なんとか四月決算。

 久々に『播州地酒ひの』で呑む。なかなか席が取れず、二ヶ月ぶりくらいになるはず。もっとも人気店に当日の夕方に思い立って電話する有様だから、これは当方が悪い。ともあれ親分とゆっくりお話出来て、愉しかった。中トロのヅケと中トロのシーチキン仕立(!)が旨かった。その後は前田シェフ最終日となる『アードベックハイボールバー』へ。半年程の客でもやっぱりいっぱいに思い出があって淋しい。大サービスで出してくれた鴨のしっとりした肉質と塩梅の良さに余計さみしくなる。普段しないことだが、前田シェフと奥さんと並んで写真を撮った。

 さ、四月の本の報告もしときましょう。身辺多忙にて、今回も又、じっくり紹介する暇がない。我ながら嫌になるが、ま、こんな書名の羅列でもないよかマシさ、と言い聞かせながら記す。

○『池澤夏樹の旅地図』(世界文化社
富士川英郎『詩の双生児 朔太郎と犀星』(小澤書店)
○竹本源太夫・鶴澤藤蔵『文楽の家』(雄山閣出版)
○橋本功・八木橋宏勇『聖書と比喩 メタファで旧約聖書の世界を知る』(慶應義塾大学出版会)
清瀬卓・澤井茂夫訳『カルダーノ自伝』(海鳴社
○工藤庸子『評伝スタール夫人と近代ヨーロッパ  フランス革命とナポレオン独裁を生きぬいた自由主義の母』(東京大学出版会
○飯田操『ガーデニングとイギリス人   「園芸大国」はいかにしてつくられたか』(大修館書店)
○ラウラ・レプリ『書物の夢、印刷の旅 ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(青土社
○内村和至『異形の念仏行者 もうひとつの日本精神史』(青土社
伊藤大輔, 加須屋誠『治天のまなざし、王朝美の再構築  鎌倉・南北朝時代 』(「天皇の美術史」2、吉川弘文館
○イジー・クラトフヴィル『約束』(阿部賢一河出書房新社
深沢七郎『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)
新井素子『チグリスとユーフラテス』(集英社
ロルカ『ニューヨークの詩人』(鼓直訳、福武文庫)
○棚橋光男『後白河法皇』(講談社選書メチエ
飯倉洋一上田秋成 絆としての文芸』(大阪大学出版会)

 松岡和子訳のちくま文庫シェイクスピア全集』通読キャンペーン(?)は『ペリクリーズ』。これは初読ながら、人気があるの分かるなあ。恩人の娘を殺害する小(?)悪党夫妻が歌舞伎めいて面白い。

 グラシアンの『エル・クリティコン』はまだ読了せず。ものすごい大冊なので、一度途切れるとなかなか復帰しにくい。
 新井素子さんの、同じく大冊『チグリスとユーフラテス』のパワーに圧倒された。長篇的想像力というか。これに刺戟されて、山田正紀『宝石泥棒』も何十年ぶり(!)かで読み返す。これもやはり雄大かつ緻密な想像力の傑作。昔はSF好きだったんだなあ。
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遠雷

 四月の文楽は呂太夫さんの襲名興行。『菅原伝授』『曽根崎心中』と、統領株の演目が並ぶ。昼夜続けての見物はとかく堪えるし、また『曾根崎』にはあまり魅力を感じない。というわけで、昼の部の『菅原』を観に行った。

 「茶筅酒」の段に感銘を受けた。と取り澄ましてみたけれど、打ち割って言えば涙が止まらなくて往生した。『菅原』の中ではいちばん世話物の味が濃く、たとえば嫁三人が祝いの膳を甲斐甲斐しく支度するところでは笑いも起きる。実際微笑ましい演出なのだが、笑いつつ同時に泣けてくる。

 桜が満開なのだから春も闌けた時候。詞章には「申」と出てくるから夕景、如何にも鄙びた佐太の里にも白太夫の居所にも春の日影がのびやかにけだるく伸びているだろう。老人らしい野暮ったい軽口の止まない白太夫と、舅の上機嫌に笑いさざめく萌葱の着物の三人の若嫁。牧歌的と形容するのが何よりふさわしい舞台面。

 しかしこの春景色には、遠く微かに春雷が鳴っているように不吉な色調が紛れ込んでいる。それは第一番に、橋本治さんが言う所の「なんでもわかっている白太夫」(表現はうろおぼえ)のおどけた口調がアイロニカルに響くせいである。自分の祝いの宴が果ては痛切な別離に終わることを受け入れている老人の姿はたしかに胸をうつ。

 しかしそれ以上に桜丸女房・八重の哀れ深さは忘れ難い。相嫁二人にいわば裏切られた恰好で一人だけ戻ってこない夫を気を揉みながら門口で立ちすくす女。そのつい目の先には、無残に折りこかされた満開の桜が麗らかな陽光をいっぱいに受けている。

 おそらく歌舞伎の舞台でも見栄えのする構図だと思う。しかしここは是非とも人形浄瑠璃でなければならない。なぜか。

 白太夫一家を押しひしいでいく力の予兆を先に春雷と喩えたのだが、むろん菅丞相と藤原時平との権力闘争のことである。国の存亡に係る熾烈な争いはしかし、佐太村ではまさしく遠いひびきでしか無く、しかもその隔絶した世界の波濤が白太夫たちの小舟を散々に玩弄するのである。

 歌舞伎の用語で言う丸本物、つまり文楽から移された狂言の大きな特徴は宮廷幕府(時には神々)といった上の世界から虫けらのような底辺の民衆の世界までを縦断して見せるところにある、とよく言われる。

