歯ぁ抜いたろか

 歯を抜かれた。当人としてはついに、という感じ。左下の親知らず(半分横倒しになって出ている)が度々うずいていたのをほったらかしていたところ、昨年末にはどうしようもなくなって、口腔外科に紹介された。

 親知らずの一本前の臼歯の根もイカれてるので二本とも抜かねばならない。食事には影響しないとのことだが、親知らず以外を抜かれるのははじめてなので、なんだか手術前から一遍に老け込んで総入れ歯の爺さんになった気分だった。

 聞いていたとおり、麻酔注射が痛い。膿んで腫れてるとこにぶっすり刺すんだから、そりゃ痛いわな。しかしこれでもまだ二合目三合目というとこで、カチャカチャ器具が歯に当たったあと、めりめりと脳天に痛みが突き抜ける。

 海老反りになりかけたのを覗き込んで先生曰く、「あ、こりゃ痛いね、麻酔一本追加~」。いや、ビヤガーデンでお代わり頼んでんちゃうんやし。

 一時間の手術後、看護師さんに「汗拭いときますね」と言われる悶絶ぶりだった。ちなみに鯨馬、痛みには至って強い方であります。

 抜いた二本は持ち帰った。日夜歯根に付いた黒い歯石を眺め、以て定期検診を欠かさぬための料とする。

 今月は珍しく小説が多かった。

小野正嗣『にぎやかな湾に背負われた船』(朝日文庫)……いかにも《昭和》な田舎の海岸町の日常から、どろりと原罪が滲み出る。でもタイトル通り、バーレスクな語りは一貫していて、それだけひとしお切実に迫ってくるという仕掛け。エピソードの絵画的構成の味が濃厚。
シオドア・スタージョン『夢見る宝石』(川野太郎訳、ちくま文庫)……新訳が出たので、四十年近くぶりに再読。カーニバルの脇役達が生き生きしてたのは記憶のとおり。今回は人間的理解を超絶した水晶たちの生態(?)が妙に身に染みた。
ジム・クレイス『食糧棚』(渡辺佐智江訳、白水社
ジョン・スタインベック『ハツカネズミと人間』(齊藤昇訳、講談社文庫)
○コラム・マッキャン『世界を回せ』上下(小山太一・宮本朋子訳、河出書房新社
○梁雅子『文五郎一代』(朝日新聞出版)
川上弘美『龍宮』(文藝春秋
○マルカム・カウリー編『ポータブル・フォークナー』(池澤夏樹他訳、河出書房新社
苅部直小林秀雄の謎を解く 『考へるヒント』の精神史』(新潮選書)
○リシャルド・カプシチンスキ『〈新版〉帝国 ロシア・辺境への旅』(工藤幸雄・関口時正訳、みすず書房
○リチャード・コニフ『新種発見に挑んだ冒険者たち』(長野敬訳、青土社
○上垣豊『反革命のフランス近代』(昭和堂
奥本大三郎『書斎のナチュラリスト』(岩波新書
○小倉孝誠『ボヘミアンの文化史』(平凡社
ロラン・バルトラシーヌ論』(渡辺守章訳、みすず書房

 

 

 

 

脳みそ吸うたろか

 『Ronronnement』の前田シェフから「ベキャスが入手できそうです」と一報有り。ベキャス、すなわち山鴫にお目にかかるのは実に八年ぶりとなる。フランスでも年々狩猟が厳しくなってきており、スコットランドからの輸入が主となっているそう。それくらい貴重な食材を取り置きしてもらえるのは有難い限り。八年前の狂乱ぶり(拙ブログ「年の瀬に怒る」参照)を覚えてくれていたらしい。

 綿密なる相談の上、個体の大きさから熟成期間を割り出して、そこからさらに五日ほど寝かせるように依頼。「○○さん、ヘンタイなのを思い出しました」とはシェフの賛辞である。

