この不都合なる世界~双魚書房通信(18) スティーヴン・グリーンブラット『暴君 シェイクスピアの政治学』~

 グリーンブラットは贔屓の学者。新歴史主義の驍将としては『ルネサンスの自己成型』(高田茂樹訳、みすず書房)、シェイクスピア研究の本領発揮の『煉獄のハムレット』(未訳)といったところか。といってもがちがちの学者先生ではなくて、近くはピュリッツァー賞をとった『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房)など、ルクレティウスの写本発掘というマニアックな話材でぐいぐい読ませる。

 才人がこの薄い一冊で語ったのは「なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?」という問題。もちろんシェイクスピアがどう取っ組んだかを叙していくわけだが、執筆の動機は巻末の「謝辞」(向こうの著者は「あとがき」を付けないからね)に明らかである。


  もう一世紀も前のことのように思えるが、実はわりと最近、イタリアのサルデーニャの新緑におおわれた庭にすわって、私は近々の選挙結果について心配していた。友人の歴史学者ベルンハルト・ユッセンがどうするつもりだと聞くので、「私に何ができる?」と言ったら、「何か書けばいい」と言う。それで、そうすることにした。
 それが本書の発端だ。そして、選挙が最悪の予想どおりになってしまってから、妻のレイミー・ターゴフと息子のハリーが、現在の私たちがいる政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っているという話を私が食卓でするのを聴いて、その話をまとめるとよいと言ってくれた。そうして、本書が書かれた。


 念のため記しておきますと、原著は二〇一八年に出された。そして言うまでもなく著者は「アメリカ合衆国の文芸評論家、ハーバード大学教授」(ウィキペディアの表現)。

 つまり政治的パンフレティアーとしてのデビュー作ということになる。といっても、直接的な批判は出てこない。「現代で言えばスターリンの恐怖政治と何ら変わらない」「カンボジアポル・ポト政権の殺人的構想のように」といった評言は数カ所。そして彼の国のむやみに柄の悪い大統領に対する言及はない。

 『ヘンリー六世』『リチャード三世』『マクベス』『リア王』『冬物語』『コリオレイナス』等を簡潔かつ丁寧に(乱暴でも鈍重でもなく、という辺り、筆力の冴え)読み進めながら、暴君がなぜ誕生するか、という初めに記した問題に迫ってゆく。そこであぶり出されるのは暴君の怪物的なキャラクターもさることながら(個人的には『冬物語』のリオンティーズにふるう鞭は過酷すぎるようだが)、いつの間にか暴君という台風に巻き込まれてゆく、というより、せっせと水蒸気を送ってその勢力を拡大するためにむしろ嬉々として奉仕する周囲の人間たちの動き方である。貴族の保身・計算もある、煽動に手もなく熱狂する民衆の愚昧もある。しかしいずれにせよ、怪物が(しかしそれは本当に怪物なのか?)王冠を戴いたら最後、身分の上下を問わずひとしなみに暴虐の嵐に引きさらわれてしまうわけだから、ずいぶん奇っ怪な力学計算。

 いかにも、暴君の絶対的な孤独については触れられている。しかし全体としてみれば暴君はいわばひとつの真空―台風の「目」―であって、国民(という語をあえて使う)こそが暴君を生み出すという暗澹たる認識が前面に出てきている、というのが素直な読後感。

 とすればこれは政治的パンフレットとしては失敗しているのか?