 その通りで、『仮名手本忠臣蔵』では勘平なる軽輩者のふとした「淫奔(いたずら)」ごころが藩一つを崩壊させてしまう(あえて史実の赤穂事件と芝居とを混同した名辞を用いている)。少なくとも浅野=塩冶判官の家の武士達にとっては、それは世界の崩壊に等しい出来事であったろう。

 そして六段目では初めの一穴を穿った勘平はもとより、許嫁もその両親もが狂瀾の中に呑み込まれていく。一連の経緯は論理的かつ巧緻でありながらしかも自然な運びで書かれていて、まことに間然することのない作劇術の冴えという他ない。

 そう、『忠臣蔵』はこの段取りがあまりに自然で有機的であって・・・そしてその分だけ、衝撃を与える力は弱まっているのである。佐太村の一家(そして源蔵夫婦をも)を襲った破滅は、字義通りの「雲の上の世界」の争乱の余波が、縁無き衆生を一様になぎ倒していく、ほとんど天災に等しい出来事なのだ。少しく話の柄を大きくすれば、オリュンポスの残酷な神々の戯れが英雄も王族をも踏みにじっていくホメロスの世界に似ているといってもよいし、卑近な喩えを持ち出すなら蟻の巣を壊し嬉々として蟻どもをひねり潰していく子どもの仕儀を連想させるといってもよい。どの道彼らは、文字通りの「操り人形」としてしか存在し得ないのだ。

 先代仁左衛門の、ほとんど伝説化した舞台を持ち出すまでもなく、この芝居における菅丞相は人間を超越した存在に近い。敵である時平のこれまた人間離れしたすごみ(「車引」の最後、戦慄的な登場の場面を想起せよ)と一対であるためには、むろんこうでなくてはいけないのである。時平は悪、丞相は善という一線は当然最後まで明確に引かれているのだが、しかしどうだろうか。光明と医薬の神たるアポロンも、疫病と怒りの神であるアポロンもともに人智を超絶した、「尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物」である。いみじくも宣長が「可畏」という措辞を用いたとおりに、ひたすら畏怖すべき存在であることには違いないのだ。

 そう考えてくると、田舎家での長閑な賀の祝いのトリヴィアルな描写が、この世ならぬ畏怖すべき存在の息の一吹きであっけなく潰えてしまう運命を予想させて、いよいよ哀れ深く映ってくる。すなわち、止まらぬ涙を如何せん、という事態に立ち至る。

 この日は、通路ぎわの席。通路を挟んだ真横には知恵遅れの青年(?)とその父親が並んで座っており、この青年が時折奇声を発する。まあ、辛抱できる程度だったのだが、こちらがしきりにハンカチを使っているところを見ては「あはははは。」と大声で笑うのには、あれは本当に困った。

 かほどに芝居の世界に没入したからには、呂太夫さんの浄瑠璃にも勘十郎さんの遣い方にも一言の論評も無いからとて、どうぞ咎めたまはざれ。


 前回更新から一月近くも経っているから、外食も何度かはしているけれど、いちばん記憶に残ってるのは自分で料ったメバルの数品。三十センチほどの大きさ。このサイズだと一人でぎりぎり食べきれる。

 上身にした一枚の半分は造り。梅肉を煮切り酒で伸ばし、ほんのり淡口で香りをのせた付け醤油で食べる。つまは独活の細打ち。
 もう半分は椀種に。薄く片栗粉をまぶして塩湯する。若布を添える。吸い口は刻んだ蕗の薹。

 翌日は残った上身を唐揚げにしてあんかけ。鶏出汁(大量の笹身で取る)に濃口・酒(紹興酒)・オイスターソースで調味する。餡には兵庫豌豆を沢山入れた。擂り生姜を上置きに。

 残ったアラは白濁するまで煮込む。これと浅蜊のスープとを合わせ、菜の花をメインにしてパスタに。貝のダシと菜の花って本当に相性がよい。
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稲荷の横のホルモン屋

 最近美味しく食べたもの。

◎『中畑商店』の「モツ焼き」・・・なぜか大阪の立ち飲み屋で横になった客から聞いた。「あんた神戸に住んでて知らんのか」風のものいいにキッとなってかえって行くまいと思っていたところ、お馴染み『いたぎ家』アニーのアップした写真を見て、猛烈に行きたくなったのである。軽佻浮薄、さながら紙の如し。場所がまずいい。神戸駅の西南、切なくなるほどの場末の街並みを抜けて、その名も嬉しい「稲荷市場」のどん突き、松尾稲荷のお隣にある。このお稲荷さんが、猫の額ほどの境内なのに、中々立派な構えで、社務所もしっかりしており、さぞ以前は栄えていたことだろうと思われる。「以前は」というのは、震災前は百軒からあった商店も今や三店ばかり(!)とか。おっそろしい寂れかたをしているからで、春寒の昼時分に、人っ子ひとり見えない商店街を心許ない気分で歩いていると、小松左京の焼け跡闇市モノの舞台に紛れ込んでしまったような感覚に浸されるのであった。ついで主人夫婦のたたずまいがよい。はじめは奥さんが相手をしてくれたのだが、気のあるような気のないような顔つきでモツ串を焼いてくれる、その熱々を頬張ってビールをぐいっとやると、じーんと落魄の詩情が身ぬちを突き抜ける。これはあれですな、小松左京風でもあるが、それ以上に種村季弘の漫遊記の風情ですなと内心呟いていると、なんとその種村大人そっくりの顔つきをした御主人が二階から降りてきた(こういう綺譚めいた巡り合わせがまた種村漫遊記らしい)。それが嬉しくてビールを燗酒(賀茂鶴)に切り替えて更に呑む。同じ日の夕方に顔を出した『彦六鮓』でこの話をすると、女主人の靖子さん曰く、「そのお稲荷さんにはウチの先々代が奉納した大きな提燈がかかってるはずよ」。ますます綺譚めいた話となった。


