うすむらさきの思ひ出ばかりは・・・

  我が家から南に下っていった道沿いに流れる宇治川は、川辺の桜並木も有名だけれど、実は知る人ぞ知る藤の名所でもある。

  といっても住宅地の中のこと、藤棚があるわけではない。道のフェンスに藤を這わせており(自然になったのではない、と思う)、だから目の高さで薄紫の花房を賞玩できるのだ。

  まだ藤の時候にはすこし早い。今日見にいくと、あちこちにぽつぽつと開いているものの、ほとんどはつぼみのまま。逆に桜のほうは、一日中吹いた強い風のせいでかなり散ってしまい、川面にたくさんの花筏をつくっていた。

  桜に背を向けて、藤のつぼみをじいっと見る。咲ききったときにはなんとも豪奢な姿となるが、固いつぼみがみっしりと円錐状にならんでいる容子はなんだか花というよりアルマジロとかセンザンコウとかいう動物の尾っぽのよう。その鱗様のつぼみ一つ一つの下では、開花にそなえた霊妙な生機構がめまぐるしくはたらいていると思ってみると、胸苦しいようなせつないような気分になって困ってしまう。

  「春愁」ということばがある。江戸時代の艶本の題名にもありそうな雰囲気だが、歴とした季語。もっとも俳句の方で記憶に残るほどの名作はない。にも関わらず、藤の花からこの季語に連想が飛んだのには、こちらの職業も関係している。

  以前付き合っていた人が、彼女は教師だったのだが、「春は嫌い。生徒は新しい環境に出て行って新しいことを始めるのに、こっちはまた同じことの繰り返しの始まりだということを感じさせられる時期だから」といっていた。聞いたときはそんなもんかいなとくらいに思っていたが、最近は春が来るごとに「繰り返しの始まり」なる感覚が深まるのを覚えて悵然とすることが少なくない。

  藤の花房に、これから開花しようとして当方の勤め先の学校から卒業していった生徒たちに思いがつながったのもその感傷が作用したためだろう。

  もっとも、「日々同じことを繰り返して、時間が流れることを実感する、それを繰り返すのが人間の生のありかたというもので、それは美しいことである」ということを、それこそ時間の流れそのもののような文体で繰り返し説いたのは吉田健一である。

  吉田さんはまた、一日のなかで夕暮れの光線にもっとも潤いがあるということも何度も指摘していた。少し日が翳りだすなか、思いもまた感傷の暮色に染め上げられそうなのを、この吉田さんのことばを解毒剤におしとどめ、よっこらせいと立ち上がる。

  とんとんと腰をたたいて、のびひとつ。すでに心は夕飯の献立にとんでいる。この季節、魚もいいけど、なにより野菜がすばらしい。ひとつ豪儀に春野菜づくしのサラダでワインといきますか。

〜後記〜

結局この日の献立は、

・まず書いたとおりに春野菜のサラダ。アスパラ、絹さや、菜の花、こごみ、花わさび、タラの芽を同じ大きさに切りそろえ、下ゆでして水切りしておく。鳥の胸肉を酒蒸しして細かく裂いたのと混ぜて、ドレッシングはアーモンド油(なければオリーヴオイルでも)とワインビネガー、蜂蜜、粉チーズ、胡椒、トマトペーストを混ぜたもの。あればナッツをローストして細かくくだいたものを散らす。

・鳥の煮込み(オレンジジュースに漬け込んだ後、ブイヨンで煮込み、生クリームを入れる)

・子芋のフライ

となりました。