 私はそうは見ない。あくまでもシェイクスピアの戯曲に即して人物の内面・出来事の展開を批評しつつ、そこに幻術のように現実世界のパノラマを浮かび上がらせようとする、綱渡りのように際どいスタイルを著者が選んだのである。ほぼ確信を持っているのだが、グリーンブラットは、二十一世紀の混沌を叙するにヤン・コットの流儀は(残念ながら)ふさわしくないと断念した末の藝である。

 あえて藝という。シェイクスピアを語りつつ、そこからはブレずに遠くに「現在」を重ね映しするための、緊張に充ちた措辞の選び方にまず評者は、大袈裟にいえば手に汗握る気分だった。

 しかし本当に感嘆させられるのは、遠い異郷(これは日本にとって、ではなく現実のどの国にとっても、ということ)の権謀術数絵巻を通して、二〇二〇年の現実世界がいつのまにやら宮内大臣一座の座付き役者創るところの戯曲世界のように見えてきたことだ。ここでこそ、例の「世界は舞台、人はみな役者」の名台詞を想起すべきであろう。

 もちろんいつか戯曲は終わるのだけれども。(河合祥一郎訳、岩波新書

 

 

 

ウォーかく戦えり

 今月は誰がなんと言おうとウォーの『つわものども』(小山太一訳、白水社)。これは第二次世界大戦を舞台にした「名誉の剣」三部作の一作目。訳者あとがきを見て驚いたのだが、ウォーの邦訳は、『ヘレナ』のような愚作も含め、すべて読んでいたのだった。優雅にして滑稽、辛辣なのは戦前の作風に同じ。思えば『ブライズヘッド』はウォーが唯一失敗も厭わず書いて「しまった」作ではあった(この失敗を、鯨馬は鍾愛している)。ただしこの滑稽や辛辣を諷刺・批判といったあまり上等ではない精神の構えに還元してはならないので、題材が題材だけに、“平生”が平生であり続けられなくなる、あるいは歴史が事実の重みに耐えかねてきしみをたてる、その有様自体を滑稽とみる視線こそが肝要なのである。

 とことごとしく書くのも莫迦莫迦しくなるような、すばらしく面白い小説です。『キャッチ=22』を愉しんだ人は是非どうぞ。いや、『裸者と死者』『俘虜記』『神聖喜劇』の読者にも、にこそおすすめします。

 ついでに気がついたことひとつ。小山さんの訳はいつもどおりに暢達なものだが、本作の会話、特に男の話しことばは『黒いいたずら』の吉田健一訳(訳者あとがきで言及がある)の口調を参考にしたのではないか。

 で、その他の本。
恩田陸『Q&A』(幻冬舎)・・・最後、後日譚に綺麗に収束していくところが少しく迫力不足だったけれど、やっぱり上手いなあ。
この著者では『EPITAPH東京』や本作の系統が好き。
○『おとぎ話の絵画史』(辰巳出版
○『ルネ・シャール全集』(吉本素子訳、青土社)・・・以前西永良成さんによる選集を読んで感嘆した覚えがある。大変な労作である。シュルレアリスムと手を切ったあとの詩がことに素晴らしい。これ、難解なのか。
○小川剛生『二条良基』(吉川弘文館人物叢書)・・・小川さんの本は全部買いである。
○佐野典代『ものがたり茶と中国の思想』(平凡社
○津田良夫・安居院宣昭編『衛生動物の事典』(朝倉書店)・・・「衛生動物」とは蚊やゴキブリのこと。非常に面白かったが、さすがに飯を食いながら読めなかった(いつも食卓には本)。
○ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム 失われた歴史と現在』(三牧聖子・川上洋平訳、青土社)・・・元々ラテン語キケロなど)の用法では、「寛大さ、気前の良さ」という意味で、必ず道徳的責務が伴うという概念だったらしい。こういう歴史的追跡は意外な切り口を見せてくれるのでありがたい。翻訳も良い。
○『本を読む。 松山巌書評集』(西田書店)・・・九百ページもありますの。おかげで読書メモが増えて増えて仕方がない。
ジョン・スラデック『蒸気駆動の少年』(柳下毅一郎訳、河出書房新社奇想コレクション」)・・・『ロデリック』があまりに面白かったので短篇集も読んでみた。いいねえ、このスピード感。ヘンゼルとグレーテルの暗黒版(?)が圧巻。
○さとうかよこ『鉱物きらら手帖』(廣済堂出版
鶴岡真弓編『芸術人類学講義』(ちくま新書
鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて』(PHP研究所)・・・今月は誰がなんと言おうと・・・は使ってしまったが、そうそう!待ってたのよ、こんな本!しかも著者は鹿島茂でないといかんのよ!これだけ闊達に(しかも、じつは周到なのですぞ)プルーストを語れる人は、少なくとも日本では鹿島さん以外には考えられない。「スワン家の方へ」は大好きな巻だから(「ソドムとゴモラ」には劣るが)、堪能しました。岩波文庫吉川一義さんの訳だとまた少し違う角度からの照明も当たるんだろうなあ。
○『フジモトマサルの仕事』(平凡社)・・・2015年に急逝されていたとは知らなんだ。『ちくま』の表紙絵がずらっと並んだページがああもううも言わさず陶然とさせられる。毎日新聞「今週の本棚」の和田誠に匹敵する仕事ではないか。合掌。