◎『海月食堂』の「蛍烏賊の炒飯」・・・以前の「渡り蟹の煮込み麺」同様、旨さのあまりこみあげる怒り(このへんの理路は当人にもよく分からぬ)を抑えつつ、ほとんど一息に平らげてしまう。敬士郎さん、五月に御徒町の『桃の木』に予約が取れたそうな。じつにじつに羨ましい。


◎『アードベックハイボールバー』の「ブダンブラン」・・・ぬめっ。とした食感が身上の、名前の通り白いソーセージ。前田シェフの金言に曰く「『ソーセージが好き』と言えない人間とはボクは友達になりたくありません」。一片を頬張って、ふんだんに散らしたトリュフの香りが口いっぱいに広がった時、「『ブダンブランを酷愛します』と言えないヤツは、たとえ古女房であろうと叩き売っちまうであろう」と思った。『アードベック』は来月末で閉店。半年足らずながらずいぶんここで愉しんだ人間には淋しい限り。と前田さんに言うと、近くの某店で働くことになったと教えてくれた。安くないとこだが、前田さんの料理を味わうことは出来るわけである。でもやっぱり、食事後の前田さんとバーテン(奥様)とのコーズリィ、というか莫迦ばなしが出来なくなるのは、つらい。


◎若布の擂り流し、炒り豆腐・・・これは自作。擂り流しは幾分とろみを付ける。具は海老を油通ししたのと粟麩。炒り豆腐は独活(たくさん)と溶き卵を入れる。白っぽく仕上がるように味付け。


 元都知事の証人喚問も少し古い話になってしまったが(生々流転)、これについてある人間がFBで発言していた。「八十四才の老人を血祭りにあげて何が面白い」。アホか。八十四才の老人を血祭りにあげるのが面白くない訳がなかろうが(政治的信条云々とは無関係)。そんなことを言ってはいけないから誰も言わないだけのことである(無論やってもいけない)。このヒト、我独り賢しという傲岸な姿勢といい、ぞくぞくするほど粗雑なことば遣いといい、贔屓の役者の一人だったのだが、こんなコメントに接すると鼻白む。そう言えば当今退位後の称号を巡っても「院政は史上最悪の暴政、それを連想させるような称号を使うな」とか言ってたなあ。後三条から後鳥羽までの院政が「暴政」と言うのはどう見ても判断の誤りだろうし、「二重権力」の弊を論うなら、鎌倉・室町・江戸幕府(そして大日本帝国の政府)による天皇の傀儡化が問題なのであって、上皇天皇かは関係ねーだろ。所詮はちょろっと新味のありそうなことをぺらっと出して見せるだけの「思想の仲買人」(林達夫の表現)に過ぎないのか・・・とすっかり索漠たる気持ちになった。比較する対象が立派すぎたのかもしれない。と言うのは、

高坂正堯『外交感覚 時代の終わりと長い始まり』(千倉書房)・・・読了後の感銘が続くうちに、前出仲買人氏の発言を思い出すという文脈があったのである。それくらい、嫌いな表現を敢えて使えば、「考えさせる」本であった。ソ連崩壊前後に、孜々として書き続けられてきた外交批評のコラムを一冊にまとめたもの。『古典外交の成熟と崩壊』の愛読者にとって、今こういう本が編まれたのはたいへん嬉しいこと。著者も言うように、学者にとって目の前で起きていることを分析し評価し指針を示すことくらい厄介な仕事はない。読者が汲むべきは、事を評するに当たって、事実を丁寧に調べ、歴史に鑑みて、良識と勇気に基づいて諄々と「正論」を説き続ける、その姿勢だろう。「正論」と言ってもおよそ毒にも薬にもならぬ観念論ではない。「人間の限界を謙虚に認め、なおかつたゆみなく努力を積み重ねる」ことの謂である。大袈裟に聞こえるかも知れないが、鯨馬はその決意(決意なしに出来ることではない)に、たいへん英雄的なものを感じた。ロマンティックな色調は一切払いのけた上でのヒロイズム。巻末の解説では、時の政府の防衛構想策定にも参画した高坂氏が、「意外にも」道義を重んじる人間だったという指摘がある。現今流行りのああいったものではないですよ。精神的退廃、つまりまともにものを考えようとしないその無責任さを糾弾するという点に高坂氏の「倫理性」の特質は明らかである。これも先に述べた鯨馬の観察の傍証になるかもしれない。翻って思う、高坂氏の糾弾は専ら、当時(も)知的脳梗塞状態にあった社会党に向けられたものだが、そうした左派の必然的な衰亡の後、「退廃」に陥っているのは正反対の陣営の人々ではないか。今どき、左翼の連中の莫迦さ加減をねちねち論うのはいかにも虚しいように思うけどなあ。愛国を言うなら、その時間で『新古今』の一首を諳んじる(いや数十首はいけるか、和歌は短いんだし)とか、近所のお社に苗木の一本でも植えるとかすればいいのに。ひげのオヂサンは言った、深淵を見つめる者はまた深淵に見つめ返されているのだ、と。いや、なんぼなんでもこの箴言は勿体ないか。これではどうだろう、愚者を嘲ってその顔真似をする者は一層愚かしくなる。

