の上でキリキリ舞いする奇観を予想して胸が高鳴った。どの道こんな大問題に結論の出ようわけはないのだから、“必死のパッチ”で如意棒を振り回す、その手振りに「考へるヒント」あるいは生きてゆくことへの慰めを見出そうとしたわけである。


 ところが、イーグルのダンナ、ここに至ってなぜかトーンダウンしてしまうんですね。それも闘う相手の強大さに意気消沈するという意味ではなく、相手を矮小化してしまうという意味で。



  悪魔は圧倒的な非現実、驚くほどのまがい物、意味の破壊、重要な次元の欠落、退屈きわまりない単調な繰り返し



 「圧倒的」という措辞は見られるものの、これでは単にポストモダン的状況への悪罵ともとられかねない口ぶりである。またマンの『ファウストゥス博士』を取り上げて言う。悪魔は破壊を好む、それは創造主たる神の御業を貶めるための唯一の手段だからである、だが、破壊は存在を前提とするがゆえに、永遠に悪は敗北せざるを得ない地位におかれているのだ・・・。


 最終章で弁神論の欺瞞を鋭く攻撃しているイーグルトンが口にするには、これはあまりに放胆な断定ではないか。そもそも悪魔を形容して「非」現実・「まがい」・「破壊」とする点がクサイ。クサイというのは神学的口吻の響きが感じ取られるということだ。悪を欠如態としてとらえたのはかのアウグスティヌスであった(本書でも言及される)。これはキリスト教的思考に特有の、いわば「体臭」のようなものか。うろ覚えで引用するのだが、批評家川村二郎が、ホフマンスタールを論じた文章の中で、地獄を指して「強烈に現実的」と形容していた筈である。鯨馬はこの指摘の方に、によりリアルな悪/地獄の本質を見て取れるように思う。


 イーグルトンの提出する命題をもう一つ。


  悪魔は、宗教原理主義者と同じで、大昔の素朴な文明社会における懐古物の一つであり、(中略)その意味では悪魔は現代におけるモラルの低下に対する抗議ともとれる。悪魔とは現代人を好ましくないと見る高踏な復古主義者である。



 イーグルトンが「宗教原理主義者」らの抱くノスタルジーに肩入れしていると勘違いする粗忽者は、まさかいないだろうが、さるにても悪魔がえらく「分かりやすい」存在になっている感は否めない。もちろん、犀利なテリーはそのことにはとっくに気がついていて(いるのかな?)、引用に続く部分では「より正確に言えば、誰もが好きなのは愛すべき悪党であろう。われわれは権力を馬鹿にする人には惹かれるが、強姦や企業ぐるみの詐欺はよしとしない。サヴォイホテルの倉庫から塩を盗む人には密やかな共感をよせるが、人々を八つ裂きにするイスラム原理主義者にはそうはならない」と補足し、その上でポストモダンの世界における「破戒」《ごっこ》(というのは評者の形容)を、「疲弊した感性」と再び切り捨てる。この評価に同じる人でさえ、悪そのものの本質および存在については何だかはぐらかされたような気がするに違いない。「そもそも悪魔は…退屈きわまりない存在」である、「ある種の現代アートのように外形は整っているが内実がない」。


 これこそ内実がない議論ではないか。それとも、今思い浮かんだのだが、ひょっとすると悪魔とは、薄っぺらで平板きわまりない姿態にさえも自在に変貌して人々を退屈な消費へと追いやる老獪なシステムのことを言うのかしら?「憂鬱」ないし「怠惰」は七つの大罪の内に数えられていたはずだ。


 ドーキンスの白痴的楽天進歩主義をこきおろすイーグルトン。そのイーグルトンは最後にどう言っているか。



われわれが気をつけるべきなのは、大部分は昔ながらの利己主義と強欲であって、悪魔ではない。(中略)すなわち、もっとも邪悪なふるまいも制度上引き起こされるものなのだ。


フロイト主義をはじめ、どんなに強固で確固とした政治的変革を成し遂げても人間のもつ多くの醜悪さを消し去ることはできないとする見方は山ほどある。そうした政治の限界を自覚することが真の唯物主義であり、そこには唯物的な種であるわれわれも深く関係していると自覚することも含まれる。それでも過激派(引用者注。訳書ではこの語には「ラディカル」とルビが振られる)は、大多数の人民にとって生活は簡単に良くすることはできると主張する。それは単なる政治的現実主義にすぎない。


 反駁する心づもりは全く無いが、しかしそれならばはじめから『政治的現実主義について』という本を書くべきであった。あるいは『悪の凡庸さについて』と、題名をあの本から借用すべきであった。読み終えた後、威勢のいいイーグルトンの背後で、「蝿の王」だか「堕ちたる明星」だか「否定する霊」だかの嘲笑が響いたのをたしかに聴いたようである。

 それにしても、イーグルトンってスコットランド出身だったっけ?


 従って今回は「双魚書房通信」扱いとせず。


 さて今日は初午。若菜の辛子和え、煮染め、小豆めし(赤飯に非ず)に子ネズミの天ぷら・・・はいけませんな、甘鯛の唐揚げかなんかで一杯やることにしましょう。


 結局、甘鯛の代わりに浅蜊と若布の揚げ真蒸となった。
↓↓↓


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