 当日は新快速で近江は栗東へ。前の店(今も営業している)の草津から更に一駅遠くはなっているけど、『アードベックハイボールバー』から『MuogOT』、『MuogOT』から『ロンロヌ』(と常連客は呼んでいる)へと前田シェフを追っかけてる身としては今更駅の一つや二つ、ストゼロのあとのタカラcanチューハイのようなもので(この比喩、やや不適切か)何の問題もない。いっそのこと、駅の百や二百向こうにして、八戸にお店を構えるというのは如何でしょうか、前ちゃん。

 栗東の店は一階が「ブーシュリー」、つまり精肉店。料理は二階で供するというスタイル。相客と同じ肉肉しきコースに山鴫、しかも一羽を上乗せする恰好なので、始まる前は最後までたどり着けるか不安もあったけど、ぺろりといっちゃいました。無論山鴫がよろしかったのもあるし、おそらくそれと同じくらいかそれ以上に前ちゃんの料理を久々に堪能出来たのが嬉しかったせいもある。ともあれ当日のコース以下の如し。

*ジャガイモのスープ
*苺とリコッタチーズのサラダ
*シャルキュトリ盛り合わせ……蝦夷鹿のハムと鶉のガランティーヌがことによろしい。
*和牛のたたき
*ハンバーグ……塊の肉を半生に焙ったのを細かく叩き、エシャロットなどを混ぜて出す。ステックタルタルの柔媚とステックアシェの香ばしさ、いいとこ取りのひと皿。
*豚すね肉(?)と椎茸……自家製柚胡椒を添えている。

そして我がベキャス殿の登場となる。調理前の、オナカを広げたあられもない姿をまず鑑賞する。なんともまあ、エロティックなボルドーいろ。

 まずは内臓の串焼き。鴫だけでなく色んな野鳥で、前田シェフはこれをしてくれる。あれこれ手をかけるよりこれが一等旨いのである。しかも別の日にベキャスコースを頼んだ客が「内臓は要らない」と言ったそうで、肝が二羽分もあった。なんて勿体ないことするのかしらんとニマニマしながら優美にして凜とした苦みをひたすら満喫する。

 あとはロースト・・・ではなくこれはグリエかな。目の前に炭台を据えてそこで炙り焼きしている。文字通り頭のてっぺんから足の先まで出てくる。脳みそのとこをちゅうちゅうするしてると、ついワインの方がお留守になってしまう。味は上記のブログでさんざん描写したから、もうそれ以上書く事はない。生きてる内にまた巡り会えた幸福をしみじみ思うのみ。

 この後で焼しゃぶとすき焼き風丼(鯨馬はさすがに卵かけご飯にしてもらった)が出ることから分かるように、草津店とは違ってここは自由に肉で遊ぶというスタイルであるらしい。古典料理・地方料理にこだわりを見せた草津とこちらを食べ分ける愉しみが出来たというわけ。とにもかくにも、前ちゃん、ありがとう。

 


今野真二『日本とは何か 日本語の資源の姿を追った国学者たち』(みすず書房
ジョゼ・サラマーゴ『見ること』(雨沢泰訳、河出書房新社)……傑作『白の闇』続篇。
○藤井一至『土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて』(光文社新書)……土ってこんなに分かってないもんなんだなあ。文章はややサーヴィス過剰だが、もう少しこの研究者の本を読んでみたい。
○『歪んだ時間』(「冒険の森へ 傑作小説大全」8、集英社
○ピーター・ゲイ『シュニッツラーの世紀』(田中裕介岩波書店)……シュニッツラーの日記を手がかりに、中層ブルジョワの経験世界の諸相に分け入る。相変わらず水際立ってるなあ。
○『夢の扉 マルセル・シュオッブ名作名訳集』(国書刊行会
○村山修一『本地垂迹』(日本歴史叢書、吉川弘文館)……昭和四九年の本だから(鯨馬と同い年)新知見を得たわけではないが、本地垂迹の歴史的展開から説き起こして、教説・文芸・美術の諸相を網羅する叙述は今でも充分役立つ(ま、こちらが素人なだけなんですが)。特に宗派ごとの垂迹思想のありようをまとめてくれているのが有難い。
岳真也『百期百会 令和のいまに顧みる昭和・平成文壇私史』(牧野出版)……はじめ「ブツダンの、しかも昭和以降限定の歴史なんて変わった本だなあ」と思って、頁をめくるに違和感を覚え、ようやく題名の勘違いに気づいた。イドラの除き難きこと知るべし。ま、亡くなった作家の思い出なんだからある意味ブツダン「私史」なんだけど。
古川緑波『ロッパ食談 完全版』(河出文庫
柳宗悦『民藝図鑑』(ちくま学芸文庫)……最近はこのシリーズ(全三巻)を晩酌のアテとしてる。
○伊藤痴遊『続隠れたる事実 明治裏面史』(講談社文芸文庫