松岡正剛監修『情報の歴史』(NTT出版)
◎ヨルゴス・D・フルムジアーディス『ギリシャ文化史 古代・ビザンティン・現代』(谷口勇訳、而立書房)・・・前にあげたビザンティンの美術史に触発されて読んだが、いかにも古い。新しいギリシャ文化史、ないかね。
◎W.B.イェイツ『ジョン・シャーマンとサーカスの動物たち』(栩木伸明訳、平凡社
◎ノースラップ・フライ『時の道化たち シェイクスピア悲劇の研究』(渡辺美智子訳、八潮出版社
豊永聡美天皇音楽史 古代・中世の帝王学』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・「帝王学」という切り口が面白い。儒教の礼楽思想との関わりを論じて欲しかったな。
◎R.D.レイン『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(天野衛訳、ちくま学芸文庫
◎ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン黒い伝説 帝国はなぜ憎まれるか』(小林一宏訳、筑摩書房)・・・「高慢、残忍、狂信」といった(黄金世紀以後の)スペインのイメージは、じつは一つのトポスになっているらしい。そのいわば反・スペインプロパガンダの歴史的起源を探求しようという本。当方などには「へえ」てな感じだが、類書がいくつも出ているということの方が驚きである。何だかどこかの国に似てますね。
マックス・ウェーバー世界宗教の経済倫理  比較宗教社会学の試み 序論・中間考察』(中山元訳、NIKKEI BP CLASSICS、日経BPマーケティング)・・・『古代ユダヤ教』(岩波文庫)の総説に当たる部分を訳した本。これを先に読んでおくと、あの大著が取っつきやすくなると思います。このシリーズ、アダム・スミスポパー等の古典も入っている。日経さん、なかなかやる、という感じ。
松田哲夫『縁もたけなわ ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち』(小学館)・・・やや繰り返しが気になるが、やっぱり面白い。呉智英と仲悪かったんだね。ま、呉智英は大抵の人間とケンカしてそうだけど。
◎ピーター・バレット『クラウゼヴィッツ 「戦争論」の誕生』(白須英子訳、中公文庫)

◎『花草の巻 四季を彩る』(工作舎編、江戸博物文庫)・・・江戸の本草学者・岩崎灌園の『本草図説』を再編集したもの。図版はうっとりするほど美しいがなんだか編集が杜撰。図鑑でこれだけ誤植があるのは致命的、というか本づくりへの愛情不足なのではないか。


 珍しく料理の本は一冊だけしか読んでいない。
ホテルニューオータニ監修『本当に旨いたまご料理の作り方100 西洋料理から和食・日本の家庭料理、中国・エスニック、スイーツまで』(イカロス出版)・・・生クリームを混ぜて、七十℃でじっくり湯煎する調理法というのが旨そう。

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

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いつか来た道

 『いたぎ家』ご一家(お父様・お母様・アニー・アニヨメー・タク)でお客をした。お父様は肉より魚がお好きと聞いて、当日の朝(一時半にお招きしている)東山の市場に行くと、これがまあ、かっすかすのしっけしけ。前々日の強風が祟ったらしい。言ふてもかへらぬことながら・・・と急遽考えていた献立を頭の中で変更しつつ、大慌てで買い物を済ませた。いわゆる定番メニュをおいていない食べ物屋は、こういう場合どうしているのであろうか。まさか店を休むわけにもいかないだろうし。やっぱり玄人はすごいね。


 さて献立は以下の如し。


ばら寿司=蕗・菜の花・独活・新蓮根・新牛蒡・高野豆腐・椎茸・焼き穴子。淋しいかなと思って焼き穴子を載せてはみたが、生臭はむしろない方がひと品の色調がくっきりしたな・・・と後で思った。「なんでもかんでも」はいやしいことである。

○茶碗蒸し=最近やたらと気に入っている蛤出汁仕立て(鮨の『城助』さんとこでおぼえた)。先に酒蒸ししておいて、その汁を卵液に合わせる。貝の塩気だけで充分。だから案外手はかからない。具は蛤のみ。出す時に柚子と木の芽をのせる。

○炊き合わせ=鳥の丸・大根・海老芋・蓬麩・菜の花。コクを補うのに、鳥ミンチの二割くらいレバーを挽いて入れる。血のにおいを抑えるのに山椒をふり込む。味付けは塩・淡口・酒。つなぎは卵黄と片栗粉。もちろん鰹昆布出汁で炊いていく。大根・海老芋は下茹でのあと昆布出汁で炊く。菜の花は湯がいて食べしなに入れる。

○造り=鰰の昆布〆と鯖きずし。鰰は塩を当てて水分を流し、おぼろ昆布で少し〆たあと、柚子をしぼって出す。いつもトロ鯖を置いている魚屋にも、この日は普通のしかなかった。

○和え物
鳥貝・韮・新若布の辛子酢味噌=鳥貝は出す直前に酢洗い。酢味噌は面倒でも湯煎にかけて練り上げておきます。水の出やすい食材が多いので、やや固めに練っておく。
②鮑とこごみの胡麻和え=鮑は酒蒸しのあと角に包丁。煎りたての黒胡麻を擂ったところに、煮切り酒と赤味噌を入れる。
③のれそれと新若布=柚をたっぷりすりかけて、ポン酢醤油。

○油物
①鶏の唐揚げ=紹興酒、醤油、大蒜・生姜で浸けこんだあと片栗粉をまぶしてあげる。竜田揚げになるんかな、こういうの。たらの芽も素揚げして添える。
蛍烏賊パクチー炒め=油はバター、味付けはナンプラーのみ。時間がなくて、蛍烏賊の眼や嘴の掃除が出来ませんでした。ごめんなさい。