 

 

 

素人包丁・月見の巻

 一気に秋らしくなったので、今年の名月はそれらしく眺められたのではないでしょうか。もっとも、せまじきものは宮仕え、当日はあり合わせで酒を暖めた程度。その代わりに、二日遅れの月見料理、中秋の懐石ごっこで一人愉しんだ。

 

 以下膳組の手控え。

 

【飯・汁・向】ひと月ぶりくらいに飯を炊いたので少し固め。こちらの方が好みではあるが、懐石の一文字はやはり所謂「びちゃ飯」でないと感じが出ない。汁は小芋六方・おくら・塩蕨、吸い口はへぎ柚。南部の玉味噌。向は鱧皮と胡瓜もみ。三杯酢の酢には酸橘をしぼって。

 

【椀盛】小鯛一塩・焼き茄子(白茄子の皮を剥いて)・干し椎茸・三度豆・生麩(胡麻)。吸い口は柚輪切り。

 

【焼物】鶉の山椒焼き。※幽庵地(味醂はごく少量)に漬けておく。焼き上がりに山椒の実(塩漬けしたのを塩出しして)をつぶしてあしらう。

 

 ・・・であとは小吸物、八寸となるわけですが、そもそも濃茶ではなく最後まで酒を呑むための料理であるから、このあと肴(強肴?)が続く。懐石「ごっこ」と称する所以であります。まあね、鶉(これは炉の時季だから十一月以降にのみ用いるべきもの)と胡瓜もみを平気で一緒にしているんだから、そういう点でも完全失格であります。

 

 ともあれこの続き。取りあえず酒肴としておきます。

 

【酒肴(一)】〆鯖。普通に醤油を添えたが、酸橘の汁と大根おろしと山葵を混ぜたので和えたら俄然「らしく」なった。

【酒肴(二)】海老と無花果胡麻和え。敬愛する『玄斎』上野直哉さんの本(『四季を和える』)から取った。海老は車海老を塩湯がきして殻を剥いておく。胡麻は練り胡麻白味噌・淡口・砂糖・出汁を合わせたもの。無論師匠(と呼ばせてください!)の足許には及びもつかねど、和え衣のこくが無花果の甘さをぴしっと抑えて、不思議と肴になります。

【酒肴(三)】子持ち鮎の煮浸し。炙って焼き目を付けてから、番茶で炊き、そのあと濃口・酒・ちょっぴり味醂・生姜でくっつりするまで。

【酒肴(四)】障泥烏賊造り。梅肉和えと酒盗和え(酒を入れて煮きる)とで。三つ葉を細かくしたのを混ぜる。かぼすもしぼる。

【酒肴(五)】柿と栗の白和え。柿は角に切って海水程度の塩水に浸けておく。栗は茹でて半分ほどつぶす。甘味は付けない。なのでこれもやっぱり肴になる。

【酒肴(六)】蛸の小倉煮。蛸は別に湯がいておく。小豆を煮て柔らかくなったら蛸の一口切りを加え、濃口・酒・砂糖少々で炊く。食べしなに露生姜。

【酒肴(七)】蟹と菊の酢の物。蟹はワタリ。塩蒸しして身をせせっておく。湯がいた干し菊と混ぜ、たっぷりの柚子果汁と淡口、隠し味程度の山葵。

 