 

 

 

狐の一人舞

 令和四年は全面中止となったのだから、数年来の習慣というには当たらない。当たらないがしかし、昨年のえんぶりがじつに愉しかったため(拙ブログ「岡目の一目~えんぶり復活(3)」参照)、仕事の都合で行けなくなったのには(予算も休みも組んでいたのに!)、ほとんど呆然とした。いくら身過ぎ世過ぎのためとはいえ余りに没義道な仕打ちではないか。

 と歯噛みしかけて、いやいや長者山新羅神社の祭礼であるえんぶり、怨み言は神への非礼と思い返す。参上叶わぬならば遠く神戸で神を称え豊饒を祈ぎ奉るに如かず。すなわち、YouTubeで早速公開された動画を大音量で流しつつ、一人居間にて摺り、歌う。まるで「蘭陵王」における内田百閒のごとく、ほたえにほたえぬく。

 ベッドに入っても、まぼろしのお囃子の音をふせぐために、寝入るまで耳を押さえつけていなくてはならなかった。


○佐藤美津男『浮浪児の栄光 戦後無宿』(辺境社)
セバスティアン・アビス『小麦の地政学』(児玉しおり訳、原書房
○渡辺哲夫『〈精神病〉の発明 クレペリンの光と闇』(講談社選書メチエ
○田中聡『身の維新』(亜紀書房
○鈴木聖子『掬われる声、語られる芸 小沢昭一と『ドキュメント日本の放浪芸』』(春秋社)
○徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』(講談社選書メチエ
○ジョン・トロイヤー『人はいつ「死体」になるのか』(藤沢町子訳、原書房
○マーシャル・ブレイン『人類滅亡の科学』(竹内秀春訳、日経ナショナルジオグラフィック社)
ホルヘ・ルイス・ボルヘスシェイクスピアの記憶』(内田兆史・鼓直訳、岩波文庫
竹友藻風詩学と修辞学』
○樋口勝彦『ローマ風俗考』(日吉論叢2)
○岸本千佳『もし京都が東京だったらマップ』(イースト・プレス
○越前敏弥『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』(ディスカヴァー・トゥエンティワン
○井奥陽子『近代美学入門』(ちくま新書
○G.K.チェスタトン『聖トマス・アクィナス』(生地竹郎訳、ちくま学芸文庫
最相葉月中井久夫 人と仕事』(みすず書房)……この順で読んだのはたまたまながら、中井久夫が晩年にカトリックの洗礼を受けていたことを(これは別の特集雑誌で)知って、改めて慊ないものを覚えた(加藤周一についても同じ事を感じた)。なぜカトリックかと訊かれた中井先生は筆者に「ヒュブリス(傲り)があるから」と答えたそうである。そこに嘘は無いとしてもチェスタトンの言うとおり、トマスの思想が「ありとある存在が存在することへの賛歌」だとすれば(チェスタトンを読む限り、その通りであると思う)、死を意識した時期に悔悟のあげく入信というのは、どうにも軽佻浮薄であるように思う。中井先生のお仕事に対する敬慕が少しでも減じるというのではないが、やはりそう思う。

 

 

 

 

戦前の旅

 今回は二冊収穫がありました。

★市河晴子『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(高遠弘美編、素粒社)・・・跳ね踊るような文章がいい。戦前(しかも満州事変後)でもこんな闊達な旅行出来てたんだなあ。発掘してくれた編者に感謝。
岡田温司『キリストと性 西洋美術の想像力と多様性』(岩波新書)・・・女陰としてのキリストの傷口(!)など、かなりコアなテーマが盛り沢山。岡田さんの本としてはかなり推測に基づく記述が多いが、これはやむを得ない。それにしてもヨハネとイエス、やっぱりあやしかったんだ!