○酒肴
①漬け物盛り合わせ=新沢庵・茗荷と胡瓜のぬか漬け・大根の大阪漬。お父様お母様が送って下さった干し大根で漬けた沢庵。その御礼のためのご招待だから、これがメインディッシュとも言える。今年もしょっぱく固くくさ〜く漬け上がりました。個人的な好みというのもあるが、これくらいに仕上げないと、なにせ独りだから食べきるまでに傷んでしまうのである。
②焼き穴子=海苔・山葵・三ツ葉を添えて。

 家族五人+鯨馬でわあわあ呑む ⇒ 皆さんお帰り ⇒ 鯨馬一人で飲む ⇒ 鯨馬寂寥 ⇒ というわけで夜、あらためて『いたぎ家』に出かけて「二次会」。


 さほど量を過ごしたとも思わなかったけど、疲れが溜まっていたのか、翌日は昼すぎまでなんとなく寝たり起きたり。
 この日は夕方から落語会だった。場所は堺。我が故郷である(実家は今はない)。二十年近く過ごした町だが、当然「観光」なぞしたことはない。どこか一つでも・・・と思いつつも、なんとなく億劫で、結局堺東銀座で立ち飲み屋のはしごにとどまった。


 ま、その前に堺東駅からすぐの母校をたずねてはみましたがね。まともな神経をした人間で四十も越したヤツが、まさか青春期を懐かしいものと思うわけもなく(そんな莫迦はいないと思う。万が一いたとして、それは何か勘違いしている筈である)、全面建て替えですっかり趣をかえた校舎は一瞥するにとどめる。意外だったのは、駅や学校付近の坂道や家のたたずまいがなんとなく馴染みのあるものに感じられたことで、この親しみは何なるらん、とコーヒーをすすりつつ考えていくと、時折夢に出てくる光景だったと気付いた。


 ここで時間を遡行して暗澹たる記憶や腥い思い出を延々たぐり出していけば、なにやらそれらしい掌編となりそうだが、それは当方の得手とするところにあらず。すなわち先ほど書いたように、立ち飲み屋を四軒回って「ワン」という道を選んだ。


 いい店も見つけられたし、何より『利久寄席』の温かい雰囲気が心地よく、次こそは(寄席は隔月で興行)堺観光せねばと思い立つ。いや、やっぱりその時間で、「穴子と熱燗一本!」とこうなるかな。
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戦慄の料理書