 あとは折良く届いた青森の毛豆(味が濃い)と糠漬け・沢庵。酒はひやおろし三種で七合ほど。夕景はやくに呑みだしたのですが、気がつけばとっくに日付も変わり、慌ててベランダに月を探したことでした。

 

四季を和える―割烹の和えものの展開

四季を和える―割烹の和えものの展開

  • 作者:上野 直哉
  • 発売日: 2013/02/01
  • メディア: 大型本
 

 

 

ナは長月のナ

 めっきり連句興行も少なくなった。消閑の手すさびに最近は俳句を作る。近作ふたつ。

 

野分してすぢりもぢりとこの列島   碧村

野分の朝叛徒等處刑せられたり

 

 

花村萬月『帝国』(講談社

小沼丹『不思議なシマ氏』(幻戯書房)・・・たまにはこういう膝カックン的な小説、いいなあ。

フレデリックルノワールスピノザ よく生きるための哲学』(田島葉子訳、ポプラ社

フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』(吉田晴美訳、河出書房新社)・・・これでもかこれでもかというハリセン調。たまにはこういう扇情本、いいなあ。

○堂本正樹『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)

○木村妙子『三木竹二 兄鴎外と明治の歌舞伎と』(水声社)・・・いい評伝。ついでに石川淳『前賢餘韻』なぞも引っ張り出して読む。読書はこういう形で展開するのがよろしい。

ホッブズリヴァイアサン』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)・・・実はまだ読んでなかった(『ベヘモス』はなぜか読んだ)!

苅部直『基点としての戦後』(千倉書房)

○ベン・ハバード『図説 毒と毒殺の歴史』(上原ゆうこ訳、原書房)・・・読んでるときに、またもノビチョクによる暗殺事件あり。

○レザー・アスラン『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』(白須英子訳、文藝春秋)・・・神は徹頭徹尾人間の自己投影である、というテーゼからスタート。多神教一神教⇒汎神論という、目も彩なばかりの弁証法的展開に鼻白むが、イスラエル人が徐々にヤハウェを「唯一神」に仕立てていったという仮説は興味深い。面白く読めたが、我が神道なぞはどうなるのか。宗教以前ということか。

坪内祐三『みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。』(幻戯書房)・・・結局物書きとして何がしたい人だったのだろう(『靖国』は立派な仕事です)。谷沢永一的なコラムニストが求められなくなった時代に生まれ合わせたのが不幸だったということか。そうかな。

○川戸貴史『戦国大名の経済学』(講談社現代新書

井上順孝『世界の宗教は人間に何を禁じてきたか』(河出文庫

荒俣宏『新編別世界通信』(イースト・プレス)・・・『ジャーゲン』のサブテキストとして。中学生のときに読んで分からなかったのも宜なる哉。

○川北稔編『イギリス史上下』(山川出版社

○マイク・サヴィジ『7つの階級』(舩山むつみ訳、東洋経済新報社

小倉孝保『100年かけてやる仕事』(プレジデント社)

デイヴィッド・ロッジ『作家の運』(高儀進訳、白水社)・・・やっぱりブッカー賞をめぐる内幕が面白い。

大宮勘一郎・橘宏亮『ハインリッヒ・フォン・クライスト 「政治的なるもの」をめぐる文学』(インスクリプト)・・・ご贔屓クライストの、しかも『ミヒャエル・コールハース』も取り上げられていたので嬉しい。この出版社、気合い入ってるねえ。

○J.B.キャベル『ジャーゲン』(中野善夫訳、国書刊行会)・・・『夢想の秘密』『イヴのことを少し』と日本語で読める「マニュエル伝」の中ではこれが一等性に合った。“ファウストの遍歴”モノが好きなんですな、結局。せりふなどは大分凝っている(優雅にして慇懃無礼)と思われるが、もう少し訳文はなんとかならなかったものか。