○マリオ・プラーツ『パリの二つの相貌』(碩学の旅1、伊藤博明他訳、ありな書房)
○バリー・ウッド『捏造と欺瞞の世界史』上下(大槻敦子訳、原書房
○中村圭志『ビジュアルでわかるはじめての<宗教>入門   そもそもどうして、いつからあるの?』(「14歳の世渡り術」、河出書房新社
辻惟雄若冲が待っていた 辻惟雄自伝』(小学館
○山田仁史『新・神話学入門』(朝倉書房)
○山田仁史『人類精神史』(筑摩書房
○稲垣栄幸『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がれない面々』(小学館
佐藤聖編『百鬼園先生   内田百閒全集月報集成』(中央公論新社
○戸森麻衣子『大江戸旗本春夏秋冬』(東京堂出版
エドワード・ポズネット『不自然な自然の恵み   7つの天然素材をめぐる奇妙な冒険』(桐谷知未訳、みすず書房
○上村忠男『歴史をどう書くか   カルロ・ギンズブルグの実験』(みすず書房
長谷川宏『日本精神史 近代篇』上下(講談社
○ひきちガーデンサービス『オーガニック植木屋の庭づくり   暮らしが広がるガーデンデザイン』(築地書館
○フィリップ・マティザック、L.J.トラフォード『古代ローマの日常生活』ⅠⅡ(岡本千晶・元村まゆ訳、原書房
○辰巳浜子『暮しの向付』(辰巳芳子編、文化出版局
橋本治『言文一致体の誕生』(失われた近代を求めて1、朝日新聞出版)
○アーネスト・T.シートン『二人の小さな野蛮人』(中山理訳、秀英書房)
○大林太良『銀河の道虹の架け橋』(小学館
小野紀明『西洋政治思想史講義』(岩波書店
○土屋健『恐竜たちが見ていた世界』(技術評論社
吉見俊哉『敗者としての東京』(筑摩選書)
筒井康隆ジャックポット』(新潮社)
筒井康隆『世界はゴ冗談』(新潮社)
○ルース・バーナード・イーゼル『絵画とタイトル』(田中京子訳、みすず書房
○田野大輔『魅惑する帝国 政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会)
ウェルギリウスアエネーイス』(杉本正俊訳、新評論
西洋古典叢書編集部『西洋古典名言名句集』(京都大学学術出版会)
渡辺保吉右衛門 「現代」を生きた歌舞伎役者』(慶應義塾大学出版会)
藤森照信・下村純一『藤森照信の現代建築考』(鹿島出版会
○岩田文昭『浄土思想 釈尊から法然、現代へ』(中公新書
窪島誠一郎『枕頭の一書』(アーツアンドクラフツ)
○アラン・S・ミラー、サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観』(伊藤和子訳、パンローリング)
○ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー 疎外されたヴィジョン』(高山宏セレクション「異貌の人文学」、野島秀勝訳、白水社

 

 

 

 

祖母・正司歌江のこと

 行き来が絶えて、もう三十年近くにはなるだろうか。逝去のこともYahoo!ニュースで知ったくらいだから。ともあれ由縁ある者のひとりとして、思い出せることを書き付けておく。

 若い頃に出来た娘が当方の母親で、その後に別の男性と結婚したから、要するに私生児ということになる。母の父、つまり当方にとっての母方の祖父は晩年でも身内ながら色気ある人だった。まあ、若気の過ちというところか。歌江の口からはこの祖父の話がたまさか出て来た。「おにいちゃん」と呼び、懐かしそうな口調だった。

 母は十数年、千里古江台の歌江の家に家政婦として通っていた。そのつながりがあって、当方も小学生の頃には「おばあちゃん」が少なくともその頃はかなり有名な芸能人だと認識していた。そうそう、「おばあちゃん」という呼び方を嫌って、「歌江さん」と幼い孫に呼ばせていたのだった。