 久々の読書記録。
○秋草俊一郎編訳『ナボコフの塊 エッセイ集1921-1975』(作品社)・・・書評、とか『ロリータ』関係とか、主題で分類されている。ごく平俗な意味で面白いのはソヴィエト作家への痛烈、というより猛烈な悪罵のところ。百パーセントナボコフに理があるのだが、少々品が悪い口ぶりで御用作家の愚劣悪趣味不誠実を執拗に暴きつづけるのを見てると、なんだか貶しつけられている作家連中が気の毒になってくるほど。反対に精緻に玩賞すべきは『オネーギン』を取り上げての翻訳談義。「意味を完全に移しえない翻訳には存在する価値がない」という立場から、ナボコフはこの作品を英訳するにあたり、脚韻の使用を断念した。結果、これに噛みついたエドマンド・ウィルソンと論争に至ったのは有名なエピソード。どちらが正しいかは決めようもないけれど、骨の髄までしゃぶり尽くすようなナボコフの吟味の手つきは見ものです。
○橘宗吾『学術書の編集者』(慶應義塾大学出版会)・・・名古屋大学出版会はものすごく打率が高い(当方なぞ人文系統しか読んでませんが)。筆者はその仕掛け人。ジャーナル論文の寄せ集めではない「書物」を造るには、編集者の企画力が必要不可欠なんだな。
岸田秀『日本史を精神分析する  自分を知るための史的唯幻論』(亜紀書房)・・・岸田唯幻論による史論の大成的一冊。某隣国のヒステリック(かつ不作法)な騒ぎの原因を「抑圧されたものの回帰」で割り切っちゃうという乱暴さが、むろん読みどころ。気に入らないところもある。たとえば原発などの問題を問われて「今の日本人にそれが出来るかどうか」と答える、この口つき。一挙にしらけてしまう(言うまでもないが、原発の賛否自体を論うのではない)。刺戟的な暴論のはずが、なんだかネットやテレビのもっともらしい解説に見えてくる。
陳舜臣『天空の詩人 李白』(講談社)・・・遺稿集ということになるのか。杜甫でも李賀でもなく李白ってところがなんとなく陳舜臣さんらしくて、いい。前半は李白詩の評釈で、後半は陳大人の詩集(もちろん漢詩)。こちらの方が面白い。
○鎌田浩毅『地球の歴史 上中下』(中公新書)・・・話術が巧み。なんでも理系向けの文章読本書いてる人なのだそうな。人類誕生を叙する下巻よりも、虚空でどすんばたんと星同士がぶつかって、やがて一つの星を形成していく上巻が読んでいて一等興味深かった。ふとパスカルがおぼえたような戦慄が身ぬちを走り抜ける。
○持田叙子『歌の子詩の子 折口信夫』(幻戯書房)・・・安藤礼二とどうしても比較してしまう。淡味というより薄味だなあ。新全集の校訂・解題に携わっていたのだから、もう少し細やかな知見をじっくり語ってほしかった。
塩村耕編『三河岩瀬文庫あり 図書館の原点を考える』(風媒社)・・・小冊子だけど、中身は極めて濃い。「細やかな知見」一つ一つがじいわり効いてくる。本好きの人間は読んでおいて損はない。
○アメリア・レイノルズ・ロング『誰もがポオを読んでいた』(赤星美樹訳、論創社)・・・題名といい章題といい、いかにもリヴレスクなミステリだが、はて聞いた事の無い作者だ・・・と思って解説を見たところ、これが凄い。ぜひ実物にあたることをお薦めする。フレーズを一つだけ引くと「二回読みたくなるなんてことを決して考えないならおすすめ」(うろおぼえ)。こんな惹句(反惹句?)が溢れている、じつに愉快な文章です。さて実物の出来栄えはというと・・・ま、実物をお読みください。(笑)。
○菅野昭正『明日への回想』(筑摩書房)・・・端正な文章。こういうのが書けるひとでないと、「品格」などというオソロシイ言葉を使ってはいけないのである。
○柴田日本料理研鑽会、川崎寛也『料理のアイデアと考え方』(柴田書店)・・・シリーズ二冊目。これは京都の料理人が寄って、テーマとなる食材でオリジナル料理を作り、それを全員で食べて論評し合うという形式の本。どうです、聞くだに身の毛もよだつような趣向でしょう。もちろんさすがは京料理の代表的な面々で、うーんと唸るようなレシピもたくさん教わったが(皆さん新しい食材・調味料、そして調理技術・道具の導入にじつに熱心)、「本」としての読みどころはそこにはない。誉められたもんではない一品が出たときの、皆さんの批評の苛烈さ。ほとんどホラー小説に類する。またね、失敗の多い某氏が、「それで、そんなんしたら絶対突っ込まれるやん!!」という料理をこさえてくるのである(妄言多謝)。案の定次のページではクソミソに言われている。なんというか、「志村ーっ、うしろーっ」と金切り声を上げたくなるような情景なのでありました。
○八木沢敬『「正しさ」を分析する』(岩波現代全書)・・・八木沢敬さんの本は、専門的な論文は除いて、結局全部読んでいるのではないか。分析哲学が性に合うわけではないと思うんだが。まあ、ファンといっていいだろう。今回は題名通り、「正しい」の意味・あり方をとことん理詰めに明かしていく。どういうことかというと、《「水星は金星より小さい」という言明が正しいのは、水星が金星より小さいからである》ということを延々と論証していくのである。「アホか」と思った人はスリリングな知的舞踏の愉しみを知らない人である。理で追い詰めたあげくに、直覚的な我々の存在そのものへと回帰していくところも、哲学の本には変な形容ですが、剛直でよろしい。
養老孟司『身体巡礼』『骸骨考』(新潮社)・・・これは養老身体論の集成と言うべきか。ヨーロッパにおける身体(正確には死体)、特に心臓へのやけに生々しい固執の謎を考えたあげくに、「分からんものをそれなりにしておくカトリック」はすげえなあと関心している養老先生の“結論”に、反語でもなんでもなく感歎する。そ、プロテスタントなぞどうでもいいのです。しかし、面白いのは話があっちに飛び、こちらを周り、いつの間にかぐいーんとでかくなっている、文章の奇にして妙なる味わい。自由自在、という感じ。
 その他。
戸板康二『名優のごちそう』(皆美社)
○河合正治『足利義政と東山文化』(「読みなおす日本史」、吉川弘文館
井野瀬久美恵大英帝国という経験』(「興亡の世界史」16、講談社)※このシリーズ、ヒット率が高い。
○ケネス・バーク『象徴と社会』(森常治訳、叢書ウニベルシタシス、法政大学出版局
鈴木健一天皇と和歌 国見と儀礼の一五〇〇年』(講談社選書メチエ
○小佐野重利・京谷啓徳・水野千依『百花繚乱のイタリア、新たな精神と新たな表現』
○大野芳材『17―18世紀 バロックからロココへ、華麗なる展開』※両者とも以前紹介した「西洋美術の歴史」シリーズ。中央公論新社。書き手によって差が出るのはやむを得ないとして、全体に見れば水準が高い(一般読者への本として)のではないか。
○楠家重敏『幕末の言語革命』(晃洋書房
今日泊亜蘭『最終戦争 空族館』(ちくま文庫
○アレックス・カー『犬と鬼 知られざる日本の肖像』(講談社学術文庫

 今回もやけに小説が少ない。グラシアンの『エル・クリティコン』とイラーセク『暗黒』というやたらと長い小説(前者は寓意物語と言うべきか)にかかり切りなのである。グラシアンは贔屓役者なので、そのうちじっくり書こうと思う。
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水源を尋ねて桃源郷に至る

 いつものように長峰霊園下へ湧き水を汲みに行くと、水が涸れていた。枯渇の危機は何度かあったけど(「逃げ水の記」ご参照ください)、なんとか保ってきたのに・・・。


 といつものように早手回しに暗澹とするこちらを余所目に運転手兼ボディガード兼レンジャーの空男が冷静にパイプの元を辿って、砂防堰の上まで続いていることを発見。よっこらしょとフェンスをくぐって探してみるに、あっけなく「事故」の箇所が判明した。パイプの継ぎ目が外れて、地面にじゃあじゃあ漏れていたのだった。継ぎ直すと水はすぐに出るようになった。無事に汲めて良かったとはいえ、元は三本あった湧き口も今や一本。しかも十年前に比べて明らかに迸る勢いが落ちている。


 帰りの車で、何となく「オレの年金どうなるのかなあ」とか「さりとて墓に布団は着せられず」とか思ってしまったことであった。


 ただしこの日はまっすぐには帰宅せず。折角足があるのだから、と東遊園地「EAT LOCAL KOBE」から東山市場へ回ってもらった。桃の節句料理用の食材を仕込むため。そういう具体的な目論見でもなければELKのような、意識高い系お洒落カフェ男子系(なんだかよく分からん)のイベントに行くことはないのである。「もっとも儂たちも、カフェ系ではないが水系男子ではある」と、二人で苦笑する。ここではトマトとパクチーと玉子を買った。ワインも呑んだがさしたるものではなし。無農薬有機栽培は、ま、いいとして、天然酵母発酵だかなんだかと謳っていたのはどういう意味だろうか。でないワインつーのがあるのか。