○水野祥子『エコロジーの世紀と植民地科学者』(名古屋大学出版会)

 

ジャーゲン (マニュエル伝)

ジャーゲン (マニュエル伝)

 

 

 

 

余は如何にして死体となりし乎

 夏は怪談。というのも実はよく分からない結びつきながら、伝統は重んじるたちだから連休中はそれ関連のものばかり読んでいた。いくら名手・傑作揃いといっても、岡本綺堂あるいは内田百閒(その他色々)ばかりではやっぱり飽きてくるから、こういう時はアンソロジーに限る。東雅夫さんが選んだ「文豪ノ怪談ジュニア・セレクション」など、これがほんとにジュニア向けか、という充実の編輯ぶりです。ただ名作選の限界で、どうしても作品の顔ぶれがどこかで見た感じになってくる。そうなるとかえって『青蛙堂鬼談』や『冥途』に戻りたくなるから不思議なものだ。

 

 で、怪談にも飽きるとゾンビ本・ゾンビ映画に切り替える。似てるって?私見によればこの二つは全く世界が異なるのである。幽霊はコワイが、今どきゾンビ映画見て本気で怖がる大人は少ないだろうし(グロいのが気持ち悪いというのは別)、またゾンビは哲学になっても幽霊では哲学できないでしょう?

 

○マキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか』(武田宙也他訳、人文書院)・・・なんかは、ま、中身に別に新鮮味はないんだけど、ゾンビという存在がいかに「問題的」なのかはよく分かる。吸血鬼だの狼男ではこーはいかんでしょーが。

 

 じゃ、ゾンビが発生させる(という表現を使いたい)テーマとはなにか。むろん、いわゆる哲学的ゾンビ(外面の反応は完全に人間と同じだが、意識を持たないという仮定の存在)とか、「不気味の谷」とか、カニバリズムの問題が一方にある。鯨馬は正直こちらの方にあまり興味が無い。やはり面白いのは、《ゾンビがいる世界》である。それはつまり《破滅しつつある世界》である。

 

○ダニエル・W・ドレズナー『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一他訳、白水社)・・・なんかがどんぴしゃ。叙述は結構いちびっているけど、リベラルやネオコンや社会構成主義など、リアルな「枠」に則して分析していて面白い。なかには「ゾンビ疲れ」なんてタームも出てきたりして、こうなったらいやでもコロちゃん騒動を想起せざるを得ないのだが、結局のところユダヤキリスト教的世界観の持ち主でなくとも、終末ないし破滅に否応なく惹かれる(蠱惑される?)のが21世紀的感覚のであるらしい。そういえばコロちゃんがらみの議論でも、なにか悲観的な見方をいうと様になり、逆に楽観的な見通しを述べるとアホのように見えるのは、あれは事態が悪化した場合に「これで日本も終わりです」論だと「そら見てみろ」と威張りやすい(終熄しちゃったらみんな問題を忘れてしまうから楽観論者は威張れない)だけでなく、「一朝ことあれかし」的なアポカリプス待望のあらわれとは言えまいか。

 

 それにしても映画・アニメのゾンビはもう頭打ちなようで、パロディにするか(『ボディ・ウォーム』『ゾンビランド』)、ひたすらSFXでたたき込むか(『バイオハザード』)、いずれにしても古典ゾンビ映画の戦慄はいささか薄れつつあるというのが実感。それに比べて、小説はヴィジュアルのインパクトを持たないぶんまだまだ鉱脈が尽きてるわけでもなさそうで、

 

マックス・ブルックス『World War Z』(浜野アキオ訳、文藝春秋)・・・などは、少し前の作になるけど、未だにこのジャンルでは乗り越えられてないんではないか。まあ、ゾンビ物に限らず小説では世界破滅テーマは存分に揉まれて練られてきたジャンルだもんな。底力が違うのかも知れない。

 

 それ以外の本も少しだけ。

 

冨田恭彦『詩としての哲学 ニーチェハイデッガー・ローティ』(講談社選書メチエ

フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(阿部重夫訳、ハヤカワ文庫)