 といっても、結婚後おしどり夫婦としても有名だった夫とのあいだには男児が生まれていたし(母にとっては弟にあたる)、また物堅い勤め人の家に育ち、自らも会社員だった当方の父は歌江のことを嫌っていたから、行き来といってもその頃から頻繁にあったわけではない。歌江・当方の両親、それに当方でテレビの「芸能人家族対抗歌合戦」のような番組に出たらしいがこれは幼すぎて記憶がない。

 たまに夫の目を盗むようにして、母は当方(と弟)を千里の家に遊びに連れて行く。庭に何かの祠が有り、二階には無気味なほど大きい座敷(と団地住まいには思えた)のあるその家は、滅多に訪れることもないし、家の正統な生まれの孫でもないことは分かっていたから、鏡花流に言えば胸がキヤキヤする反面、どことなく気詰まりに感じていたのは自然な反応であったろう。

 こんな調子で綴っていたら切りがない。あとは順不同に、記憶に残ったことばを並べてみよう。

*「○○は」と当方の名を呼んで、「本当に眼が大きいな、産院ではじめて見たときには麻雀のイーピンかと思った」。
*「鰻にはにんにくがよく合う。濃いものを同士をぶつけると実は軽くなる」。蒲焼きににんにくのスライスをうんと載っけて食べるのである。これは確かに旨かった。
*(鍋をしてるとき)「野菜や魚のアクはとってはだめ。あれは持ち味の凝縮したところだから」。後に野菜居酒屋『いたぎ家』でこの話をしたら、店主のアニさんがえらく感心していたな、そういえば。
*「○○は」と当方の名を呼んで、「酒が好きなんやな。誰に似たのか」。もう時効だから明かすが、これ、まだ未成年のときのこと。次のことばと合わせて翫味されたし。
*「○○」、「もう私は酒をやめた」。おやあんなにがんがん飲んでいたのに・・・といぶかしげな孫の表情をとっくり見て、一呼吸置き、「これからは焼酎にする」とのこと。実際その後も一升酒ならぬ一升焼酎だったらしい。これは孫にも受け継がれている。伝統芸というべきか。
*これは歌江ではなく、遊びに来ていた照枝(てーばーちゃんと呼んでいた)が見せてくれた(語ってくれた?)藝で、豆絞りかなんかの手ぬぐいをちょっと捻って上に投げ上げる。それが落ちて頭に載ると同時に鉢巻になっている、というもの。おそらく寄席で噺家に教わったのではないか。大学で江戸時代の文化について学ぶことになった孫としては、こういった音曲や藝事のはなしをもっともっと訊いておけばよかった、とこれは会わなくなってから度々悔やんだものだ。無論、女三人の漫才として一世を風靡したには違いないが、元は旅藝人ー本人の口からも「河原乞食」という語は聞いた覚えがあるー、古い藝や藝人気質を身を以て知った最後の世代ではないか。たしか米朝師匠も「こんな話出来るのはもうあんたらだけや」とどこかで言ってはった気がする。

 総体に傍若無人な人柄だった。これは貶めるのでもひねって称揚するのでもない。感じたままを形容するならば、そういうことになる。歌江を媒に会う機会があった何人かの芸能人(藤岡琢也大空真弓茶川一郎その他)の記憶と比べてもそう思う。

 記したように近年はまるで交流がなかったから、「生涯現役」というネットの表現に拠るしかないわけだが、そうだとしたら傍若無人また闊達だった祖母にとっては幸せな晩年であった、ということである。

彼の『神学大全』~双魚書房通信(19) 鹿島茂『書評家人生』

 書評本を読むのは人生の一大悦楽だが、無論本に善し悪しはある。でも見分けるのは簡単。風呂場に持ち込む気になるかどうか。これはその気にならない方がいい書評本なのである。スマホでもメモ帳でもいいけど、どんどん読みたい本が出て来て情報を控えておくのに、バスタブくらい不便な場所はないから。