 たまたま催し物の横では日教組系(歌声喫茶系とでも言いますか)の団体が集会をやっていた。人数の割にシュプレヒコールの一つもなく、大人しすぎるのがかえってブキミである。右翼の連中を刺戟するのを怖れていたのか。それにしても、あんな気概の無い、志ん生の言い回しを借りれば「無くっても無くっても構わない」ような左翼いじめを嬉々としてやっている(淫している、とさえ言いたくなる)人たちもまあよく閑がありますな。平和なことよ。


 床屋政談はつまらんですな。買い物の話に戻りましょう。東山では蛤・針魚・笹鰈・縮緬雑魚・菜の花・柚子、それに桃の小枝。で、一日遅れの「雛御膳」としてこしらえたのは・・・


ばら寿司・・・縮緬雑魚、独活のきんぴら、高野豆腐は飯に混ぜ、菜の花を湯がいて刻んだもの、菜種玉子、独活の梅酢漬を上に乗せる。
○蛤汁・・・いつもは潮仕立だが、今回は鰹出汁を三分の一ほど加えた。従って塩に加えて淡口醤油も滴々と。椀妻は菜の花とめかぶとろろ、吸い口は柚子。
○漬け物・・・ひと月前に漬けた沢庵樽をこの日開封。ほとんど水が上がっていない。こういう場合どうしたらいいんですかね。焼酎でも入れてみるべきか。香りと歯ごたえはまずまずだったけど。あとは芥子菜の醤油漬けと茗荷の塩漬け、胡瓜のぬか漬け。全部自家製。一体に、漬け物となると無闇に張り切る質である。

 節句料理としてはこれで必要かつ充分なのですが(たとえば船場の代表的な旧家水落家の「行事帳」など)、鯨馬もやっぱり現代人だけに、さすがに汁と漬け物では愛想がないな、という気分。で、足したのが、

○笹鰈・・・一夜干ししたのに、白酒(単なる濁り酒ですが)を塗って焼く。これは京都の旧家杉本家の年中行事食としてあったような。
○針魚造り・・・素人ではあの細っこい魚の皮を引き、黒い腹膜(少しでも残すと腥くなる)を綺麗に取るのは難しい。で、三枚におろすまでは魚屋でしてもらう。家では昆布締め(普通の昆布では味がきつくなり過ぎるので白板昆布を使う)し、甘酢にさっとくぐらせる。食べしなに柚子をおろしかける。もう柚子も名残だからふんだんに用いる。山葵醤油で。
○紅苔菜の胡麻和え・・・中国野菜なんかな?スーパーで臙脂いろが目にとまって買った。ところが湯がいてみるとあに図らんや、蕨みたいな灰黒に変わってしまう。なんか赤の彩りを添えねば、と思ってトマトを買ったわけ。賽の目に切ったトマトと鳥の酒蒸しを混ぜて胡麻味噌で和える。胡麻を擂りたおしたところに赤味噌・煮切り味醂・粉山椒で味付け。

 酒は『宗玄』を上燗で。一日遅れとはいえ桃の祝いやからな、と久々に陶淵明の『桃花源記』を広げつつ(行儀が悪い)、ちまちまと肴をつついて、風雅きどりで早い晩酌を愉しんでいたのですけれども、その後張龍と焼肉に行ったのは何故だったんだろう。ユートピアから俗世に戻るための儀式みたいなもんか。


FBにものせましたが。
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怪人の紅 皇帝の青

 老眼が進んで、しょっちゅう眼鏡をかけたり外したり。これがまことに煩わしいので遠近両用の眼鏡を作った。これでもう少しは本が読めるようになるかしらん。一週間後が愉しみである。


 三宮に出たついで、とスマートフォンの機種変更にも行ったところ、三時間もかかって疲労困憊。一日のうちにあれだけ自分の名前を書かされたのは生まれてはじめてである。県立美術館の『アドルフ・ヴェルフリ展』を見に行くつもりだったけど、とても開館時間内に行けそうにない。どこかに食べに行く気力も喪失し、よろよろと家に帰る。まあ、重大な情報を抱えた機械だから、手続きが多少煩瑣になるくらいは辛抱するとして、そもそも作業動線や職務分担・引き継ぎのあり方があまりに拙劣すぎるために、無駄な時間が出るんだと思いますよ、三宮のヤマダさん。


 ヴェルフリ展に行けなかった代わりという訳ではないけど、週末は美術館のはしごをした。大阪に出る機会もそう多くないので、出た日はどうしても欲張ってしまう。


 一館目?一展目?は中之島国立国際美術館。『クラーナハ展』である。これだけの規模でこの画家の展覧会が開かれるのは初めてらしい。


 元々さほど関心のある画家ではなかったものの、裸婦像のいくつかくらいは見覚えている。今回はじめて実物をとっくりと見て大分印象が変わった。やはり絵は直に見なきゃね。


 結論からいうと、「この画家、かなりヤバいやつちゃうやろか」。


 裸婦像の肌の真珠のようにつややかなマティエール、というイメージは間違っていなかったが、女たちの視線が悪魔的diabolicで、そのくせ妙に嗜虐欲をそそるような按配で、どうも落ち着いて観られないのですね。ええ、一番有名な『ホロフェルネスの首を切り落としたユディト』にしても、一見あれだけファム・ファタル的な図柄でありながら、サド侯爵的衝動を引き起こすような描き方なんです。これはわたしにそーゆー性癖があるのではなく、画家の視線が淫猥で執拗であることに由来するのだと思う。