○鯨井祐士『藤沢周平の読書遍歴』(朝日出版社

○『古井由吉 文学の奇蹟』(河出書房新社

ジャン・デュビュッフェ『文化は人を窒息させる』(杉村昌昭訳、人文書院

レベッカウィーバー=ハイタワー『帝国の島々』(本橋哲也訳、叢書ウニベルシタス、法政大学出版局

狩野博幸『江戸の美しい生物画集成』(河出書房新社

○ジョゼー・サラマーゴ『修道院回想録』(谷口伊兵衛訳、而立書房)

鈴木大拙神秘主義 キリスト教と仏教』(坂東性純・清水守拙訳、岩波文庫

田辺聖子田辺聖子の万葉散歩』(中央公論新社

磯崎憲一郎『日本蒙昧前史』(文藝春秋

黒鉄ヒロシ『天変地異』(PHP研究所

○小川敏男『漬け物博物誌』(八坂書房

末木文美士『日本思想史』(岩波新書

平山蘆江『蘆江怪談集』(ウェッジ文庫

柴田元幸アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書

 

WORLD WAR Z

WORLD WAR Z

 

 

 

ゾンビ襲来:国際政治理論で、その日に備える

ゾンビ襲来:国際政治理論で、その日に備える

 

 

 

 

うつせみ

最近は取りつかれたみたいに八戸ばかり。で、なんとなく青森の方はあっさりとした付き合いという感じだったが、今回は二軒もいい店に出会えた。一泊で二軒というのはかなりの打率ではないでしょうか。

一軒目は古川の市場近くにある立ち飲み屋『十七番』。これは夜ふらつきながら見つけた。しかも開店してまだ二日目。こういう発見の仕方が堪らない。メニュー豊富で何よりお昼からやってるのが嬉しい。次は向かいにある本店(?)の『JustinCoffee』からニボリタン(煮干し入りナポリタン)の出前取ろうっと。

二軒目はイタリア料理の『AlCentro』。青森の名店であり、今更ことごとしく出会いというのは当方が鈍だっただけの話。でも素晴らしかったな。アスパラのパルミジャーノなぞ、のたうちまわるような旨さでした。徹底して青森の食材で揃えてるのも気持ちよく、また一体に、鮑と蕪、甘鯛(松笠焼き)と茄子、また帆立と焼きリゾット(洒落た焼きおにぎりみたいな)など、食感の組み合わせが楽しい。シェフの顔つきもいい。値段は仰天するくらい安い。今度は倍以上払って心ゆくまで食べまくりたい(空港行きのバスの時間が迫っていたのだ)。

