瘴気と正気〜双魚書房通信・員外〜

 双魚書房通信「員外」とするのは、題材の卑陋なるを以てのことに非ず。一書として見れば筆者の見識、および表現には特に奇なるものを見なかったからである。にも関わらずここに取り上げるのは、ふと文学なるもののありようをこの本のうちに確かめることが出来たような錯覚を持ったからである。

 『飛田を生きる』という本に続いて書かれたものらしい(こちらは未読)。好評のうちに、ということなのだろうが、覗き見的興味で読みはじめた向きの中には坦々とした叙述の肩すかしに、「水くさい」(味わいを云う大阪弁なり)の一言で投げ出したひとも存外多かったのではないか。

 しかし実際そういうものなのである。おそらく言語の扇情性でいうなら、皆様ごぞんじスポーツ新聞の中程にあるようなルポの類のほうがはるかに上だろう。そして行為の現場においてスポーツ新聞のエロ記事に照応するのは、本書の主人公(?)の一人である「アユ」言うところの、「九〇分、一二〇分と知らない客に気を使いつづける」ソープということになるのだろう。

 飛田の性はもっと抽象的なものである。ここでは擬似恋愛もムードもなく、男女の交渉はひたすら円筒のピストン運動に還元されてしまう。ソープとの対照がいちばんはっきりするのは建築だろう。前者の建て物がいかにもソレらしい色と照明とで演出されているのに対し、飛田の「料亭」は看板の文字・間口の広さなど、古都の町屋の筋であるかのごとく(本書表紙写真参照)統一されている。

 鯨馬子、じつはひところこの町の裏側に仮寓していたことがある。どこまで行っても同じ建物、そして框に(寒いときは膝掛け毛布をした)女性が艶然と座り横では割烹着の「オバチャン」が嗄れ声で客を呼ぶという店構えの連なりは、さすが元遊郭というよりはむしろ病院の廊下か官庁街を歩いているような冷たささえあって、それが逆説的にも「様式」の存在を強く感じさせるのだった。官庁街というのはあながちこじつけとも言えなくて、おそらくここほど警察によって厳格に統制された風俗街は他所にはないのではないか。いちばんの「法外」の地こそがお上の掌にあるという奇っ怪な事情を考え合わせれば、なるほどここは現在の「吉原」なのだとも納得される。

 「様式」は実体ではない。飛田への最寄り(という表現を使ってよいものか)駅たる「動物園前」出口から延びる商店街を歩けば分かる。飛田新地内の「妖怪通り」などおそらく比較にならないむくつけき光景が散乱している。現今の、草食というより植物性の若者なぞ卒倒するのではないか。

 むくつけき・・・そう、評者は「現実的なるものすなわち理念的なり」とどこかの市長の如き言辞を弄しようというわけでは無論ないが、かといって、ことさら飛田のあり方を指弾するのでもない。しかし、「実体」のほうが眼を覆わんばかりの無惨を露呈しているとして、「様式」が必ずしもこちらの心情を安定させるように機能しているわけではないことは確かで、醜悪なものは醜悪と言うほかは無い。その醜悪の一端をのぞいた時間をもったからこそ、おそらく、話は飛ぶようだが石川淳の初期作品―たとえば『佳人』『葦手』そして何より『普賢』―に親昵することを得たように思う。

 著者は「はじめに」でこう書いている。


  橋下市長がかつて飛田新地料理組合の顧問弁護士を務めていたことに記者が言及し、「飛田で買春ができることは大阪のちょっとませた中学生なら誰でも知っている」と指摘しました。橋下市長は、「違法なことがあれば捜査機関が適正に処罰するし、料理組合自体は違法ではない」とかわしましたが、飛田に生きる人間にとっては、思わぬとばっちりです。 


 永井荷風ではないが、世に新聞記者ほど薄汚い職業は無い、と言いたくもなる。こういう手合いは一朝有事のご時世となれば、早速にファシストに転身するに相違ない。

 とまたもやあらぬ方向に筆が走ったようだが、本書を読んだ翌日、たまたま兵庫県立美術館で開催中の『昭和モダン 絵画と文学1926−1936』を観た印象が、「正論」をふりかざす記者の卑しい口吻に重なったまでのこと。「小林多喜二から梅原龍三郎まで」という副題で予想はしていたのだが、人気もない会場の大半は、しかしプロレタリア文学の怒号絶叫で充ちていた。

 多分「主義」の理論家たちはあの記者と同じく、醜悪を「廓清」しようとしてコメカミに血管を怒張させていたのだろう。その是非を論じるには及ばず。ただただ夷斎石川淳が「醜悪は奇異に高めるのみ」とうそぶいていたのを想起してこちらの精神の平衡をとり戻したことだった。

飛田の子: 遊郭の街に働く女たちの人生 (一般書)

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