 でなければ、ヴィーナスを描いてもユディトを描いてもマリアを描いても、いつもあの顔になってしまうはずがない。「あの顔」というのは剥き玉子のようなところに淡い眉が嫋々とたなびき(と形容したくなる)、うす色の瞳はかすかにアンバランスな細い目に象られ、ここだけやけに目立つ紅い唇(これも眉の如く細い)、という道具立てのことです。


 たしか『城の中の城』だったと思いますが、主人公の夫が手を付けた料理人の女性の風貌を述べるのに、「クラナッハ風」ということばが使われていました。これは賛辞ではありません。その正反対で、ひどく汚らしく不健全な雰囲気というニュアンスだったはず。その時は悪意の滴るような描写を、いかにも倉橋由美子らしいと面白がっただけでしたが、今回絵をまとめて見て、これはかなり正確な観察だったな、とへんなところで感心する。


 それでも大嫌いで二度と見たくないか、というと不思議にも図録を買ってしまったのである。鮒寿司やくさやの臭気がやみつきになるのと同じような精神の生理がはたらくのだ、と自分で分析してみる。だからこそあの好色なピカソクラーナハの絵を何度も何度も写しては自分流に描き直しているんでしょうね。


 ルターの、多分一等有名だと思う肖像画(右を向いて、黒く平たい帽子をかぶっている)を描いてたのもクラナーハだったんですな。知らなかった。一体にこの助平爺は、新教に心情的に好感を抱いていたらしく、このルターとか、ルターを神聖ローマ皇帝から匿ったザクセン選帝侯とかの肖像となると、diabolicな趣が急に影をひそめる気配である。


 これは鯨馬ひとりの感想ではなかったんじゃないか。たとえばルーベンスやモネの展覧会とは違って、周囲の見物客がどことなく「綺麗と言えば綺麗なのだが・・・」と戸惑っている按配だったのが可笑しかった。


 さて二つ目は東洋陶磁美術館。『台北 國立故宮博物院北宋汝窯青磁水仙盆』である。たまたまこの順番になったのだが、結果的にはこちらが《口直し》的な役目を果たしてくれて丁度良かった。元々贔屓のミュゼで、好きな理由のひとつが客の少なさにあった。それがこの日はたじろぐ程の大盛況。まあね、「人類史上最高のやきもの」なんて宣伝したらやはり集まるわな。もっとも「人類史上最高」かどうかはともかく、汝窯の磁器がこれだけ見られることもそうそうないだろう。それに今回の展示は水仙盆ばかりを集めているということで、釉薬の微妙な発色の違いをじっくり味わうことが出来る。混んでるっていっても、週末であんなものだったから、のんびり見て回る余裕は充分ありますよ。フェルメールやらルノワールやらの「泰西美術名品展」(懐かしいひびき)とは比べものにならない。


 というわけで時間をかけて見比べていた。青磁と聞いて浮かぶ、他人行儀な冷ややかさの感じられない所が名品たる所以か。ことに外側の面が薄くあぶら、それも獣脂ではなく魚、たとえばよく肥えた鯛の造り身の切り口に輝く虹色のあぶらのような、それを刷いた如くとろっと光を放っている。なで回したら絖のような触感なんちゃうかしら。


 だから「天青」の色とはいっても、やはり地中海地方の空の非人間的なまでの青さではなく、どうあっても驟雨一過した後の空の色でなくてはならないのである。つまり潤いがある。


 乾隆珍襲のこの傑作を玩賞しているうちに、悪癖が出た(万引きではない)。どんな料理を盛り付けたら映えるか、とかなり《真剣な空想》に耽ってしまうのです(だから料理の盛りようのない形の花器などには関心が無い)。河豚や虎魚の薄造りはちと陳腐か。干口子と木耳を使った白和えならどうか。いっそ雉や山鳩を炙ったのに赤ワインと八丁味噌でつくったソースを掛け回すくらいの思い切りが必要なのではないか・・・などとひとしきりはしゃいでおりました、


 熱くなったアタマを冷ますために、水仙盆の部屋を出て常設・特集展を回る。高麗・李朝青磁白磁を見るとなんとなく落ち着く。いくら柔らかい肌合いとはいえ、やはり朝鮮の器に比べると、汝窯はよく言えば端厳、悪く言えば気取りがきつすぎて、見ていて少なからずくたびれる。


 日本陶磁の室に入るといよいよその感は強まる。中国朝鮮日本を真行草の三態に喩えるのは、既に誰かがやっているだろうが、ごく自然な発想だろう。


 一つ例を挙げるなら織部の舟形向。なりといい緑釉の掛け方といい、斬新で放胆。織部を好む鯨馬のような人間にとってさえ、しかし、この行き方がしどけなさや野鄙とぎりぎりの所で遊んでいるような危うさを感じさせるのもまた事実なのである。


 日本文化が一般に非対称性や未完成の趣を好むとはよく指摘される。文化とは「昔からそういうもの」であって淵源を訊ねるのは無意味に似るのかもしれないが、この傾向が果たして真実どこまで「一般」なのか、仮にそうでないとしたらそれはどこからまた何故に、ということが気になる。ここ数年、折に触れてはそういうことを考える。でも性疎放懶惰にしてなかなか旨く説明出来るまで考え抜けていない。


 ま、取りあえず口子と木耳の白和えで一杯やるか(それがいかんのだ)。


 本の話はまた来月に。明日から三月なのだが。
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