 次の旅を思うと気もそぞろ、まるで神戸で仕事をし、炊事洗濯している自分がまぼろしのようでもある。


池上俊一『ヨーロッパの想像界』(名古屋大学出版会)・・・学術的「超」大著なのだが、澁澤龍彦種村季弘の文業に親しんできた人間ならすらすら読める。宮下規久朗さんが「池上氏の集大成」とどこかで言ってらした。まさしくその通り。これで九千九百円はいかにも安い。今回はこれが紹介できればもうそれでいいようなものである。
○J.B.キャベル『イヴのことを少し』(垂野創一郞訳、国書刊行会
○本多不二雄『神木探偵』(駒草出版
○フィリップ・ポール『人工培養された脳は「誰」なのか』(桐谷知未訳、原書房
○『武田百合子対談集』(中央公論新社)・・・ああ、『富士日記』読み返さねば。これをしないと夏という感じにならない。
○森川裕之『京ぎをん 浜作料理教室 四季の御献立』(世界文化社)・・・FBであげましたが、この胡瓜もみは発見でした。
佐伯彰一『作家の手紙をのぞき読む』(講談社)・・・上手いなあ。別に技巧的な名文というのではないのに読ませる。文学史的雑知識がちりばめられ、文学史的スケッチがあちこちに出てくるが、篠田一士ほど水っぽい感じはしない。
橋本治『九十八歳になった私』(講談社)・・・爆笑哄笑のうちに読み終える。合掌。
清水義範『考えすぎた人』(新潮社)
○イザベラ・トゥリー『英国貴族、領地を野生に戻す』(三木直子訳、築地書館
○アリス・ロブ『夢の正体』(川添節子訳、早川書房
鈴木棠三『日本俗信事典 植物編・動物編』(角川文庫)
○三谷博『日本史の中の「普遍」』(東京大学出版会
○アンデシュ・ニューマン他『性的虐待を受けた少年たち』『性的虐待を犯した少年たち』(太田美幸訳、新評論)・・・性的虐待の被害者は加害者になる、という俗説がまさに俗説に過ぎないことがよく分かる。21世紀の世界は合理主義どころか、神話論理の横行する「中世」だということも透けて見える(このコロナの空騒ぎひとつとってもよく分かるが)。
○久水俊和・石原比伊呂『室町・戦国天皇列伝』(戎光祥出版)・・・一般向けの読み物とあって、研究者が苦心してそれぞれの天皇の個性を浮き彫りにしようとしている。日本史の授業では「色々おりました」で済ませるところが、これほど個性強烈な面々ぞろいだったとは。それにしても、朝廷と幕府と有力守護と寺社勢力とがちんちんもがもがやっていた室町って面白いなあ。なんだか江戸時代の勉強しながら、もひとつハマりきれなかった理由が分かった気がする。

 そして、ようやく読みました!

安田謙一『書をステディ町へレディゴー』(誠光社)・・・これは夏季休暇で、冷房の効いた部屋でひっくり返って読むべき本であった。音楽関係の情報はほとんど訳わからんのだが、なんだろうこの心地よさ。鯨馬と生活圏(とゆーか漫歩圏か)が重なっているみたいなので、どこかで著者と遭遇することを期待してます。ちなみに、なんとなくうらびれたオッサンを想像してたのですが(失敬!)、裏見返しの写真を拝見するに、めさダンディーなオジサマだったのが、またなんか外された感じで、これも笑えた。

 さてそろそろお盆。皆様は如何お過ごしの予定ですか。鯨馬は夏の休暇(といってもたかだか四日)に備えて、若島正さんの『乱視読者』シリーズをチェックしなおして書名をリストアップし、また新訳が出た『モーセ一神教』、それにアランの芸術論ふたつ(『芸術論20講』『芸術の体系』、いずれも光文社古典新訳文庫)を入手しております。それと高橋宏幸さんの手になるオウィディウス『変身物語』(西洋古典叢書京都大学学術出版会)第二巻も。これはイキがよくて、大古典も愉しんで読めます。あとはビールと酒とワインとシェリーとバーボンとラムと・・・。

 

 

ヨーロッパ中世の想像界

ヨーロッパ中世の想像界

  • 作者:池上 俊一
  • 発売日: 2020/03/05
  • メディア: 単行本
 

 

 

書をステディ町へレディゴー

書をステディ町へレディゴー

 

 

うににまみれるうりに淫する~コロナに抗して孤独旅②~

 前日の夜においたしなかった(ちょっとだけした)功徳で、朝早くから目覚める。これ幸いと市バスに飛び乗って陸奥湊駅へ。陸奥湊の朝といえば『みなと食堂』。あまりに有名すぎる店なので実は今まで敬して遠ざけていた。店前に行列が出来ているのも気ぶっせいでしてね。この日も行列があればやめておくつもりだった。

朝食その① 平目漬け丼・・・いちばんの名物。飯の上に切り身がびっしり。真ん中には卵黄。魚の色はうっすら染まっているくらいなのに、口にするとしっかり味が付いているのが不思議。半分はそのままで、もう半分は卵黄をまぶしながらかき込む。よくぞ瑞穂の国に生まれける。
朝食その② 生海胆丼・・・朝飯のお代わり、それもコメの飯をお代わりするなぞ、普段の食生活からすれば異常であるが、この季節に八戸に来た上からは、これくらいせねばならんのだ(さすがに飯は減らしてもらいましたが)。後半は何故か目をつぶって食べてしまう。よくぞ瑞穂の国に生まれける。