 我らが鹿島茂はどちらに属するか、実はこれがヤヤコシイことになっている。まあ聞いてくださいな。

 いそいそと机に向かい、当方の場合は書籍管理のアプリを立ち上げ、舌なめずりしながらー大抵はバーボンかシェリーをちびちびやりながらー、面白そうな本をチェック、豊饒な収穫に酔いしれる。

 さて、そこから数週間?場合によっては数日(幾月か後のことだってある)経つと、鹿島大人の名調子にどっぷりはまりたくなって、今度はぬるめに立てた湯にちょっといい入浴剤を奢り、「さて書見なと致そうか」とゆっくり頁を繰っていくのである。

 つまりヤヤコシイと言ったのは、理想の書評が持っているべき(往々にして背反しがちな)美質ふたつが鹿島本にはあるからだ。ひとつは読み手の食欲をそそる書物がどれだけ多く紹介されているか。勝率が大事なのである。競馬の予想屋じゃあるまいしとヒンシュクする向きもあるかもしれないが、まずもって書評家に求められるのはいい本を嗅ぎ分ける感覚の冴えである。味覚音痴の料理人はどうしたって大成するわけがない。そして本当にすぐれた料理人がふだん用いないような食材にも新たな味覚天国の可能性を探り当てるように、一級の書評家はジャンルを横断し、こちらがさなくば手に取ることを意識すらしないような本を次から次へと繰りだしてみせねばならぬ。鹿島大人はどんなけ足ながいねん!と感歎したくなる足捌きで書物の世界を優々と渉猟して回ってることは誰しも認めるところだろう。

 しかし、ここからは鯨馬子一箇の好みになるのだが、出来れば書評家にはなにかの背骨または参照枠ー丸谷才一の表現を借りるならホームベースーといったものがあらまほしい。例えば大書評家でもあった丸谷才一その人ならジョイス(つまりモダニズム)と新古今(つまり王朝和歌)。所謂専門の書評家は、関心の幅が広く足取りが軽いのはいいとして、どこか本を見る人間の「眼」が見えてこなくてスナック菓子を食べ終えたあとのような頼りなさが残ることも少なくない(シリル・コノリーのように藝一本で書き抜くならばそれとして見事だけど)。

 その点鹿島茂は言うまでもなく十九世紀フランスの押しも押されもせぬ大家。マンガを論じても日本古典を論じても、バルザックを読み抜いた識見が通奏低音として流れているから、自ずとそれとの対比分析が(無意識にせよ)なされて、結果彼の差し出す評価が普遍的な視点を備えるにいたる、ここが肝腎なのである。

 で、ふたつめの美質。少々誤解を生みそうな表現だが、文章に愛嬌がなければならない。ぬる湯に長々浸かりながら/ブランデーをなめながらじっくり付き合いたくなる、というのはそういうことである。といって、読者に媚態を体するような代物は絶対にダメなのであって、堂々と自分の鑑賞を語りつつ常に相手への説得(恫喝でも詭弁でもなく)という姿勢を忘れない、とはつまり文章に個性があってしかも風通しがよい、うん、これは名文ということですね。鹿島大人は書評というコスパ/タイパが最悪な仕事を、文筆稼業のほぼ始発から営々と続けてきたことについて、本書序文でマゾヒストだからとはにかんでみせているけれど、苦しさ・不機嫌・説教、そういった表情を一切見せずに書物という愉楽について語り続けたその構えは、評者には倫理的とさえうつる。これだけよく見えてしかも考えることが好きなひとが、この時代この世界にあってそうあり続けることにどれだけのエネルギーが必要だったか。

 おそらく鹿島茂の書評本を読み終えて一等感銘を受けるのは、彼の《アンガジュマン》のそうした晴朗さ自体であるに違いない。

 それにしても、これだけ書評の規律(本書でも十一プラス三原則が示される)を明晰に掲げた大書評家の本を書評するのはじつにむつかしい。だいたい一箇所も引用がない時点で、鹿島ルールの⑤に違反してるじゃないか。まあしかし、これは引用し始めると切りがないからと逃げておいて、でもルール③「書店で一度は手に取ってみることを勧める方向で書評する」に関しては「熱烈に勧める」と書き足した上で守れたことにしておきましょう。(青土社