 毒食らわば皿まで。海胆食らわばトゲまで。二度あることは三度ある。その②があるなら③もある。「余はこの時すでに常態を失しなつてゐる」(『倫敦塔』)。

 倫敦塔をさまよう夏目漱石のごとく、余の足はいつのまにか駅前の市場へと向かっていたのであった。

朝食その③・・・気がつけば余の前には焼き海胆、〆鯖、筋子、焼き鰈、漬け物、メカブの汁が並んでいるのであった。丼飯を取らずに缶ビール及び冷酒としたところに、いくばくかの理性を見て取って頂きたい(冷酒の二杯目にはそこはかとない狂気を感じて頂きたい)。

 中心街に戻った時点でまだ8時半過ぎ。時間に余裕があるので、櫛引八幡宮方面のバスに乗ってみた。市街からかなり離れた場所なので、これまで行けなかったのだ。

 mamoさん曰く、「霊媒師の友人が言うには『あそこはホンモノ』」。生来不敏にしてホンモノ/ニセモノの別は分からぬながら、森厳な空気と深い杉木立は結構なものでありました。

 再び中心街に戻って、銭湯で汗を流すと、不思議なものですねえ、何故かもう昼飯の時分どきになっているのですねえ。

 というわけで。

昼食  ロー丁(鷹匠小路)『ぼてじゅう』・・・立派な作りの鮨や。ここでもやっぱり海胆を頼む。大盛りでお願いします。ビールは早々に切り上げて、冷酒をくいくいやる。海鞘もお願いします。あ、鮑も。これで八戸夏の三人衆は制覇せり。

 中略して晩飯。といっても略するほどのこともなくて、百貨店の食料品売り場と本屋を何軒か回ってホテルでうとうとしたら、もうそういう時間だったのだ。不思議と食慾があるのは要するにとち狂っていたということであろう。

 お目当ての『鬼門』も『南部もぐり』も一杯だったので、居酒屋系は諦めて少し気取ったような店に入る。ここでは、

夜①・・・生海胆、船冷鯖刺し、糠塚胡瓜、なめた鰈煮付け

 しかし海胆も銀鯖もここでは実は当て馬的な役回りなのであった。本命は糠塚胡瓜。初めて食ったときに驚倒した覚えがあり、これが品書きにある店を探し歩いた挙げ句の再開である。

 いわゆる胡瓜の1.5倍ほどの太さ。皮はむいて供する。ワタをとるとメロン顔負けの涼やかな香りがよろしく、取らずに出せば高雅な苦みを楽しめる。いずれにせよ、シャクシャクとパリパリの中間のような食感は凡俗の胡瓜には真似手のないもので、味噌を付けてかじっているといつまでも酔わずに呑めるという気持ちになってくる(←すでに酔っている)。八戸でもごく限られた地域でしか採れないのだそうな。これはいつまでもそうあって欲しいもの。

夜②・・・なので、八戸では毎回訪れるおでんや『蜘蛛の糸』でもこれがあったのに驚喜する。冷酒もいいが、麦焼酎オンザロックスなぞにも抜群に合う。もっとも胡瓜にコーフンしていると、横のお客さんが出前で取ったから、とパスタを分けて下さった。海胆のクリームパスタである。なんだか胡瓜にうつつをぬかしているのに、海胆氏がヤキモチをやいて押しかけてきたような按配であった。

夜③・・・八戸の夜はこの日まで。種差海岸の風景をぼんやり思い出しながら、みろく横丁で「としろ」(鮑の内臓の塩辛)をなめつつ、三たび糠塚胡瓜。「もうこのシーズンは海胆はいいかな」などつぶやきつつ。

※翌日の八食センターでは性懲りもなく生海胆をいちまいぺろりと平らげておりましたが。